第29話 空を見上げぬ村人たち
翌朝、宮城の空気は妙に乾いていた。
灰色の天井は相変わらず低いはずなのに、石壁にしみつく湿気だけが少し薄い。夜のあいだ、十三王墓が鐘を吸い、白い根が脈を強め、宮城のどこかの均衡をまた削ったのだろう。そんなふうに考える自分に、私はすでに少し慣れ始めていた。慣れたくない類の現実ほど、人間は早く順応する。
朝の控え間には、ハルヴァとネムが先に来ていた。
机の上に地方からの追加報が二通、王都内部の観測票が三通、そして骨魚の低空巡回図が一枚。
嫌な朝にふさわしい書類の量だった。
「おはよう」
私が言うと、ネムは徹夜明けの顔で頷いた。
「ええ。よく眠れない朝です」
「この国、眠れる朝のほうが少ないんじゃないか」
「王都ではそうかもしれません」
ハルヴァが紙束の一番上を指で押さえた。
「地方報告です。村から追加」
「古文書庫の件か」
「ええ。崩落そのものより、崩落後の村の様子が妙です」
私は椅子へ腰を下ろした。エナもその隣に立つ。
「何て」
ハルヴァは文面を読み上げる。
「“夜半より村人の多数が戸外へ出るも、誰ひとり空を見上げず。村道を無言で往復。井戸の周りへ白花を置き、また家へ戻る。問うても理由を答えず”」
「……何だそれ」
私は顔をしかめた。
「夢遊病か」
「代筆者はそう見ていません」
ハルヴァが紙を裏返す。
「追記。“空を見ぬのは普段どおりだが、今朝は明らかに目線が低すぎる。井戸の縁だけを見ている”」
エナの表情が少し変わった。
「井戸」
「村にもあったな」
私は言う。
「首を抱いた王の石像のそば」
「はい」
「そこへ花を?」
「供花ではなく……」
エナは言いよどみ、紙を見た。
「たぶん、返礼です」
「返礼?」
「井戸へ」
ネムが低く言った。
「王都の古井と地方の井戸が、同じ系統に属している可能性はあります」
「王都の井戸の底の歌と?」
「ええ。中央が濃く、地方が薄いだけで」
私は村の井戸を思い出した。
首を抱く王の石像、その足元の井戸、空を見ない村人たち。
最初はただ生活習慣だと思った。けれどあの村全体が、もっと前から王墓の末端へ触れていたとしたら。
「村人たちが空を見ないのは」
私はゆっくり言った。
「骨魚が怖いからだけじゃないのかもな」
「どういう意味です」
ハルヴァが問う。
「井戸のほうを見てるなら、空より下に何かあるってことだろ」
「井戸が空の代わり?」
ネムが呟く。
「あるいは、空から落ちるものの受け皿」
エナが目を伏せる。
「村では、子どもに言います。“空を見ると骨魚に見つかる。井戸を見ると王に見つかる”と」
「何だそれ」
「脅しです」
「十分すぎる」
「でも今思えば」
彼女は続けた。
「師は、あれをただの脅しと考えていなかったのかもしれません」
ハルヴァが別の報を開いた。
「もうひとつあります。“昨夜、村外れにて白鈴の老人を再度目撃。老人は『下を見る者は二度数える』と発言”」
「またあのじいさんか」
私は額を押さえた。
「好き勝手出てくるな」
「会いたくて会える者ではない、と先ほど聞きました」
ネムが淡々と言う。
「だからこそ厄介です」
私は報告書を受け取り、自分の目でも読んだ。
代筆者の文字は震えている。慌てて書いたのだろう。
けれど文面は簡潔で、変に飾られていない。それがかえって不気味だった。
「空を見上げぬ村人たち、か」
私は紙を机へ戻した。
「元からそうだったとしても、今は“理由つきで”見てない感じがする」
「はい」
エナが頷く。
「村人たちは多分、何かを避けるためではなく、何かを待つために井戸を見ています」
「何を」
「わかりません」
「この国、そればっかりだな」
「本当にそうです」
沈黙が少し続いた。
私はふと、自分があの村へ落ちた最初の朝を思い出した。
誰も空を見ず、値踏みの目で私を眺め、井戸のそばの王像だけが首を抱いていた。
あれは辺境の閉塞ではなく、王都の病の縮図だったのかもしれない。
「王都だけの問題じゃないな」
私は言った。
「数え直しが始まってるのは国全体だ」
「その認識でよいでしょう」
ハルヴァが答える。
「だからこそ、地方を切り離して考えられない」
「じゃあ戻るべきじゃないのか」
「今はまだ無理です」
「だろうな」
エナは机上の供花を一本手に取り、しばらく見つめていた。
白い花弁の奥で、何かを思い返している顔だった。
「リョウ」
「ん」
「村へ落ちたとき、井戸は見ましたか」
「遠目には」
「中は」
「見てない」
「なら」
彼女は小さく息をついた。
「見なくてよかった」
その言い方が妙に真剣で、私は返事ができなかった。




