第31話 骨魚の影を踏む
監査局へ戻るころには、王都の空がさらに低くなっていた。
実際に下がっているわけではないのだろう。
だが建物の屋根と灰色の天井のあいだの距離が、朝より狭く見える。人々の歩幅まで少し縮んだように感じられるのは、私の気分だけではないはずだ。
襲撃で負傷した兵は途中で別棟へ運ばれ、私たちは裏口から監査局へ入った。
石の廊下を抜け、またあの応接室へ押し込まれる。
今度は外からだけでなく、部屋の内側にも見張りが置かれた。完全に要注意人物の待遇だ。
「大人気だな、俺」
私は椅子へ倒れ込むように座った。
「歓迎されています」
ネムが真顔で言う。
「絶対違うだろ」
ハルヴァはすぐに別室へ消え、襲撃の報告と照合に回った。
残されたのは私とエナ、ネム、そして扉脇の警務一名。
部屋の中は静かだが、緊張の濃度は高い。
「襲ってきたのは誰だと思う」
私が問うと、ネムは少し考えて答えた。
「候補は三つです」
「珍しく具体的だな」
「一つ、王墓を神聖視する急進的な信徒。二つ、王都の秩序が崩れることを望む政治勢力。三つ、その両方を装う別の誰か」
「だいたい全部嫌だな」
「王都ですから」
私はため息をつき、窓の外を見た。
格子越しの狭い空。
その上を、大きな影が一つ横切った。
骨魚だ。
「また低い」
私が言うと、エナも窓辺へ近づいた。
「今日は近すぎます」
「昼でも?」
「はい」
影が建物の壁を這う。
その影を、中庭を横切っていた下役のひとりが踏んだ。
ほんの一瞬、影が足元を通っただけだ。
だが、下役はぴたりと立ち止まり、手にしていた書類束を落とした。
「おい」
私は立ち上がった。
「大丈夫か」
窓越しで声は届かない。
下役は何かを忘れた顔をしていた。
いや、“何かを落とした”顔だ。
足元を見て、自分の手を見て、空を見上げかけて、結局見上げきれずに視線を下ろす。
「骨魚の影を踏んだ」
エナが言う。
「時間を食われたかもしれません」
「何が起きる」
「すぐにはわかりません」
中庭の別の下役が駆け寄り、書類を拾い、声をかける。
影を踏んだ男は二、三度瞬きをし、それから自分がどこへ向かっていたか忘れた人みたいに立ち尽くした。
「気持ち悪いな」
私は率直に言った。
「ええ」
エナが答える。
「正しい感想です」
やがて男は連れられて中へ戻っていった。
中庭には落ちた書類の一枚だけが残り、風もないのに少しずつ格子のほうへ滑ってきた。
私はその紙を目で追いながら、ふと自分の足元を見た。
村からここまで、私は何度も骨魚の影を見た。
踏んでいたとしても気づいていないかもしれない。
時間を食われる、という言葉を思い出す。老いる、眠る、何日も変わらない――。
あの下役は、さっき何を落としたのだろう。数分か、数時間か、それとももっと別のものか。
「リョウ」
エナがこちらを見る。
「何だ」
「あなた、森で最初に骨魚の影に入りましたか」
「……入った気がする」
「どれくらい」
「一瞬だと思う」
「思う、ですか」
「覚えてない」
エナは何も言わなかった。
だが、その沈黙が逆に嫌だった。
「何かまずいのか」
「影を踏んだ人は、ときどき“順番の感覚”がずれます」
「順番の感覚?」
「前後が曖昧になる。まだ起きていないことに親しみを持ったり、もう終わったことへ驚いたり」
「それ、かなり危ないな」
「はい」
私は十三王墓の言葉を思い出した。
十三が空けば、十四は王である。
第十四の王が死んだという記録。
まだ起きていないことと、すでに起きたことが、この国ではよく入れ替わる。
もし骨魚の影がそれに関わっているなら――。
「骨魚って、王墓とつながってるのか」
ネムが答えた。
「古い説では、上空を泳ぐ骨魚は、地下の根の裏返しです」
「裏返し」
「地上の王国を、上下から挟んで支えるもの」
「趣味が悪いな」
「建国時からだいたいそうです」
窓の外で、また別の影が建物の上を横切った。
今度は誰も踏まない。
中庭の者たちは皆、影が過ぎるまで立ち止まり、壁際へ寄っていた。慣れているのだろう。慣れたくない知恵だ。
私は椅子へ戻り、深く息を吐いた。
襲撃。白い根。沈む鐘。空を見上げぬ村人たち。骨魚の影。
この国の異常は、ひとつひとつが別の怪異ではなく、全部同じ制度の別の顔に見えてくる。
王墓が地下で息をし、骨魚が空で影を落とす。
下からも上からも、王国は何かに数えられている。
扉が開き、ハルヴァが戻ってきた。
その顔を見て、よくない知らせだとすぐわかった。
「襲撃犯の一人が見つかりました」
「一人?」
私が問う。
「死亡していました」
「口封じか」
「あるいは失敗前提の捨て駒」
「王都らしいな」
「ええ。ただし、持ち物に興味深いものが」
彼は小さな布包みを机へ置いた。
中から出てきたのは、白い粉の付いた骨片と、半分に割れた小さな王冠の護符だった。
「宿場町で売ってたやつに似てる」
私は言った。
「“身の丈以上の役を押しつけられないようにする”護符」
「護符の意味まで?」
ハルヴァが眉を上げる。
「物売りがそう言ってた」
「……なるほど」
エナがその護符を見つめた。
「王を避ける護符」
「そうだ」
「なのに異邦人を墓へ返せ、と襲う」
「矛盾してるな」
「いえ」
彼女は低く言った。
「王にしたくないのかもしれません」
部屋が静かになる。
私はすぐに笑い飛ばせなかった。
十三王墓の言葉、巡礼老人の二重の十三、供花の二列。
誰かが私を“墓へ返したい”理由が、もし単なる排除ではなく、王位の数えから外したいという意味なら――。
格子の外を、また骨魚の影が過ぎた。
今度は誰も踏まない。
だが私は、影が去ったあとも、自分の足元だけ少し冷たい気がしていた。




