表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やわらかな王の墓  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
109/111

第109話 遼、名を置く

 仮座を閉じるための夜は、思ったより静かに始まった。


 大きな異変は起きない。

 鐘も沈まない。

 影も立ち上がらない。

 井戸の歌もここまでは届かない。

 その静かさが、逆に不気味だった。

 王都は本気で何かを閉じるとき、まず音を減らすのだとわかってきた。


 王は座にいた。

 息は浅い。

 けれど逃げない。

 それだけで、半身の間の均衡がどうにか保たれている。


 やがて、石床の影がふたたび濃くなり始めた。

 立ち上がるのではない。

 滲み出すように、空席の輪郭へ沿って広がる。

 形を取り戻そうとしている。

 顔は失った。

 だから今度は、別の入り口から来るつもりなのだろう。


「名だ」

 エナが低く言った。

「何?」

「今夜は顔じゃない。名のほうから来ます」

 

 私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 村の井戸で聞いた“まだない名前”。

 あれが王都側の仮座へ結びつけば、顔なしのままでも席だけは固定されてしまう。


 案の定、影のまわりの空気に、言葉未満の拍が生まれ始めた。

 誰かの名ではない。

 だが、名を置く前の呼気に近い。

 口を開けば完成しそうな音。

 それが空席の上でふくらんでいく。


「まずい」

 ダフが言う。

「どうする」

 私が問うと、エナが答えた。

「空席へ先に、別の名を置く」

「誰の」

 

 彼女は私を見た。

 その瞬間に理解してしまった。


「いや」

 私は言った。

「それは」

「王の名では足りません」

 エナが言う。

「王の名はすでに王の席にある。仮座へ“ここは空ではない”と示すには、今ここに立っている側の名が必要です」

「俺か」

「あなたは外から来た」

「だから?」

「席ではなく、人として名を置ける」


 王都の内側の人間が名を置けば、それはすぐ役や席へ吸われる。

 だが外から来た私なら、まだ少しだけ“個人名”として置ける。

 そういう理屈なのだとわかった。

 わかったが、嫌だった。

 ひどく嫌だった。


「リョウ」

 エナが言う。

「昨日、言ったでしょう」

「“ここにいる”か」

「はい」


 影のまわりの拍が、少しずつまとまり始める。

 今ならまだ、間に合う。

 たぶん。

 王都で一番信用ならない言葉だが、それでも今はそれしかない。


 私は一歩、空席の縁へ出た。

 王の前には立たない。

 影の中にも入らない。

 その境目。

 ぎりぎりの位置。


 そして、声に出した。


「真柴遼」


 半身の間の空気が、そこで一度だけ止まった。


 自分の名を、王都の中心で、しかも仮座の縁に置く。

 それがどれほど危ないかは、もう十分わかっている。

 でも、その瞬間、はっきりした感覚もあった。

 これは役名ではない。

 読手でも異邦人でもない。

 会社員でもない。

 村へ落ち、墓を読み、井戸を聞き、ここまで来た私自身の名だ。


「ここにいる」

 私は続けた。

「お前の席じゃない」

 

 影が揺れた。

 今度は明らかだった。

 名を置かれたことで、空席の“空き”が一瞬だけ減ったのだ。


 影の拍が乱れる。

 まだない名前が、完成しかけていた流れを失う。


「続けて!」

 エナが言う。


 私は呼吸を整え、もう一度言った。


「真柴遼。

 ここにいる。

 お前より先に、ここへ立ってる」

 

 雑だ。

 乱暴だ。

 王都のどの儀礼にも沿っていない。

 だが、それでよかったのだと思う。

 制度の言葉ではなく、個人の名と位置をそのまま置くこと。

 王都が一番苦手なやり方で、仮座を汚すこと。

 たぶん今必要なのは、それだった。


 影が大きく歪んだ。

 立ち上がり損ねた煙のように、空席の上で形を崩す。

 そこへ、王が低く言った。


「ここは、私の席です」


 今度は王の声だった。

 影に似た声ではない。

 王本人の、削られ、戻り、それでもまだ掠れている声。

 それがはっきり半身の間へ落ちる。


 影が、そこでとうとう二つに割れた。


 いや、割れたのは影ではない。

 空席へ集まりかけていた“呼ばれていない王”の可能性のほうだ。

 ひとつは王へ戻り損ね、ひとつは私の名へ弾かれ、どちらにも定着できずに崩れた。


 石床へ、黒い染みのようなものだけが残る。

 もう人の形ではない。

 ただの影だ。

 どこにでもある、灯りの残りだ。


 私はそこで初めて、自分の膝が震えているのに気づいた。

 エナがすぐ横へ来る。

「大丈夫ですか」

「……あんまり」

「でも、置けました」

「何を」

「名を」


 遼、名を置く。

 それは王都の誰かへ帰属するためではなく、仮座を閉じるための、たった一度の個人名の使用だった。

 こんな使い方をする日が来るとは思わなかったが、たぶん、ここまで来たからこそできたのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