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やわらかな王の墓  作者: たむ


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50/111

第50話 王命、下る

 その夜、北区記録倉へ戻った私は、しばらく誰ともまともに目を合わせられなかった。


 王の頼みは、命令ではなかった。

 少なくとも言葉の形としては。

 だが、この国で王が「頼む」と言うことの重さは、たぶん命令より厄介だ。命令ならまだ拒絶の形式がある。頼みは、相手の良心や理解に入り込む。

 しかもあの王は、自分がもう断れない場所にいる人間の顔で、それを言った。


 井戸の歌を聞いたら、自分の代わりに跪いてほしい。

 それが何を意味するのか、王自身すら断言しなかった。

 ただ「少なくとも、私はそう願っている」と言った。

 少なくとも。

 この国では、その前置きのあとにろくなことが来ない。


 北区記録倉の一室では、サラが帳面を閉じ、ネムが新しい照会票へ印を入れ、エナが白い花の傷み具合を見ていた。

 みな仕事をしているように見えて、実際には私の帰りを待っていたのだろう。

 扉を閉めた瞬間、三人の視線が一度にこちらへ集まった。


「どうでした」

 ネムが最初に問う。

「短かった」

 私は答えた。

「でも短いほうが嫌な話だった」

「王が何を」

 エナが低く言う。


 私は少し黙ってから言った。

「井戸の歌を聞いたら、王の代わりに一度跪いてほしい、と」

 

 部屋の空気が、ゆっくり重くなった。

 サラが最初に顔をしかめる。

「それは」

「まずい?」

 私は問う。

「まずいをどこから数えるかによる」

「王都らしい答えだな」

「王都に住んでるからね」


 ネムは紙を机へ置いたまま、しばらく動かなかった。

「王が“頼み”の形で?」

「そうだ」

「命ではなく」

「少なくとも、口では」

 

 エナが白い花を持ったまま、私を見ていた。

 黒い目だった。

 だが、その奥にははっきりした緊張がある。


「受けましたか」

「いや」

「断りましたか」

「それもしてない。聞きました、だけだ」

「……そうですか」


 その返事に、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。

 全面的に安堵したわけではない。だが、まだ取り返しがつく範囲に留まっている、という程度の安堵だった。


 ネムが静かに言う。

「王の代わりに井戸の前へ跪く。それは古い王権儀礼の周辺にあります」

「周辺?」

「正式な即位儀礼そのものではありません。ですが、王が都の渇きや嘆きを受け取るとき、井戸や水盤の前で膝を折る記録が残っています」

「つまり」

 私は言った。

「かなり王っぽいことをやらされる?」

「はい」

 ネムは即答した。

「かなり」


 私は額を押さえた。

「やっぱり最悪だな」

「ええ」

 サラが頷く。

「でも、王本人が頼んだなら、別の意味もある」

「どういう」

「自分ではもう受け取れないってことさ」

 

 その言葉は、半身の間で見た王の顔と重なった。

 疲れて、削られて、薄くなって、それでも感覚の鋭いところだけが残っている男。

 王都の井戸の歌を、自分はもう聞けない。

 だから外から来た私へ頼む。

 それは権力の行使であると同時に、欠損の告白でもあった。


「王の耳が欠けている」

 エナが小さく言った。

「墓の言葉どおりに」

「そうだな」

「なら、王命は別の経路を取るかもしれません」

「別の経路?」

 

 そのとき、まるで待っていたみたいに、扉が強く叩かれた。


 全員がそちらを見る。

 サラが警戒しながら開けると、宮城の使いが立っていた。灰銀の外套、封じられた板筒。息は切れていない。走ってきたのではなく、急いでいるが走ってはいけない種類の使いだ。


「宮廷埋葬部次官より急達」

 使いが言う。

「異邦人真柴遼へ」


 私の名を、きちんと全部呼んだ。

 少しだけ背筋が伸びる。

 使いは板筒を私へ差し出した。封には王章。今度はひびがない。少なくとも見た目には。


「今ここで?」

 私が言うと、使いは頷く。

「立会いの上で」

 

