第40話 祝福なき入都
夜が更ける少し前、私はひとりで北区記録倉の表へ出た。
見張りはついている。完全な自由ではない。だが倉の前の小さな石段に立つくらいなら許された。
北区の空は暗い。宮城よりは少し広いはずなのに、低さはあまり変わらない。骨魚の影は今は見えないが、いないわけではないと肌が知っている。
石段へ腰を下ろし、私はふと、自分がこの都へ入ったときのことを思い返した。
監査局預かり。宮廷埋葬部照会案件。
警務に囲まれ、物証に近い扱いで門をくぐった。
祝福も歓迎も一切なかった。
いや、この都に祝福を伴う入都など本当にあるのだろうか。
扉が開き、サラが出てきた。
片手に薄い杯を二つ持っている。
「飲む?」
「酒?」
「違う。薄い茶」
「紛らわしいな」
「この都では、酒はもっと後ろ暗く飲む」
私は杯を受け取った。
温かい。香りは弱いが、少しだけ草の青さがある。
北区の夜気の中で、その温度はありがたかった。
「入都のとき、歓迎はなかっただろ」
サラが唐突に言った。
「まあな」
「王都では普通だ」
「知ってる」
「でも、昔は違ったらしい」
私は横目で彼女を見る。
「昔?」
「古い記録では、都へ初めて入る者には祝福があった」
「どんな」
「名と水と塩を与える」
「普通だな」
「普通がいちばん難しい」
サラは石段の一段上へ腰を掛けた。
「今は違う。名は薄くなる、水は選別される、塩は配給札と一緒だ」
「ひどいな」
「だから“祝福なき入都”」
私は杯を傾けた。
薄い茶が喉を通る。
王都に入ったとき、私はただ検分され、札を掛けられ、所属を仮登録された。
名を与えられるどころか、名ではなく“異邦人”や“読手”という役に押し込まれてきた。
「祝福が消えたのはいつからだ」
私が問う。
「はっきりは知らない」
サラが答える。
「でも、王が半分死ぬのが制度として固まった頃だと言う人はいる」
「つまり、王都へ入る者も最初から半分、役に取られるようになった」
「そうかもね」
その考えは妙にしっくりきた。
入都とは単に街へ入ることではなく、王都の数え方へ入ることだ。
祝福ではなく登録。歓迎ではなく査定。名ではなく札。
この都に足を踏み入れる時点で、人は少しずつ“王都のもの”に変換され始める。
遠くで、車輪のきしむ音がした。
北区の夜の荷馬車だろう。
遅くまで何かが運ばれ、仕分けられ、戻され、置かれる。
この都は昼も夜も、入ってきたものをそのままにはしない。
「リョウ」
不意にサラが言った。
「何だ」
「祝福がないってことは、逆に言えば、まだ祝福されてないってことでもある」
「慰めになってるのか?」
「半分だけ」
私は少し笑った。
「残り半分は?」
「王都の席に完全には染まってない」
それは、たしかに少しだけ救いだった。
まだ私は入都しきっていないのかもしれない。
この都にいる。記録されている。狙われている。
それでも、王都の数え方へ完全には馴染んでいない。
扉の内側で、エナの声がした。
「リョウ」
呼ばれる。
固有名で。
そのことが、ひどくありがたかった。
振り返ると、エナが入口に立っている。黒衣の襟元を少し直しながら、こちらを見ていた。
「次官から使いです」
「ろくでもないな」
「ええ」
「内容は」
「明朝、王都の門をもう一度見せる、と」
「門?」
「あなたの入都は、まだ終わっていないそうです」
私は杯を持ったまま固まった。
「どういう意味だ」
「わかりません」
「本当にこの国は」
「はい」
エナが頷く。
「だいたい後から意味になります」
祝福なき入都。
だが、まだ終わっていない入都。
王都の門をもう一度見せる。
それが歓迎のやり直しでないことだけは、たぶん確かだった。
私は残りの茶を飲み干し、立ち上がった。
北区の低い空は沈んだままだ。
けれどその下で、私の名前を呼ぶ声だけは、まだ都の札より先に届いていた。




