第35話 眠らない関所
北区記録倉での夜は、宮城の夜と少しだけ質が違った。
宮城は静かに緊張していたが、北区は静かに働き続けている。どちらも眠ってはいない。ただ、宮城が呼吸を潜めた獣の背中なら、北区は火を落とした鍛冶場の余熱みたいな夜だった。
倉の奥では誰かが帳面を繰り、別の部屋では荷の数を数える声がする。廊下を歩く足音は少ないが、途切れない。王都では、眠りもまた勤務形態のひとつなのかもしれなかった。
私は簡易寝台に腰を掛け、昼間見た境界の橋を思い返していた。
数の早い者、数の遅い者。
橋をまたぐのは人ではなく、帳面だ。
考えれば考えるほど、王都は街というより巨大な選別装置に見えてくる。
扉が二度、軽く叩かれた。
サラだった。片手に小さな灯りを持ち、もう片方に紙束を抱えている。
「起きてる?」
「この国で早く寝るのは損な気がする」
「正しい」
彼女は中へ入ってきた。
「北区外縁の関所記録が届いた」
「また嫌なやつか」
「嫌じゃない記録は届く前に埋まる」
それもひどく王都らしい言い方だった。
紙束の中には、北区と外縁居住区のあいだにある小関所の夜間通行記録が混じっていた。私は受け取り、ざっと目を通した。
通行人の数、荷の種別、配給車、棺一つ、巡礼二人、修道士一人、戻らず。
その最後の二文字で手が止まる。
「戻らず?」
私が問うと、サラが頷いた。
「北区の夜間関所は、通すより戻すためにある」
「橋のとこか」
「ええ。あそこから先は“遅い者”の側。夜に渡るなら理由がいる」
「でも記録には通ってる」
「通って、そのまま戻らない者がいる」
私は顔を上げた。
「どういう意味だ」
「そのまま居住区へ消える。あるいは、影へ紛れる」
「影?」
「骨魚の影」
エナも起きていたらしく、隣の寝台から静かに起き上がった。
「夜間関所が眠らないのは、そのためです」
「知ってるのか」
「地方にも似たものがあります。村はずれの道に立つ見張り。夜の巡礼や、戻らない葬列を数えるための」
「戻らない葬列って」
「順番から外れた棺です」
私は紙をもう一枚めくった。
時刻と通行内容の欄に、奇妙な注記がある。
午前零刻後、北影一巡。通行人五、数え四。
「何だこれ」
私は紙を見せる。
「五人通ったのに、数えは四?」
サラが肩をすくめた。
「関所番もそう書いてる」
「ミスじゃないのか」
「夜の関所で一番嫌われる言葉は“ミス”だよ」
「じゃあ何だ」
「数え落ち」
エナが紙をのぞき込み、低く言った。
「骨魚の影が巡った後ですね」
「だから一人、影のほうへ」
「あるいは」
サラが補う。
「最初から人として数えられていなかった」
私はその紙をしばらく見つめた。
眠らない関所。通った者を戻し、影をまたいだ者を数え直す場所。
村と王都、中心と外縁、どこへ行っても関所はある。
人の移動を管理するだけではない。
何が人で、何が荷で、何が死者で、何が影に吸われたのかを、そこで選別しているのだ。
「王都って」
私はぽつりと言った。
「道より関所のほうが多い気がするな」
「気のせいじゃない」
サラが答える。
「この都は、行く先のために道を作るんじゃない。止めるために関所を作る」
その一言は、橋の石柱よりずっと王都を言い当てている気がした。
ネムが別室から入ってきた。徹夜の顔がさらに薄くなっている。
「その記録、私にも」
紙を受け取り、一目見て眉を寄せる。
「“通行人五、数え四”……」
「前例は?」
私が聞くと、彼は数秒黙った。
「公的にはほぼありません」
「私的には?」
「あります」
「どっちだよ」
「王都ではそういうことが多い」
ネムは紙束をめくり、別の通行票を抜いた。
「三年前、南外縁の関所で同様の記載があります。“葬列二、棺三”。」
「一個多い」
「ええ。そして、その年の継承記録に一件の空白がある」
「……やめろよ」
「やめたいですが、紙がやめません」
エナが椅子へ浅く腰かけた。
「関所は眠らない」
「うん」
「眠れないのだと思います。通ったはずのものが、通った数と合わなくなるので」
私は窓のほうを見た。外は暗い。骨魚の影は見えない。
だが今この瞬間も、どこかの関所で関所番が数を数え、通した者の足音を聞き、通ったはずなのに合わない数字に怯えているのかもしれない。
「この紙、王墓に見せたらどうなるんだろうな」
私が言うと、ネムが乾いた声で答えた。
「たぶん、予言ではなく記録として受け取られます」
「そうだろうな」
私はその言葉で、ぞっとするほど納得してしまった。
王都の関所は眠らない。
なぜなら、この国では夜のあいだに、人や死や影の数がずれるからだ。
関所は門ではない。
夜のずれを、朝までにどうにか帳面へ押し込めるための傷口なのだろう。




