第51話 王は半分しか目を開かない
王命が下った翌朝、私は北区記録倉の薄い寝台で目を覚ました瞬間、自分の胸元に勅書がないことを確認してしまった。
実際には、勅書はサラが鍵つきの保管箱へしまっている。
私が抱いて寝るようなものではない。
わかっている。
わかっているのに、目覚めて最初に気にしたのがそれだったことに、自分で少し嫌気が差した。
王都の数えへ引きずり込まれる、というのは、こういうことなのかもしれない。
まだ何もしていないのに、紙が先に存在を決める。
その紙が手元にあるかどうかで、自分の輪郭まで変わったように感じる。
「顔がさらに悪くなっています」
起き上がると、すでに身支度を終えたエナが言った。
「褒め言葉か?」
「いいえ。観察です」
「王都の観察は痛いんだよ」
「知っています」
北区の朝は、宮城より少しだけ人間臭い。
倉番たちが扉を開け、荷を運び、湯を沸かし、紙束を棚から下ろしている。
生活が仕事の形をしているのではなく、仕事の中へ生活が押し込まれている感じだ。
だが今朝は、その北区ですら少し張っていた。
私の王命が、もう倉街にも伝わっているのだろう。
実際、廊下で会った若い倉番が、私を見るなり目を逸らした。
敬意ではない。
あまり近づきたくないものへ向ける視線だった。
「すごい広まり方だな」
私は言った。
「王命って」
「王都は、重要なことほどひそかに広がります」
ネムが紙束を抱えて現れながら答える。
「叫ぶ必要がない。皆、そういう情報に耳が早い」
「もう“読手”扱いか」
「ええ。正式に」
「やめてくれ」
朝食は薄い粥と塩気の強い干し肉だった。
王都の食事はいつも、腹を満たすより“動ける状態を保つ”ことを優先している気がする。
おいしさは後回しだ。
それが王都の人間の顔つきを作っているのかもしれない。
食事のあと、セリオから使いが来た。
宮城へ。
行き先は半身の間ではなく、王の側近が集まる小執務室らしい。
「また会うのか」
私は使いに聞いた。
「王とです」
彼は短く答えた。
「今日は、見る日ではなく働く日なので」
「昨日のうちに言ってくれ」
「王都では、日が変わると話も変わります」
そのまま私たちは宮城へ戻った。
もはや北区と宮城のあいだを往復すること自体が、私の仕事になりつつある。
境界の橋に立つ者。
サラの言葉が嫌に現実味を帯びてきていた。
宮城の奥、昨日とは別の回廊を進む。
半身の間へ近いが、完全には接続していない位置にある小執務室へ通された。
そこは王のための部屋というより、王を“運用する”ための部屋に見えた。
机が二つ。
棚には封じられた勅書箱。
壁には鐘観測の一覧。
窓辺には白い花ではなく、水盤。
そして中央の低い長椅子に、王が座っていた。
昨日より顔色は悪い。
いや、顔色というもの自体が薄い。
彼は相変わらず痩せていて、侍従がひとり、少し後ろに控えている。
だが今日は完全に半身を預けてはいなかった。
自分で起きている。
そのぶんだけ、消耗も激しそうだった。
「おはようございます」
王が言った。
「……おはようございます」
私も答える。
昨日より近い距離だった。
近いせいで、余計にわかることがある。
王は両目を開けてはいる。
だが、完全には同じように開いていない。
右の目のほうが、ほんのわずかに深く沈んでいる。
眠いのでも病んでいるのでもない。
“半分しか目を開いていない”という表現が、比喩ではなく身体の印象としてあった。
王は私の視線に気づいたらしく、少しだけ口元を動かした。
「気になりますか」
「……はい」
「目が」
「はい」
「半分しか開いていないように見える」
私は答えずにいたが、王は頷いた。
「よく見ていますね」
「見たくなくても見える」
「そうでしょう」
侍従が顔を伏せる。
この部屋では、王が自分の異常をあまり隠さないらしい。
それは信頼なのか、あるいはもう隠しきれないからなのか。
「王は半分しか目を開かない」
王は自分でそう言った。
「そう記した古い記録があります」
「物理的に?」
「最初は比喩だったのでしょう」
「今は?」
「たまに、かなり本当です」
私は少しだけ息を吐いた。
やはりこの国では、比喩は遅れて本当になる。
「井戸の歌も」
王が続ける。
「昔は“王だけが民の底の声を聞く”という比喩だったのだと思います」
「今は」
「本当に聞こえる。聞こえないときもある」
「最近は聞こえない」
「はい」
王は水盤のほうへ目を向けた。
そこにはごく浅く水が張られているだけだ。
だが、水面は静かすぎて鏡のようだった。
王の顔が半分だけ、歪んで映っている。
「だから」
王は私へ視線を戻した。
「あなたには、私の代わりに聞いてもらうだけでなく」
一拍、置く。
「私が何を聞けなくなっているのかも見てほしい」
それは昨日の頼みより、もっと厄介だった。
聞くだけではなく、“聞けないこと”まで見る。
欠損の輪郭そのものを読めと言われている。
「俺は医者じゃない」
私は言った。
「知っています」
「祈祷士でもない」
「ええ」
「埋葬官でもない」
「そうですね」
「じゃあ何なんだ」
王は少しだけ考えるように沈黙し、それから答えた。
「まだ、外にいる人です」
その言葉が、妙に胸へ刺さった。
王都の内にいながら、まだ外にいる。
門の数えにも完全には入っていない。
だから見えることがある。
同時に、だからこそ危うい。
私は王を見た。
半分しか目を開かない君主。
制度に削られた人。
だがその削られた場所から、かえって正確な言葉だけが出てくる。
それが、この男を余計に痛々しく見せていた。




