第106話 半身の間の影
宮城へ入るころには、空はほとんど夜になっていた。
骨魚の影は見えない。
だが、見えないからこそ上にいるとわかる。
王都の夜はいつもそうだ。
姿を見せないものほど、気配だけが濃い。
返顔室を越えた木枠は、宮城の回廊でさらに重くなったように感じた。
王都の内側へ入ったせいか、それとも、顔が“返るべき場所”の近くへ来て抵抗し始めたのか。
肩が軋む。
腕が熱い。
私は息を切らしながら、それでも木枠から手を離さなかった。
半身の間の手前で、私たちは止められた。
扉は開いている。
中は暗い。
灯りは最低限。
そして、その暗さの中で、誰かがすでに跪いていた。
影だった。
前に見たときより、明らかに濃い。
輪郭は人に近く、衣の皺もわかる。
声だけではない。
今は、顔の“置き場”までできている。
ただし、そこへまだ決定的な面相がない。
空白のまま人らしさだけが増している。
最も嫌な進み方だった。
そして、その正面。
王が座していた。
第十三の王。
だが、今日の彼は前よりさらに薄い。
目は開いている。
しかし、片方の目だけが妙に深く落ちている。
耳を失い、顔を井戸へ落としかけ、それでもまだ座にいる人間。
その無理な均衡が、部屋全体をきしませていた。
「持ってきました」
セリオが短く告げる。
王の視線が、木枠へ来る。
その目の奥に、はっきりした痛みがあった。
見覚えのあるものを見ている痛み。
自分の顔であると、どこかでわかってしまう痛み。
「……そうですか」
王が言った。
「村は、まだ覚えていた」
「預かっていました」
エナが答える。
「長く」
影が、その言葉に反応した。
ゆっくりと顔のあるべき場所をこちらへ向ける。
空白のままなのに、飢えだけがある。
顔を欲している。
木枠の中身へ、明らかに引かれている。
「だめだ」
私は思わず言った。
「近づけるな」
「わかっています」
セリオが答える。
「ですが、どこで返すかを決めなければならない」
半身の間の中央には、王の座と、影の跪く位置と、そのあいだの空席。
仮座のような何か。
継承順位の抜け穴が、空間としてそこに開いている。
木枠をそのどこへ置くかで、王都の次が決まってしまう。
「ここへ」
王が小さく言った。
自分の胸を指している。
「私に返してください」
その言葉に、私は息を止めた。
王本人が、自分の顔を呼んだ。
村の木札にあった条件だ。
王が自分で呼ぶまでは、誰のものにもするな。
今、その“呼ぶ”が起きている。
「陛下」
セリオが低く言う。
「危険です」
「承知しています」
王は答える。
「ですが、私の顔を、私以外へ渡すわけにはいかない」
影が少し揺れる。
その揺れ方に、初めて明確な不満が見えた気がした。
影は何も言わない。
だが、王が自分で顔を呼ぶことを、たぶん最も嫌がっている。
「リョウ」
エナが小さく呼ぶ。
「何だ」
「木枠を」
「うん」
「王のほうへ向けるなら、今しかありません」
「影は」
「見ないで」
私は頷き、木枠へ手をかけ直した。
王の前へ進む。
片側をエナが持つ。
数歩。
ほんの数歩なのに、足元の石が深くなる感じがした。
半身の間そのものが、こちらの所作を見ている。
「止まれ」
ダフが低く言う。
「影が動く」
確かに、影の膝が少しだけ持ち上がった。
跪きから、立ち上がる途中の形。
顔が来る前に、自分で奪いに来る気配。
その瞬間、王がはっきりした声で言った。
「呼ばれていない者よ。
それは、まだお前のものではない」
影が止まる。
初めてだった。
王が影へ直接言葉を向けたのは。
しかも“呼ばれていない者”と正確に。
名を与えず、役だけを指し、しかし拒絶する。
その言葉は、墓の一文とも響き合っていた。
「今だ」
セリオが言う。
私たちは木枠を王の座の前、ちょうど空席をまたがない位置へ置いた。
王の正面。
だが影の延長線上からは少し外れた場所。
微妙な角度。
たぶん、そのズレが重要だった。
エナが布を外す。
石の首が現れる。
その瞬間、半身の間の空気が裂けたように変わった。
王の顔と、石の顔が、距離を越えて互いを認識したのがわかった。
影が鋭く揺れる。
顔の空白が、奪うように前へ出ようとする。
「見て」
エナが叫ぶように言った。
「王を」
私は石の首ではなく、王本人を見た。
王の片方の目が、いつもより少しだけ大きく開いている。
半分しか目を開かない王が、今はもう少し多く開いて、石の顔を見ていた。
「戻れ」
王が言う。
それは命令でも祈りでもなく、呼びかけだった。
「私の顔よ」
その言葉で、石の首の口元が、ほんのわずかに変わった。
笑みとも、痛みともつかない形。
そして、影が初めて後ずさった。




