第108話 仮座を閉じる夜
王の顔が戻ったあとも、半身の間の空気はすぐには軽くならなかった。
むしろ逆だった。
今まで曖昧だったものが、ひとつだけはっきりしたぶん、残っている問題の輪郭も濃くなった。
石床に崩れた影。
王の前の空席。
消えきらない仮座。
顔を失ったことで後退はしたが、なくなったわけではない。
王は座に深く身を預けていた。
顔は戻った。
だがその代償のように、身体はさらに消耗している。
半分しか目を開かない王が、今はちゃんとこちらを見ている。
そのこと自体が、ほとんど痛々しかった。
「終わっていません」
セリオが低く言った。
「ええ」
王が答える。
「まだ、席が残っている」
私は石床の影を見た。
さっきまで“呼ばれていない王”の形を取っていたもの。
今はただの濃い影に近い。
けれど、濃いだけの影がこれほど嫌なものに見えるのは、この都がすでにそれへ席を与えかけたからだろう。
「仮座を閉じます」
ネムが言った。
「方法は」
王が問う。
「正式継承の補修では足りません。墓、井戸、供花、門、少なくとも四系統で“空席ではない”と認めさせる必要があります」
「四系統」
私は顔をしかめた。
「また部署横断か」
「王都ですので」
その返しにも、さすがにもう慣れていた。
リシェが補足する。
「仮座は空いているから危険なのではありません。空いていることを複数の制度が認めているから危険なのです」
「じゃあ逆に」
私が言う。
「空いていないってことを、複数に言わせる?」
「はい」
「面倒だな」
「ええ。でも、それしかありません」
エナは崩れた影から目を離さなかった。
「井戸は、まだ席を呼ぶかもしれません」
「墓もだな」
私が言う。
「はい」
「供花は」
「五本目を作らせない」
「門は」
「返顔室を通ったことで、“顔は戻る先を持つ”と認識したはずです」
少しずつ道筋が見える。
顔は王へ戻った。
なら、次は“顔を失ったから空いている席”という理屈を崩す。
王都に対して、この席はまだ空いていない、と言わせるのだ。
「だが」
王が静かに言った。
「最後に必要なのは、私でしょう」
全員が黙った。
そうだ。
王都の制度がいくら認めても、王本人がそこへ座ることを引き受けなければ、仮座はまた開く。
「陛下は、今夜座り続けられますか」
セリオが問う。
王は少しだけ目を閉じ、それから頷いた。
「それしかないなら」
「それしかありません」
半身の間の灯りがもう一つ落とされた。
骨鈴が運ばれる。
白花は二輪ではなく、一輪だけが座の左右対称の中央へ置かれた。
供花を増やさないための、埋葬部なりの必死の工夫だろう。
私とエナは、王の前ではなく、少し斜め後ろへ立つことになった。
影の延長線から外れる位置。
仮座へ巻き込まれにくい場所。
それでも、安全ではない。
「リョウ」
エナが小さく言った。
「何だ」
「今夜、また“まだ”が来ても」
「うん」
「それだけでは足りないかもしれません」
「だろうな」
「そのときは」
彼女は一瞬だけ迷い、それから言った。
「“ここにいる”と言ってください」
私は彼女を見た。
「王に?」
「あなた自身にも」
その意味はすぐわかった。
王都の異常は、名や顔や席を先に動かす。
だから最後に必要なのは、“いまここに身体がある”という、最も原始的な事実の確認なのかもしれない。
夜が深まる。
王は座に留まる。
影は石床で揺れる。
墓、井戸、供花、門。
それらの外で、しかしそれら全部の真ん中で、仮座を閉じる夜が始まった。




