第50話 王命、下る
その夜、北区記録倉へ戻った私は、しばらく誰ともまともに目を合わせられなかった。
王の頼みは、命令ではなかった。
少なくとも言葉の形としては。
だが、この国で王が「頼む」と言うことの重さは、たぶん命令より厄介だ。命令ならまだ拒絶の形式がある。頼みは、相手の良心や理解に入り込む。
しかもあの王は、自分がもう断れない場所にいる人間の顔で、それを言った。
井戸の歌を聞いたら、自分の代わりに跪いてほしい。
それが何を意味するのか、王自身すら断言しなかった。
ただ「少なくとも、私はそう願っている」と言った。
少なくとも。
この国では、その前置きのあとにろくなことが来ない。
北区記録倉の一室では、サラが帳面を閉じ、ネムが新しい照会票へ印を入れ、エナが白い花の傷み具合を見ていた。
みな仕事をしているように見えて、実際には私の帰りを待っていたのだろう。
扉を閉めた瞬間、三人の視線が一度にこちらへ集まった。
「どうでした」
ネムが最初に問う。
「短かった」
私は答えた。
「でも短いほうが嫌な話だった」
「王が何を」
エナが低く言う。
私は少し黙ってから言った。
「井戸の歌を聞いたら、王の代わりに一度跪いてほしい、と」
部屋の空気が、ゆっくり重くなった。
サラが最初に顔をしかめる。
「それは」
「まずい?」
私は問う。
「まずいをどこから数えるかによる」
「王都らしい答えだな」
「王都に住んでるからね」
ネムは紙を机へ置いたまま、しばらく動かなかった。
「王が“頼み”の形で?」
「そうだ」
「命ではなく」
「少なくとも、口では」
エナが白い花を持ったまま、私を見ていた。
黒い目だった。
だが、その奥にははっきりした緊張がある。
「受けましたか」
「いや」
「断りましたか」
「それもしてない。聞きました、だけだ」
「……そうですか」
その返事に、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
全面的に安堵したわけではない。だが、まだ取り返しがつく範囲に留まっている、という程度の安堵だった。
ネムが静かに言う。
「王の代わりに井戸の前へ跪く。それは古い王権儀礼の周辺にあります」
「周辺?」
「正式な即位儀礼そのものではありません。ですが、王が都の渇きや嘆きを受け取るとき、井戸や水盤の前で膝を折る記録が残っています」
「つまり」
私は言った。
「かなり王っぽいことをやらされる?」
「はい」
ネムは即答した。
「かなり」
私は額を押さえた。
「やっぱり最悪だな」
「ええ」
サラが頷く。
「でも、王本人が頼んだなら、別の意味もある」
「どういう」
「自分ではもう受け取れないってことさ」
その言葉は、半身の間で見た王の顔と重なった。
疲れて、削られて、薄くなって、それでも感覚の鋭いところだけが残っている男。
王都の井戸の歌を、自分はもう聞けない。
だから外から来た私へ頼む。
それは権力の行使であると同時に、欠損の告白でもあった。
「王の耳が欠けている」
エナが小さく言った。
「墓の言葉どおりに」
「そうだな」
「なら、王命は別の経路を取るかもしれません」
「別の経路?」
そのとき、まるで待っていたみたいに、扉が強く叩かれた。
全員がそちらを見る。
サラが警戒しながら開けると、宮城の使いが立っていた。灰銀の外套、封じられた板筒。息は切れていない。走ってきたのではなく、急いでいるが走ってはいけない種類の使いだ。
「宮廷埋葬部次官より急達」
使いが言う。
「異邦人真柴遼へ」
私の名を、きちんと全部呼んだ。
少しだけ背筋が伸びる。
使いは板筒を私へ差し出した。封には王章。今度はひびがない。少なくとも見た目には。
「今ここで?」
私が言うと、使いは頷く。
「立会いの上で」
ネムとサラが近づき、エナも私の隣へ来た。
封を切る。
中に入っていたのは、短い勅書だった。
行数は少ない。だが、嫌な重みだけは十分にある。
私は目で追った。読める。
いや、今回は普通の王都文書としても意味がわかる。
「何て」
サラが促す。
私は口を開いた。
「“異邦人真柴遼を、井戸観測および墓記録照合の臨時読手に任ず”」
沈黙。
私は続きを読む。
「“以後、宮廷埋葬部および監査局は、当人の観測・読解を正式記録として扱うこと”」
ネムが目を閉じた。
サラは低く舌打ちした。
エナは何も言わない。ただ、花を持つ指先だけが少し強くなった。
「……王命だな」
私は自分で言った。
「ええ」
ネムが答える。
「完全な」
「頼みじゃなかったわけだ」
「頼みを、制度が拾いました」
それが王都だ。
個人の言葉が、手順を通ると命になる。
しかも今回は早い。
早すぎる。
半身の間での会話が、その日のうちに勅書へ変わっている。
「ちょっと待て」
私は紙を持ったまま言った。
「王本人がそこまで明言したわけじゃない」
「ですが、王の意志として整えられた」
ネムが答える。
「この国では、その差が命令系統です」
「最悪だ」
「はい」
私は勅書の末尾へ目を落とした。
印はある。
今度はひびも見えない。
けれど、読みたくないのに読めてしまった。印の縁、ほんのわずかな朱のにじみに、別の意味が浮く。
――頼みしもの、命として下る。
――耳なき王に代わり、井戸へ跪け。
私はしばらく、その一文から目を離せなかった。
「読める何かがあるのか」
エナが低く問う。
私は息を吐いた。
「……ある」
「言って」
「“頼みしもの、命として下る。耳なき王に代わり、井戸へ跪け”」
サラが顔をしかめた。
「最悪の公式化だ」
「王命、下る、か」
ネムが乾いた声で言う。
「しかも、割れずに」
「割れてないように見えるだけかもしれない」
私が言うと、彼は小さく頷いた。
「その通りです」
使いはすでに用件を終えた顔で一礼し、去っていった。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、勅書と、白い花と、しんとした夜気だけだった。
私は椅子へ座り込んだ。
王の頼みは、王命になった。
私はもう、読まされるだけの異邦人ではいられない。
臨時とはいえ、正式な“読手”として王都の記録へ組み込まれたのだ。
「断れるのか」
私は誰にともなく言った。
「形式上は難しいでしょう」
ネムが答える。
「ですが、どう読むかまでは命じられません」
その言葉だけが、わずかな救いだった。
跪くことは命じられても、何を意味として受け取るかまでは、まだ私の内側に残っている。
エナが私の前へ来て、白い花を机へ置いた。
「リョウ」
「ん」
「王命は下りました」
「そうだな」
「でも、あなたの名まで下ったわけではありません」
私はゆっくり顔を上げた。
黒衣の少女は、真面目な顔でこちらを見ている。
「それを忘れないでください」
彼女は言った。
「命じられた役と、あなたが誰かは、まだ同じではない」
その言葉で、少しだけ息ができた気がした。
北区記録倉の外で、夜の鐘がひとつ鳴った。
今夜の音は沈まない。
だが、それがかえって、明日以降に沈むものの予告みたいに聞こえる。
王命、下る。
それは物語の節目であると同時に、私が王都の数えへ本格的に引きずり込まれた瞬間だった。




