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やわらかな王の墓  作者: たむ


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最終話 それでも名を持って生きる

 王都での生活は、そのあともすぐには終わらなかった。


 私は元の世界へ帰らない。

 帰れる見込みも、今のところはない。

 王都は相変わらず王都で、役所は面倒で、墓は息をし、井戸はときどき歌い、供花は数を間違えるとろくでもない。

 北区は見捨てられやすいままで、サラは相変わらず薄い茶を寄こし、ネムは補注を増やし、ダフは忙しさを理由に率直で、セリオは必要なことだけを言う。

 王は朝によって少し顔色が違う。

 エナは村と王都を往復しながら、見習いではあるが、もう見習いだけではない顔をしている。


 大きく変わったこともある。


 半身の間の西回廊に、もう影は立たない。

 古井の歌は弱まり、二番はめったに来なくなった。

 市場の欠け貨は減り、婚礼衣装の六輪は記録から消え、王妃候補ユレナの棺は埋葬ではなく“保留”のまま、別の記録箱へ移された。

 村では、石像がまた井戸のほうを向いている。

 ただし今は、首を取り戻そうとする姿ではなく、前より少し静かな向きだとシウが書いてきた。


 それでも、問題は消えていない。


 王が半分死ぬ制度は残っている。

 王都はまだ、影を生みうる。

 顔と名と位置を別々に扱うこの国の根本は、そう簡単に変わらない。

 私たちはただ、一度だけ“まだ”を本当に朝まで持たせることができただけだ。

 でも、その一度がなければ、たぶん全部が崩れていた。


 ある日、北区記録倉の石段に私とエナが並んで座っていた。

 夕方で、空は相変わらず灰色だった。

 骨魚の影は見えない。

 見えないけれど、もう前ほどそれに支配される感じはしない。


「受け取られないことが減りましたね」

 エナがぽつりと言った。

「何が」

「声です」

「井戸の?」

「それも。人の言葉も」

 

 私は少し考えた。

 たしかにそうかもしれない。

 完全ではない。

 でも、王都の人間が前より少しだけ、自分の顔と名を自分で持とうとしている感じがある。

 王が自分の顔を呼んだ夜のあと、何かが少しだけ戻ったのだろう。


「君は」

 私は言った。

「名前、どうする」

 

 エナは少し黙った。

 それから、静かに答える。

「まだ決めません」

「いいのか」

「はい。今は、まだ」

 

 その“まだ”は、前よりずっと穏やかに聞こえた。

 猶予ではある。

 けれど、崩壊の先送りだけではない。

 自分で決めるために残された“まだ”だ。


「俺も」

 私は言った。

「当分ここかな」

「帰れそうですか」

「わからない」

「そうですか」

「でも」

 私は少し笑った。

「名前は、まだ置ける」

 

 エナもほんの少しだけ笑った。

 派手ではない。

 でも、本当に本人のものらしい笑いだった。


 王都で生きるというのは、たぶんずっとこういうことなのだろう。

 制度や墓や井戸に飲み込まれそうになりながら、それでも、名を役へ全部渡さない。

 顔を誰かの席へ全部貸さない。

 完全に勝つことはできない。

 けれど、全部を明け渡さないことはできる。


 私は石段の端に置いた自分の手を見た。

 仕事帰りの手だ。

 墓を読んだ手。

 木枠を担いだ手。

 井戸の前で膝をこらえた手。

 王都の中心で、自分の名前を置いた手でもある。


 真柴遼。

 この国では、名前はときどき役より弱い。

 記録より薄い。

 席より遅い。

 それでも、最後に人を人へ留めるのは、やはりこういう短い名なのかもしれなかった。


 夕方の鐘が鳴る。

 沈まない、普通の鐘。

 その音を聞きながら、私は思う。

 この物語に完璧な終わりはない。

 王都はこれからも低い空の下で、また新しい綻びを作るだろう。

 村はまた何かを預かるかもしれない。

 王はいつか本当に老いる。

 エナも、私も、別の選択を迫られる日が来る。

 けれど、少なくとも今は、顔は戻り、仮座は閉じ、名はまだ自分の口で持てている。


 それで十分だ、とまでは言わない。

 でも、それでも生きていけるくらいには、朝が戻った。

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