3
私は、生まれた瞬間を覚えている。
狭い手術室の天井。
鉄の匂い。血の匂い。
母の内側の色。肉のひだの形。
助産師が三人。そこに父はいなかった。
私は父を知らない。
最初に見た世界は、湿っていて、赤くて、醜かった。
だが私は泣かなかった。
観察していた。
私は貧しかった。
母は男を渡り歩く俗物だった。
だが私は母を愛していた。
愛していたからこそ、理解していた。
母は弱い。
弱いものは、壊される。
ある日、家に出入りしていた男が母を殴った。
骨の鳴る音。肉が潰れる音。
母の呻き声。
美しいと思った。
私は思った。
この男を殺してあげなければ。
計画は完璧だった。
完璧なはずだった。
だが愚鈍な国家権力が、愚鈍な推理をし、
母は犯人に仕立て上げられた。
母は獄中で発狂し、死んだ。
私は理解した。
この世界は強者が支配しているのではない。
愚者が多数決で決めている。
それが、世界の正体だ。
施設に入れられた私は、
凡人どもの中で呼吸をした。
退屈だった。
殺してやりたいほど、退屈だった。
私は優秀だった。
だが優秀であることは、私にとって誇りではなかった。
ただの確認作業だ。
私は凡人ではないという確認。
私は物理と数学に没頭した。
世界は数式で、裏切らない。
人間と違って。
16歳で高認を取り、
最高学府の医学部へ入った。
首席だった。
当然だ。
そこで私は出会った。
悪性細胞。
顕微鏡越しに見たそれは、
あまりにも美しかった。
増殖。侵食。適応。
躊躇がない。
人間は迷う。
悪性細胞は迷わない。
人間は倫理を語る。
悪性細胞は生きる。
私は心酔した。
凡人どもはそれを「病」と呼ぶ。
私はそれを「進化」と呼ぶ。
神は、人間に最高の贈り物を与えていた。
それを、凡人どもは“治療”と称して殺している。
滑稽だった。
私は決めた。
ならば、私は神の意志を継ぐ。
しかし、学会で私の論文は嘲笑された。
倫理。
その曖昧模糊な言葉で、
彼らは私を殴った。
倫理とは何だ。
多数派の安心のことか。
犠牲とは何だ。
進化の過程のことではないのか。
私は笑った。
凡人どもと同じ土俵に立つのはやめた。
私は地下へ潜った。
宗教法人。
人身売買。薬物。闇金融。闇賭博。
金は湧き出た。
人体も湧き出た。
被検体は泣いた。
叫んだ。
壊れた。
だが私は美しいものを見ていた。
発現。
知覚系。
物理系。
特殊系。
だが問題があった。
寿命だ。
力は発現する。
だが肉体が耐えられない。
数時間。
数日。
最高記録で七日。
私は十年、足踏みをした。
そして理解した。
必然からは生まれない。
偶然だ。
宇宙は偶然でできている。
ならば、撒けばいい。
私はコード818を完成させた。
血を薄めたような赤い液体。
全国の医療機関へ紛れ込ませた。
患者は死ぬ。
だが元より余命幾ばくもない。
私は祈らなかった。
観察した。
十五年。
七人。
七人、生き延びた。
私は彼らの血を盗み、
解析し、
ついに掴んだ。
寿命と発現の相関。
生きながら、神に近づく方法。
最初の被検体は、私自身。
私は死ななかった。
私は選ばれた。
違う。
私は、選んだ。
そして今。
時は満ちた。
次の段階へ進む。
私は真の神になる。
凡人どもは、ようやく理解するだろう。
自分たちが踏み潰してきた“病”こそが、
進化だったことを。
――――――
目が覚めた。
天井を見つめていた。
俺の左腕を枕にして、アキがすやすやと眠っている。
腕は全然痛くない。むしろ軽い。
アキの頭って、こんなに軽かったか?
