第110話 王都に朝が戻る
仮座が崩れたあとの王都は、驚くほど普通に朝を迎えた。
鐘が鳴る。
沈まない。
骨魚の影は遠い。
市場は開く。
北区の倉は動き、配給列もできる。
誰かがパンを焼き、誰かが塩を量り、誰かが花を束ねる。
そのどれもが、少し前まで奇跡みたいに遠かった“普通”だった。
半身の間から出た私は、しばらく自分がまだ地面を踏んでいることを確かめるみたいに歩いた。
足は重い。
頭も痛い。
だが、王都の空気の圧が、明らかに一段薄い。
「終わった?」
私は北区記録倉の石段で、サラから渡された茶を受け取りながら言った。
「終わってないよ」
サラが答える。
「でも、一つ閉じた」
「仮座か」
「たぶんね」
たぶん。
最後まで、この都はその言葉を手放さない。
けれど今朝ばかりは、その“たぶん”が前よりずっと良い意味に聞こえた。
ネムが正式記録の控えを持ってきた。
やはり補注だらけだった。
“未定位影、消失状態へ移行”
“半身の間西回廊の供花数、安定”
“古井の歌、弱”
“王位周辺異常、暫定鎮静”
ひどく弱い文言ばかりだ。
だが、それでいいのだろう。
強く書けば、また形を持たせすぎる。
「王は?」
私が問うと、ネムは答えた。
「寝ておられます」
「今度はちゃんと?」
「はい。今朝は」
その“今朝は”に、私は少し笑った。
完全な回復ではない。
王が半分死ぬ制度も、耳の欠損も、井戸の歌も、消えたわけではない。
それでも、王が自分の顔を呼び戻し、仮座を閉じ、都に朝が戻った。
それは十分に大きい。
エナは祠から戻した白花の残りを、北区の棚へ四本だけ置いた。
五本目はない。
彼女の顔は少し疲れている。
だが、前より“誰かの候補”ではなく、“彼女自身”に見えた。
「君は」
私は言った。
「大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
彼女は率直に答えた。
「でも、まだ私です」
それで十分だった。
村の石の首は、埋葬部の指示で再び村へ戻されることになった。
今度は“王都が顔を失ったときの保管物”として、正式な隠匿記録だけを残して。
誰のものにもせず、ただ預かる。
そのやり方が、この国には必要なのだろう。
王都に朝が戻る。
それは大団円ではない。
問題は山ほど残っている。
王が半分死ぬ制度も、影を生む仮座も、顔を預ける村も、名を置かない夜も。
どれも根本からなくなったわけではない。
ただ今は、ひとつの崩れ方を先送りできた。
そして、その先送りがこの国では確かな救いになる。
私は茶を飲み干し、空を見上げかけて、やめた。
王都でその癖が抜けたわけではない。
でも、見上げなくても少しだけわかる。
空はまだ低い。
それでも今日は、落ちてこない。