 ネムとサラが近づき、エナも私の隣へ来た。

 封を切る。

 中に入っていたのは、短い勅書だった。

 行数は少ない。だが、嫌な重みだけは十分にある。


 私は目で追った。読める。

 いや、今回は普通の王都文書としても意味がわかる。


「何て」

 サラが促す。


 私は口を開いた。


「“異邦人真柴遼を、井戸観測および墓記録照合の臨時読手に任ず”」

 

 沈黙。

 私は続きを読む。


「“以後、宮廷埋葬部および監査局は、当人の観測・読解を正式記録として扱うこと”」

 

 ネムが目を閉じた。

 サラは低く舌打ちした。

 エナは何も言わない。ただ、花を持つ指先だけが少し強くなった。


「……王命だな」

 私は自分で言った。

「ええ」

 ネムが答える。

「完全な」

「頼みじゃなかったわけだ」

「頼みを、制度が拾いました」

 

 それが王都だ。

 個人の言葉が、手順を通ると命になる。

 しかも今回は早い。

 早すぎる。

 半身の間での会話が、その日のうちに勅書へ変わっている。


「ちょっと待て」

 私は紙を持ったまま言った。

「王本人がそこまで明言したわけじゃない」

「ですが、王の意志として整えられた」

 ネムが答える。

「この国では、その差が命令系統です」

「最悪だ」

「はい」


 私は勅書の末尾へ目を落とした。

 印はある。

 今度はひびも見えない。

 けれど、読みたくないのに読めてしまった。印の縁、ほんのわずかな朱のにじみに、別の意味が浮く。


 ――頼みしもの、命として下る。

 ――耳なき王に代わり、井戸へ跪け。


 私はしばらく、その一文から目を離せなかった。


「読める何かがあるのか」

 エナが低く問う。

 私は息を吐いた。

「……ある」

「言って」

「“頼みしもの、命として下る。耳なき王に代わり、井戸へ跪け”」

 

 サラが顔をしかめた。

「最悪の公式化だ」

「王命、下る、か」

 ネムが乾いた声で言う。

「しかも、割れずに」

「割れてないように見えるだけかもしれない」

 私が言うと、彼は小さく頷いた。

「その通りです」


 使いはすでに用件を終えた顔で一礼し、去っていった。

 扉が閉まる。

 部屋に残ったのは、勅書と、白い花と、しんとした夜気だけだった。


 私は椅子へ座り込んだ。

 王の頼みは、王命になった。

 私はもう、読まされるだけの異邦人ではいられない。

 臨時とはいえ、正式な“読手”として王都の記録へ組み込まれたのだ。


「断れるのか」

 私は誰にともなく言った。

「形式上は難しいでしょう」

 ネムが答える。

「ですが、どう読むかまでは命じられません」

 

 その言葉だけが、わずかな救いだった。

 跪くことは命じられても、何を意味として受け取るかまでは、まだ私の内側に残っている。


 エナが私の前へ来て、白い花を机へ置いた。

「リョウ」

「ん」

「王命は下りました」

「そうだな」

「でも、あなたの名まで下ったわけではありません」

 

 私はゆっくり顔を上げた。

 黒衣の少女は、真面目な顔でこちらを見ている。


「それを忘れないでください」

 彼女は言った。

「命じられた役と、あなたが誰かは、まだ同じではない」

 

 その言葉で、少しだけ息ができた気がした。


 北区記録倉の外で、夜の鐘がひとつ鳴った。

 今夜の音は沈まない。

 だが、それがかえって、明日以降に沈むものの予告みたいに聞こえる。

 王命、下る。

 それは物語の節目であると同時に、私が王都の数えへ本格的に引きずり込まれた瞬間だった。

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