昨日の夢を思い出した。
――ワレヲマモレ。
守れ、か。
言われなくても守るけどな。
でも、あれはアキの声だったのに、アキじゃなかった。
あの響きはもっと、冷たい何かだった。
まあ、夢だ。考えすぎか。
「うーん……」
アキが目をこすりながら目を開けた。
俺を見て、少し照れくさそうに笑う。
「おはよう。」
「おはよう。」
自然と笑みがこぼれる。
アキは俺の胸に顔をうずめながら、くぐもった声で言った。
「リク、大好き。好き好き。」
俺も、と言いかけた瞬間、左頬に軽いキス。
「シャワー浴びてくる。」
裸のまま寝室を出ていく後ろ姿。
細い背中。くびれた腰。柔らかい光。
きれいだ。
俺、ついにここまで来たんだな。
付き合ってまだ十日そこら。
なのにもうこんなに深いところにいる。
幸福と同時に、ぞわっとした恐怖が背中を撫でた。
失うかもしれない。
でも、それを考えるのは違う。
一秒でも長く、ちゃんと愛そう。
今だけでもいい。
――――――
バスローブを羽織り、リビングへ出る。
壁一面の姿見の前に立つ。
ローブを解き、裸になる。
……でかくなってる。
胸板。肩幅。腹筋。
ソフトマッチョとムキムキの間くらい。
童貞卒業でこうなるなら、世の中みんなムキムキだろ。
問題は、髪だ。
銀色。光を受けて、うっすら虹色に揺れる。
昨日、あの男を投げ飛ばした時。
あれは、ただの興奮じゃない。
俺は大理石の低いテーブルに近づいた。
右手で端を掴む。
持ち上げる。
……軽い。
発泡スチロールみたいに。
数百キロはあるはずだろ、これ。
俺の体で、何かが起きてる。
アキのあの蛇と同じ何か。
ベランダに出た。
昔は高所が怖かった。
今は、何も感じない。
柵に立つ。
なんとなく、飛べる気がした。
跳んだ。
「うおっ」
軽い。
空気が柔らかい。
軽く二百メートルは飛んだ。
そのまま屋上に着地。
膝が痛くない。
息も乱れない。
守れってことか?
何から?
答えはない。
……全裸だった。
慌てて戻る。
リビングに戻ると、バスローブ姿のアキがソファに座っていた。
「リク、外で何してたの。そんな恰好で。」
笑っている。
俺はローブを拾って着た。
「アキ、ちょっと来て。」
ベランダへ連れ出す。
「ごめん。」
姫抱き。
「え?」
跳ぶ。
「きゃああ!」
今度はもっと高く。
雲に届きそうな高さ。
屋上へ着地。
「なにこれ、すごい……!」
「俺もわからない。でも、できる。」
アキは俺の腕の中で目を閉じ、唇を突き出した。
キス。
屋上の風の中で、長く。
部屋に戻り、ソファに並ぶ。
ルームサービス。
俺はステーキセット。
「そんなに?」
「腹減ってしょうがない。」
アキは笑う。
「リクが食べてるの見るの好き。」
少し間が空いた。
「ねえ。」
「ん?」
「私の力、なくなったみたい。」
空気が変わった。
「さっきシャワーの時、覗こうとしたの。色も見えない。」
俺は黙った。
アキは微笑む。
「でもいいの。」
俺の腕にしがみつく。
「もう望み、かなえちゃったから。」
俺はアキの首の後ろに手を回した。
「好き。」
「私も。」
心はもう読めない。
だから言葉で言うしかない。
それは少し不便で、でも、少し嬉しい。
――――――
俺はアキとのブランチをすませ、シャワーを浴びに浴室へ入った。
改めて思う。
なんだこの浴室は。
バカでかいジェットバス。
その奥にヒノキの露天風呂。
昨日、アキと一緒に入った時の光景が蘇って、
一瞬で理性が蒸発しかけた。
やばい。
これは危険だ。
結局、ジェットバスには近づかず、
手前のシャワースペースでさっと流して、
そそくさと出た。
バスローブで適当に水分をぬぐいながらリビングへ戻ると、
アキはすでに服を着て、化粧台の前で何かしていた。
その後ろ姿を見た瞬間、我慢が吹き飛んだ。
後ろから抱きしめる。
「ごめん、我慢できない。」
そのまま抱きかかえて寝室へ。
……まあ、しょうがない。
本当にすまん。
タイムリミットは17時。
16時50分。
やっと俺たちは現実に戻った。
「急がないと。サイトウさん、時間には超厳しいの。」
アキが慌てて散らかった部屋を片づけ始める。
タオル、ペットボトル、丸まったティッシュ、ショッピングバッグ。
俺も手伝おうとすると、
「大丈夫。リクは着替えて。」
10分なんて一瞬だった。
「これ着て。」
アキが黒のトレンチコートを広げる。
腕を通す。
ぴったりだ。
なんか、ちゃんとした男になった気がする。
「行こ。」
ドアを開けた瞬間。
そこに立っていた。
黒のパンツスーツ。鋭い目。
30代後半くらいの女性。
空気が変わる。
「ごめん、サイトウさん。遅くなっちゃった。」
「お嬢様、7分遅刻です。歩いてください。」
冷たい。
俺は会釈する。
「クルスです。どうも。」
一瞥。
無反応。
エレベーターを降り、ロビーへ。
俺は回転ドアの前で立ち止まった。
「サイトウさん。ここの代金、俺に払わせてください。」
昨日21万勝った。
さすがに20万はいかないだろ。
高をくくっていた。
「ちょっと、リク。」
アキが不安そうに見る。
「クルス様。あなたに払えますか。」
「大丈夫・・・です。」
声が少しだけ上ずった。
「少々お待ちください。」
サイトウさんが奥へ消える。
アキが小声で言う。
「リク、ほんとにいいの。払う必要ないよ。」
「男の意地だ。」
数分後。
A4の明細書。
受け取る。
ちらっと見る。
もう一度見る。
三度見る。
79万2千円。
……は?
脳が停止した。
「お代金は結構です。クルス様。」
淡々。
そう言い残して外へ出る。
俺は立ち尽くしたまま。
アキが追いかけながら叫ぶ。
「サイトウさん!リクをいじめないでよ!」
ロビーに一人。
俺って。
ダサすぎるだろ。
――――――
ホテルの前には黒い高級セダンが停まっていた。
サイトウさんが後部座席のドアを開け、無言で目配せする。
俺はバイクを思い出した。
「すみません。俺、バイクで戻ります。駐輪所に停めてるんで。あと……このコート、ありがとうございました。」
アキが俺の袖をつまんだ。
何か言いたげな目。
でも俺は軽く笑って言った。
「大丈夫。病院で会おう。すぐ追いつく。」
そう言って、そっとアキを車内へ押し込み、ドアを閉めた。
サイトウさんは一瞬だけ俺を見た。
「わかりました。お気をつけて。」
ドアが閉まる。
黒い車体は静かに滑り出し、街に溶けていった。
一泊79万。
79万てなんだよ。
普通に上場企業のボーナスじゃねーか。
俺は歩きながら、頭の中で同じ言葉を何度も反芻していた。
俺、この先アキを幸せにできるのか?
住む世界が違う。
生還できたとしても。
アキは――
離れていくんじゃないか?
現実って残酷だ。
生きるって、そんな単純じゃない。
……いや。
だったら。
この力で格闘技の世界チャンピオンになればいい。
スポンサーついて、億稼いで。
俺、今、超つえーし。
……でも。
この力、消えたら?
その瞬間、俺はただの中卒フリーター。
漫画家?
描いたことねー。
勉強?
今さら?
……いや、そもそも。
これは勉強でどうにかなる問題じゃない。
気づいたら、独り言が漏れていた。
地下駐輪場。
バイクにまたがる。
高速は使わない。
なんとなく、人のいない高架下へ、
停車した。
むしゃくしゃする。
飛ぶか。
スマホで病院の方角を確認。
バイクを片手で持ち上げる。
軽い。
空のペットボトルみたいだ。
ホップ。
ステップ。
ジャンプ。
空気が裂ける。
風が顔を打つ。
山をひとつ飛び越える。
「うひゃー。」
笑いがこぼれる。
楽しい。
ダムを見つける。
端から端へ幅跳び。
ピョン。
ピョン。
俺、何してんだ。
でも止まらない。
力が気持ちいい。
自分が、自分じゃないみたいだ。
気づけば病院近く。
そろそろバイクに乗るか。
左手を見る。
……ハンドルのグリップしか残ってない。
粉々。
やりすぎた。
「まじかよ……」
仕方なく、そこからは歩いた。
病院の駐車スペース。
黒いセダンはすでに停まっていた。
時間的にはギリセーフ。
……バイクは死んだが。
自動ドアをくぐる。
消毒液の匂い。
白い壁。
いつもの空気。
さっきまで山を飛び越えてた男とは思えない。
でも今はそれどころじゃない。
とりあえず。
アキに会いてぇ。




