第102話 帰還を拒む顔
村長が白花祠へ来たのは、日が傾き始める少し前だった。
昨夜の封じ言葉でだいぶ消耗したのだろう。
歩みは遅い。
それでも目だけはまだ濁っていない。
村の古い習いを最後まで手放さずに持ってきた人間の目だった。
祠の前には、石の首が白布の下にあり、供花は四本。
五本目は置かない。
今やこの村の全員が、その数の意味を知ってしまっている。
知らなくてよかった知識ばかりが、人を育てるみたいに村へ広がっていく。
王都の病はいつもそうだ。
「読んだか」
村長が祠を見たまま言う。
「王の顔は誰のものか」
「読んだ」
私は答えた。
「顔は王のものじゃない」
「そうだ」
「都が借り、村が預かり、呼ばれる者が一度だけ着る」
「そうだ」
老人は祠の前にしゃがみ込み、布へ触れないまましばらく黙った。
その沈黙は長かったが、誰も急かさなかった。
この老人はたぶん、私たちよりずっと前から“言ってしまうと形になる”言葉の重さを知っている。
「王都へ返す」
やがて彼は言った。
「だが、ただ返せばよいのではない」
「知ってる」
私が言う。
「顔を返す先を誤るな、だろ」
「うむ」
「どうする」
村長はようやくこちらを見た。
「帰還を拒む顔にしなければならん」
「……何だそれ」
「首を都へ戻しても、先に影や仮座へ着ぬようにする」
「拒む?」
「顔が、自分の持ち主以外へなじまぬように封じるのだ」
エナが小さく息をつく。
「村式で?」
「王都の式では濃すぎる」
村長が答える。
「濃い顔は、先に誰かへ着く」
「じゃあ村式で、薄く拒ませる」
「そうだ」
その考え方は、ひどくこの村らしかった。
王都は強く書き、強く決め、強く固定する。
村は逆に、薄くして、遅らせて、なじませないように持たせる。
“帰還を拒む顔”というのはつまり、今すぐ王都へ戻るためのものではなく、間違った相手へ着ないための顔なのだろう。
「材料は」
ダフが問う。
村長は指を折るように答えた。
「白花四本。
呼ばれぬ夜の灰。
井戸の水は使わぬ。
名を置かぬ者の息。
そして」
そこで老人は、エナを見た。
「顔に近すぎる者の拒み」
私はすぐ口を開いた。
「だめだ」
「何がだ」
「エナを使うのは」
「使うのではない」
村長が言う。
「近いものが“違う”と拒むことで、顔は一時的に止まる」
「でも」
「それをできる者が今、他におるか」
私は言葉に詰まった。
条件だけを並べれば、たしかに彼女が一番近い。
近いからこそ、拒む力も持つ。
それは理屈としてわかる。
わかるが、納得したくない。
エナは静かだった。
やがて言う。
「やります」
「待て」
私が言うと、彼女は首を振る。
「リョウ」
「危ない」
「はい」
「だから」
「だから、私が拒む必要があります」
その言葉は、少しも芝居がかっていなかった。
自分が近いことを知っている人間の声だった。
近いからこそ、先に“違う”と言わなければならない。
そうしないと、顔のほうが勝手になじむ。
「帰還を拒む顔、か」
私は低く呟いた。
「王都へ戻るために、いったん王都を拒ませる」
「ええ」
エナが答える。
「たぶん」
村長は白布の横へ、白花を四本並べた。
灰を細く撒き、指先で印を切る。
王都の印ではない。
もっと素朴で、角の取れた線だ。
それでも、その線が引かれるたび祠の空気が少しずつ変わる。
首の存在感が、“返るべきもの”から“まだ戻らぬもの”へ移っていく感じがあった。
エナは祠の前で、膝をつかずに立った。
村長が低く言う。
「首を見るな」
「はい」
「名を呼ぶな」
「はい」
「王とも言うな」
「はい」
「そして、違うと言え」
エナは一度だけ息を吸い、布の向こうの首へ向けて言った。
「あなたは、今は私の顔ではありません。
私も、今はあなたの着る顔ではありません。
まだ戻らないでください。
まだ誰のものにもならないでください」
言葉はそれだけだった。
だが、その瞬間、白布の下の気配が少しだけ引いた。
首が嫌がったのではない。
“今は違う”という拒みを、きちんと受け取った感じだった。
「効いてる」
ダフが小さく言う。
「はい」
村長も頷いた。
「少しな」
少し。
また猶予だ。
けれど今必要なのは、それで十分だった。
帰還を拒む顔。
王の顔を誰のものにもせず、ただ王都へ向かわせるための、一時の拒み。
王都が自分の顔を取り戻すには、まず顔のほうが他人へ着るのを嫌がらなければならない。
そういう逆説が、この国には本当にあるらしい。




