第42話 香の匂いのする牢
門務記録室での確認が終わると、私はそのまま外門の脇にある別棟へ案内された。
別棟、といっても立派な建物ではない。低い石造りの細長い棟で、窓は高い位置に小さく二つ。外から見れば倉か詰所に見える。
だが中へ入った瞬間、私は顔をしかめた。
「……香だ」
鼻を刺す、甘く乾いた匂い。
寺院の線香にも似ているが、もっと湿っている。木と花と古い布を一緒に燻したような香りだ。
「入都留めの房です」
オルが言う。
「王都へ入り切らぬ者を、一時的に置く」
「要するに牢じゃないか」
「香を焚いてある分だけ丁寧だ」
「全然慰めになってない」
房は三つ並んでいた。
完全な監獄ほど頑丈ではないが、扉は内から開かず、格子は細かい。
石床には藁の薄い敷き物。壁際に水差し。
そしてどの房の前にも、小さな香炉がひとつずつ置かれている。
「香は何のために」
エナが低く問う。
「名を留めるため」
オルが答えた。
「あるいは、名を薄めるため」
「どっちだ」
私が即座に言うと、老人は肩をすくめた。
「入ってみればわかる」
最悪だった。
私は房の一つへ通された。
完全に閉じ込めるつもりらしいが、セリオとエナ、ネムは格子の外へ残っている。完全な独房ではなく、観察室のような扱いだ。
「ここで何をする」
私が問うと、オルは水盤から柄杓で水をすくい、房の前に一滴だけ垂らした。
「門が、お前をどこまで受け入れているかを見る」
「どうやって」
「香と沈黙で」
「説明不足にもほどがあるな」
香炉の煙が細く立ちのぼる。
部屋全体に甘い匂いが広がり、頭の奥が少し鈍くなる。
危険な香ではないのだろうが、何かを緩ませる匂いではある。
「入都留めは」
オルが言う。
「王都へ来た者のうち、数えが定まらぬ者を一時止めるための古い手順だ」
「今も使うのか」
「滅多に使わぬ」
「じゃあ何で俺に」
「滅多にないからだ」
そのとおりすぎて腹が立つ。
香が濃くなるにつれ、妙な感じがしてきた。
眠いわけではない。
ただ、自分が“どこからここへ来たか”の輪郭が少しぼやける。村、関所、宿場町、宮城、北区。順番は覚えているのに、距離感が曖昧になる。
「リョウ」
エナの声が格子越しに届く。
「自分の名前、言えますか」
「真柴遼」
「もう一度」
「真柴遼」
「出身は」
「……日本」
「それは国の名です。最初にいた場所は」
「会社……いや、違う。非常階段」
言ってから、自分で少しおかしくなった。
最初にいた場所。会社ではなく、あの夜の非常階段。
そこから落ちて、森へ着いた。
だが香の中では、その順番が少し頼りない。
「反応は出ていますね」
ネムが記録しながら言う。
「何の」
私が睨むと、彼は少しだけ気まずそうに咳払いした。
「入都留めでは、個人の起点が揺れることがあります」
「やっぱり牢じゃないか」
「香の匂いのする牢です」
「言い換えただけだろ」
オルは房の外から私をじっと見ていた。
「門はな、祝福もするが、削りもする」
「昔は祝福があったって話か」
「ええ。名と水と塩を与えた」
「今は?」
「与える前に、何を持ち込んだかを見る」
その考え方はわかる。
わかるが、やはり気持ち悪い。
王都は入る者を歓迎しない。先に削り、分類し、持ち込まれたものの危うさを測る。
そして今、私の中の何かを測っている。
香の匂いが、また少し強くなる。
ふいに、私は村の井戸のそばへ立っている気がした。
首を抱く王の石像。
低い屋根。
空を見上げぬ村人たち。
だが次の瞬間には、宮城の古井の鉄格子が脳裏へ割り込んでくる。
井戸と井戸が、同じ場所みたいに重なる。
「おい」
私は自分のこめかみを押さえた。
「ちょっと、順番が」
「言わなくていい」
エナが強く言った。
「そのまま息を」
珍しく切迫した声だった。
「何が起きてる」
私は格子へ近づいた。
「井戸が重なる。村と王都の井戸が」
「香が、あなたの入都以前の接点を拾っているのかもしれません」
ネムが言う。
「接点?」
「王都に“まだ入っていない”部分が、どこで王都と触れたか」
私は唇を噛んだ。
それなら最初からだ。
森の根。村の井戸。墓標。
私は王都へ入る前から、この国の中心とつながっていたのかもしれない。
オルが小さく言った。
「門が低いのは、人の頭を下げさせるためだけではない」
「何だ」
「外から持ち込まれたものが、どこまで内と通じているかを探るためだ」
香の匂いのする牢。
ここは単なる拘束房ではない。
王都の門そのものの機能を、小さく濃くした部屋なのだろう。
通る前に削る。
入れる前に測る。
そして私のように、すでに王都の外で王都に触れてしまった人間の、“接点”を炙り出す。
香炉の煙が、ゆっくりと格子の隙間を抜けていった。




