第36話 名を失った兵士
翌朝、北区記録倉へひとりの兵士が運び込まれた。
運び込まれた、という表現が一番近い。
両脇を支えられて歩いてはいるが、自力で来たとは言いがたい。
鎧は脱がされ、黒い下着姿の上に毛布を掛けられている。顔色は悪く、左腕には昨日の襲撃で見た青白い痕とよく似た、細い白筋が浮いていた。
「襲撃でやられた兵だ」
サラが短く説明する。
「宮城側の療治では扱いきれない。北区で観察」
「何で北区に」
私が問う。
「数えに関わる症状だから」
ネムが答えた。
兵士は簡易寝台へ寝かされた。
年は二十代半ばくらいか。日に焼けた顔だが、今は血の気がない。
目は開いている。だが焦点が少し遠い。
「聞こえるか」
サラが顔を寄せる。
兵士は一度、こちらを見た。
「はい」
「名前は」
沈黙。
兵士は唇を動かし、何かを言おうとする。
だが出てきたのは、掠れた息だけだった。
「隊名は」
ネムが問う。
「……北……第二」
「所属は覚えてる」
「名前だけ抜けた?」
私が言うと、エナが頷いた。
「ありえます」
私は寝台のそばへ寄った。
「昨日の襲撃のとき、お前、何を見た?」
兵士の喉が上下する。
「火が……白く……」
「骨灯?」
「違う。火なのに……冷たくて」
「そのあと」
「誰かが、呼んだ」
その言葉で、部屋が少し静かになった。
「名前を?」
エナが問う。
「……たぶん」
兵士は目を閉じる。
「でも……返事をした気がするのに……何で返したかが」
「返した相手がわからない?」
「はい」
私は毛布の上に出た彼の手を見た。
爪の色は悪くない。だが白筋は、腕から肩のほうへ少し伸びているように見える。
昨日より進んでいるのかもしれない。
「名を失った」
エナが低く言った。
「完全ではありませんが」
「そんな簡単に起きるのか」
私が聞くと、ネムが答えた。
「簡単ではないから、北区へ回されたのです」
「慰めにならない」
「王都の説明は大体そうです」
サラは兵士へ水を飲ませたあと、小さな木札を何枚か取り出した。
番号札だろうか。
彼女はそれを兵士の前へ並べ、順に指さす。
「これは?」
「六」
「これは」
「一」
「これは」
兵士は少し迷い、首を振った。
「……知ってるのに……名前がついてこない」
数はわかる。所属も残っている。
だが固有名だけが抜けている。
王都らしい抜け方だ、と私は思った。
個人名だけが薄くなり、席と番号だけが残る。
「王都ではたまにあります」
サラが言う。
「骨魚の影、根の粉、王墓近辺の夜勤、骨灯の事故。条件はまちまちだけど、先に落ちるのは大体、名」
「戻るのか」
「軽ければ」
「重いと?」
「番号で呼ばれる」
兵士はそれを聞いているのかいないのか、天井を見たまま口を動かした。
「母が……俺を何て呼んでたか……」
その声の弱さに、私は胸の奥が鈍く痛んだ。
エナが寝台の脇に座り、白い花を一輪取り出した。
「まだ口には入れません」
彼女は私たちへ向けて言う。
「でも、名を引き留める助けになるかもしれない」
「そんなことできるのか」
「わかりません」
「本当にこの国、わからないことだらけだな」
「はい」
彼女は花を兵士の手へそっと握らせた。
「あなたはまだ死んでいません」
静かな声だった。
「だから、戻るなら今です」
兵士は花を見た。
白い花弁を、初めて見るものみたいに。
それから、ほんのわずかに目を細めた。
「……ニ」
「何だ」
私は身を乗り出した。
「ニ……」
兵士は眉を寄せる。苦しそうに。
「ニ、か?」
サラが問う。
「違う……似てる……」
言葉はそこで切れた。
彼は深く息を吐き、また何かを失った顔になる。
ネムが紙へ記録しながら言う。
「名の回復は断片から始まることがあります」
「断片」
「音、匂い、呼び方、家族の癖、古い傷。名そのものではなく、名の周辺から」
「仕事みたいだな」
「仕事も似たようなものです。人は名前で雇われ、番号で整理される」
私は彼を睨みかけたが、反論しきれなかった。
名を失った兵士。
昨日まで護衛として動き、所属も役目もあった人間が、今は番号札には反応し、母親の呼び名だけを追っている。
この国で名を薄くすることは、習いであり、防御でもある。
けれど奪われる名は、ただ薄くするのとは違う。
本人の輪郭そのものが削られていく。
「俺も危ないのか」
ぽつりと私が言うと、エナはすぐには答えなかった。
「……少なくとも」
やがて彼女は言った。
「あなたは今、何度も名ではなく役で呼ばれています」
「読手とか、異邦人とか」
「はい」
「自覚はある」
「なら、まだ大丈夫です」
その“まだ”が嫌だった。
だが、嘘よりましでもあった。
兵士は白い花を握ったまま、浅い眠りのようなものへ落ちていった。
寝息はある。生きている。
でも、どこまで戻れるのかはわからない。
私は彼の寝顔を見ながら、自分の名前を心の中で一度だけ唱えた。
真柴遼。
音にしてみれば短い。
こんな短いものが、人間を人間に留める最後の縁になることもあるのだと、その朝初めて実感した。




