第43話 謁見前夜
香の匂いのする牢から出されたのは、日が沈んでからだった。
結局、私は完全に気を失うことも、名を取り落とすこともなかった。
だが、王都と村と宮城の井戸が、同じ水脈みたいに頭の中でつながる感覚だけは残った。
オルはそれを「門がまだお前を削り切っていない証拠」と言った。慰めになっているのかいないのか、相変わらず判断に困る。
北区記録倉へ戻るころには、空はほとんど黒に近い灰色だった。
骨魚の影は見えない。
だが、見えないぶんだけ近い気がする夜だった。
戻ってすぐ、セリオが私たちを集めた。
机の上には新しい封書がひとつ。王章の封。ひびは入っていない。少なくとも表向きには。
「明日」
セリオは短く言った。
「あなたは王に会います」
部屋が静かになった。
わかっていたことではある。
だが、実際に言葉になると重さが違う。
「やっとか」
私は言った。
「遅いくらいです」
セリオが答える。
「あるいは、早すぎる」
「どっちだ」
「両方でしょう」
エナは黙っていた。ネムは紙へ何かを記し、サラは腕を組んだまま天井を見ている。
誰も歓迎していない。
王に会うことが栄誉でも救いでもないと、この場の全員が知っている。
「謁見の形は通常と異なります」
セリオが続ける。
「大広間ではなく、半身の間」
「名前からして嫌だな」
「王の均衡が崩れているため、公的な大謁見は開けません」
「半身の間って」
私が問うと、ネムが答えた。
「王が公と私のあいだに留まるための小間です」
「つまり、まだ完全に王で、完全に人でもない場所」
「そうです」
その言葉はひどくこの国らしかった。
何もかもが半分で、境目に置かれ、完全なものを恐れる。
「俺はそこで何をする」
「見る」
セリオが言った。
「聞く」
「読む」
エナが続けた。
「そして」
ネムが低く言う。
「おそらく、選ばないように努める」
「……最悪だな」
私は椅子へ深く座り直した。
王に会う。
半身の間。
読む。選ばないように努める。
要するに、王墓が私へ投げた問いが、とうとう生きた王の前へ持ち込まれるのだ。
「準備とかあるのか」
私は訊いた。
「礼法は最低限だけ教えます」
セリオが答える。
「ひざまずく位置、目線、返答の長さ」
「返答の長さ?」
「長すぎると私に聞こえ、短すぎると墓に聞こえる」
「何言ってるかわからない」
「王都ではよくあります」
私はもう抗議する気力も少なかった。
サラが口を開いた。
「王に会う前の夜は、皆だいたい眠れない」
「経験あるのか」
「私はない」
「じゃあ何で言う」
「見てきたから」
北区の倉番らしい答えだった。
自分ではなく、人の記録で物を言う。
「リョウ」
エナが静かに呼ぶ。
「何だ」
「明日、あなたが何を見ても、すぐ言葉にしなくていいです」
「どういう意味だ」
「墓の言葉と、人の顔は、たいてい合いません」
私は彼女を見た。
黒衣の少女は疲れているはずなのに、目だけは妙に冴えていた。
「王は、かわいそうな人かもしれません」
彼女は言う。
「でも、かわいそうなだけでは済まない」
「知ってる」
「そして、あなたが王をどう見るかは」
彼女は少しだけ言いよどんだ。
「墓がどう読むかと、同じではないかもしれません」
それは、今の私にとって一番大事な釘かもしれなかった。
読むことと、同意することは別。
見えることと、選ぶことも別。
この国では、その境目がすぐ溶ける。
だからこそ意識して切り分けないといけない。
夜の北区記録倉は静かだった。
だが静けさの底には、明日の重さが沈んでいる。
王墓。井戸。供花。ひび割れた勅令。名を失った兵士。二輪の花。
全部が、半身の王へつながっていく。
私は寝台へ横になった。
眠れる気はしない。
天井の木組みを見ながら、自分の名前を心の中でゆっくり繰り返す。
真柴遼。
この名前で、明日、王の前へ立つ。
異邦人でも読手でもなく、まだ少しはこの名前のままで。
外で低く、鐘が一度だけ鳴った。
沈まない、普通の時刻鐘。
その普通さが、かえって不穏だった。
嵐の前は、案外こういう音がいちばんまっすぐ届くのかもしれない。
謁見前夜。
王都は低い天井の下で眠らず、私はその真ん中で、自分がまだ誰であるかを確かめ続けるしかなかった。




