第101話 王の顔は誰のものか
村長の封じ言葉によって、広場の騒ぎはどうにか夜のうちに抑え込まれた。
抑え込まれた、というだけだ。
解決ではない。
井戸の底の音は消えていないし、祠の首も、石像も、ただ少し静かになっただけだ。
それでも村人たちは夜の後半をどうにか無事に越えた。
この国では、ときどき“無事”の基準が驚くほど低くなる。
明け方、私たちは再び白花祠へ集まった。
エナ、ダフ、シウ、私。
村長は少し遅れて来ると言った。
昨夜の封じ言葉でだいぶ消耗したのだろう。
それでも、朝一番に確認すべきことははっきりしていた。
祠の首。
誰に向こうとしたのか。
いや、もっと根本的に言えば、王の顔は誰のものとして保存されていたのか。
「昨夜の反応」
ダフが言った。
「祠の首は、井戸の底から上がりかけた名前に応じた」
「うん」
「しかも、あなたではなくエナに寄った」
「そうだ」
「なら」
彼は祠を見る。
「この首が“顔”として誰に合うかを、先に知る必要があります」
「危険だな」
「知っています」
エナは白花を四本並べ終えると、祠の前で膝をつきかけ、そこで止まった。
井戸の歌の二番がある今、その所作ひとつも軽くはない。
彼女自身も、それを十分知っているのだろう。
「触れずに見ます」
彼女が言った。
「リョウ」
「何だ」
「もし変だと思ったら、止めてください」
「わかった」
私たちは布を少しだけ持ち上げた。
石の首が露わになる。
朝の薄い光の中では、昨夜よりさらに“人の顔”に近く見えた。
嫌なくらい整っている。
そして、閉じていたはずの目の線が、またわずかに開いている。
「読める?」
ダフが訊く。
「やる」
私は石の額、頬、口元を順に見た。
表面は滑らかだ。
だが、よく見ると細い刻線が顔そのものへ入っている。
皺ではない。
意味だ。
「……“顔は王のものにあらず”」
私は言った。
空気が変わる。
エナも顔を上げる。
「続けて」
彼女が言う。
「“都が借り、村が預かり、呼ばれる者が一度だけ着る”」
私は息を詰めた。
顔は所有物ではない。
王のものですらない。
都が借り、村が預かり、呼ばれる者が一度だけ着る。
それは、王の顔が個人の恒久的な一部ではなく、制度が必要なときだけ誰かへ着せる“面”であることを意味していた。
「最悪だな」
私は思わず言った。
「ええ」
ダフが頷く。
「だから預けた」
私はさらに刻線を追う。
頬のあたり、唇の下。
細い意味が続く。
「“呼ばれていない者にはまだ重い”」
「影だ」
エナが低く言う。
「はい」
私は答えた。
「でも」
「でも?」
「“呼ばれかけた者には、逆に軽すぎる”」
その一文で、私は首から目を離してエナを見た。
彼女もこちらを見ていた。
同じ意味を受け取った顔だった。
「軽すぎる」
彼女が呟く。
「昨夜、石像の抱える首が軽く見えたと」
「そうだ」
「それは、顔が持ち主へ戻ろうとして軽くなったのではなく」
彼女は少しだけ言いよどんだ。
「“合いそうな相手”が近くにいると、軽くなるのかもしれません」
私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
祠の首は、エナの近くで軽くなる。
井戸の底の名も、彼女へ寄った。
影に合う顔。
未定系高適合。
ここまで材料が揃うと、感情だけで否定するのが苦しくなる。
「いや」
私は言った。
「待て」
「何です」
「顔は王のものじゃない。でも“呼ばれる者が一度だけ着る”なら」
「はい」
「王本人だって、それを着てるだけだ」
「そうです」
「じゃあ、エナが顔に合うとしても、それは“王になる”って意味と同じじゃないかもしれない」
その言葉に、エナの目が少しだけ動いた。
ほんのわずかだが、さっきより呼吸が戻る。
「仮座」
ダフが言う。
「継承順位の抜け穴」
「そう」
私は続ける。
「顔に合うからって、王そのものとは限らない。王の代わりに受ける席かもしれない」
「それも十分危険です」
「知ってる」
だが、その違いは大きい。
“王になる”と、“王の顔を一度だけ着る”は、同じではない。
王都の制度では、その途中の役目がいくつもある。
仮座。
受け取り手。
影の猶予。
呼ばれていない王の前に置かれる中継点。
もしかすると今、エナへ寄っているのは、そのどれかかもしれない。
首の刻線はさらに続いていた。
私は読む。
「“返す先を誤るな”」
そして最後に、
「“王が自分の顔を呼ぶまでは、誰のものにもするな”」
王の顔は誰のものか。
答えは、王のものですらない。
都が借り、村が預かり、呼ばれる者が一度だけ着る。
だが最終的には、王が自分で呼ばなければならない。
呼ばれていない影に渡してはならないし、呼ばれかけた者へ仮に着せて固定してもならない。
この首は、そのためにずっと村へ預けられていたのだろう。
私は長く息を吐いた。
いま必要なのは、誰に合うかを急いで決めることではない。
むしろ逆だ。
王都へ戻る前に、顔を誰のものにもさせない手順を整えなければならない。
「村長を待とう」
私は言った。
「封じ言葉の続きを聞く」
「はい」
エナが頷く。
「たぶん、ここから先は村だけでは持ちません」
「王都も必要だ」
「ええ」
王の顔は誰のものか。
その問いの答えは、所有ではなく預かりだった。
そして今、村はその預かりを限界まで続けてきた。
次は王都へ戻り、王本人が自分の顔を呼べるかどうかを確かめなければならない。
そうでなければ、影か、仮座か、あるいは名なき誰かが、先にそれを着てしまう。




