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やわらかな王の墓  作者: たむ


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34/56

第34話 境界の橋

 北区の記録倉へ移って最初の夜、私はサラという倉番女に連れられて、倉庫街の外れまで歩いた。


「気分転換です」

 彼女は言った。

「あるいは下見」

「どっちだ」

「両方」


 北区の通りは、中心部より人が少ない。

 夕方の仕事を終えた荷運び人、倉番、修道士くずれみたいな男、記録束を抱えた下役。皆、足早に帰っていく。見上げない癖はここでも同じだが、目つきは中心より少し鈍い。疲れているが、緊張し続ける体力までは残っていない目だ。


 サラは細い石道を抜け、小さな橋へ私たちを案内した。

 橋の下に水はない。

 代わりに浅い溝があり、白い石が敷かれている。

 ところどころに黒ずんだ筋が走り、古い水路か排水路に見えた。


「橋?」

 私は言った。

「川じゃないだろ」

「昔は水が流れていました」

 サラが答える。

「今は記録が流れます」

「何だそれ」

「冗談です」

「この国でその手の冗談やめろ」

「半分だけ冗談」


 橋の向こうは、北区とさらに外れの居住区の境らしい。

 低い柵があり、古びた石柱が左右に立っている。

 また文字が刻まれていた。

 私は近づかなくても読める気がした。


 ――ここより先、数の遅い者の居。

 ――ここより内、数の早い者の倉。


「境界文です」

 サラが言う。

「北区は倉の街。外れは人の街」

「言い方がひどいな」

「ですが合っています」

 

 私は石柱を見た。

 数の早い者。数の遅い者。

 人を住む場所で分けるのではなく、制度に届く速度で分けているみたいな言葉だ。


「数が早い、って」

「王都に近い記録へすぐ載る者たちのことです」

 サラが答える。

「役人、倉番、兵、埋葬官、配給係、記録係。死んでも生きても、数字へなりやすい」

「数の遅い者は?」

「日雇い、流民、家族単位の労働者、外縁から押し出された者たち。何か起きても、まずは数にならない」

 

 私は少し言葉を失った。

 見捨てられやすい北区ですら、さらにその外に“数の遅い者”の居住区がある。

 王都という都市は、中心から外縁へ向かうほど価値が下がるのではなく、“どれだけ早く制度に変換されるか”で層を作っているのだ。


「橋ってそういう境目か」

 私が言うと、サラは頷いた。

「ええ。王都の橋は大体、川ではなく帳面をまたぎます」

「気持ち悪いな」

「正しい感想です」


 橋の真ん中へ立つと、遠くで鐘が鳴った。

 今夜は沈まない。普通の時刻鐘だ。

 だが、その音が橋の上では少し違って聞こえる。

 北区側からは乾いて、外れ側からは鈍い。

 境界ひとつで、同じ鐘の響き方まで違う。


「ここ、何かあるな」

 私は言った。

「何が」

「境界の橋っていうより、境界そのものが薄い」

「そうです」

 サラはあっさり答えた。

「昔はこの溝に水が流れ、骨や灰を運んでいた」

「……」

「埋葬区から出る残滓です。名にならないもの、数に乗らないもの、切り落とされたもの」

「やめろよ」

「やめません。知るべきです」


 私は橋の欄へ手を置いた。石は冷たい。

 王都では、どこへ行っても境界が死とつながっている。

 人の住む区画も、倉庫も、井戸も、墓廊も。

 都市全体が巨大な分類装置だ。


「なぜ俺をここへ」

 私はサラに聞いた。

「読手がどこに立たされているか知るためです」

「境界に?」

「そう。あんたは今、数の内でも外でもない」

「ありがたくないな」

「でも、その立場だから見えることもある」


 サラは橋の向こう、数の遅い者の居住区を見た。

 灯りは少ない。煙も薄い。

 生きているが、王都の書式から少し離れた場所の色だった。


「中心の人間は、数になる速さばかり見ます」

 彼女は言う。

「外れの人間は、数にならないで済む日を見ます。橋に立つ者だけが、その両方を見る」

「俺に橋役をやれって?」

「もうやってるでしょう」


 返す言葉がなかった。

 墓を読み、井戸の歌を聞き、王都の中心と辺境の村と、両方の異変をつないでいる。

 たしかに私は、嫌でも境界に立たされている。


 エナが橋の欄干に手を置き、低く言った。

「橋の向こうは、骨魚の影が長く留まります」

「なぜ」

「数が遅いからです」

「そんな理由あるか」

「王都ではあります」


 私は空を見上げそうになり、やめた。

 見上げなくても、低い天井の気配はそこにある。

 上から影が落ち、下では灰が流れ、橋の上だけがそのあいだをつないでいる。

 この国の境界は、ただ場所を区切るためにあるのではない。

 何を早く数え、何を遅らせ、何を見捨てるかを決めるためにある。


 橋の下の古い溝を見下ろしながら、私は思った。

 数え直しが始まっているなら、こういう境界から先に壊れるのかもしれない。

 早い者と遅い者、王と墓、名と席、生者と死者。

 全部を区切ってきた橋が、先に揺らぐ。


 その揺れの上に、今の私は立っている。

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