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私は、生まれた瞬間を覚えている。


狭い手術室の天井。

鉄の匂い。血の匂い。

母の内側の色。肉のひだの形。


助産師が三人。そこに父はいなかった。

私は父を知らない。


最初に見た世界は、湿っていて、赤くて、醜かった。

だが私は泣かなかった。

観察していた。


私は貧しかった。

母は男を渡り歩く俗物だった。

だが私は母を愛していた。


愛していたからこそ、理解していた。

母は弱い。

弱いものは、壊される。


ある日、家に出入りしていた男が母を殴った。

骨の鳴る音。肉が潰れる音。

母の呻き声。


美しいと思った。


私は思った。

この男を殺してあげなければ。


計画は完璧だった。

完璧なはずだった。


だが愚鈍な国家権力が、愚鈍な推理をし、

母は犯人に仕立て上げられた。


母は獄中で発狂し、死んだ。


私は理解した。


この世界は強者が支配しているのではない。

愚者が多数決で決めている。


それが、世界の正体だ。


施設に入れられた私は、

凡人どもの中で呼吸をした。


退屈だった。


殺してやりたいほど、退屈だった。


私は優秀だった。

だが優秀であることは、私にとって誇りではなかった。


ただの確認作業だ。

私は凡人ではないという確認。


私は物理と数学に没頭した。

世界は数式で、裏切らない。

人間と違って。


16歳で高認を取り、

最高学府の医学部へ入った。


首席だった。


当然だ。


そこで私は出会った。


悪性細胞。


顕微鏡越しに見たそれは、

あまりにも美しかった。


増殖。侵食。適応。

躊躇がない。


人間は迷う。

悪性細胞は迷わない。


人間は倫理を語る。

悪性細胞は生きる。


私は心酔した。


凡人どもはそれを「病」と呼ぶ。

私はそれを「進化」と呼ぶ。


神は、人間に最高の贈り物を与えていた。


それを、凡人どもは“治療”と称して殺している。


滑稽だった。


私は決めた。


ならば、私は神の意志を継ぐ。


しかし、学会で私の論文は嘲笑された。


倫理。


その曖昧模糊な言葉で、

彼らは私を殴った。


倫理とは何だ。


多数派の安心のことか。


犠牲とは何だ。


進化の過程のことではないのか。


私は笑った。


凡人どもと同じ土俵に立つのはやめた。


私は地下へ潜った。


宗教法人。

人身売買。薬物。闇金融。闇賭博。


金は湧き出た。

人体も湧き出た。


被検体は泣いた。

叫んだ。

壊れた。


だが私は美しいものを見ていた。


発現。


知覚系。

物理系。

特殊系。


だが問題があった。


寿命だ。


力は発現する。

だが肉体が耐えられない。


数時間。

数日。

最高記録で七日。


私は十年、足踏みをした。


そして理解した。


必然からは生まれない。


偶然だ。


宇宙は偶然でできている。


ならば、撒けばいい。


私はコード818を完成させた。


血を薄めたような赤い液体。


全国の医療機関へ紛れ込ませた。


患者は死ぬ。


だが元より余命幾ばくもない。


私は祈らなかった。


観察した。


十五年。


七人。


七人、生き延びた。


私は彼らの血を盗み、

解析し、

ついに掴んだ。


寿命と発現の相関。


生きながら、神に近づく方法。


最初の被検体は、私自身。


私は死ななかった。


私は選ばれた。


違う。


私は、選んだ。


そして今。


時は満ちた。


次の段階へ進む。


私は真の神になる。


凡人どもは、ようやく理解するだろう。


自分たちが踏み潰してきた“病”こそが、

進化だったことを。


――――――


目が覚めた。


天井を見つめていた。


俺の左腕を枕にして、アキがすやすやと眠っている。

腕は全然痛くない。むしろ軽い。


アキの頭って、こんなに軽かったか?


昨日の夢を思い出した。


――ワレヲマモレ。


守れ、か。


言われなくても守るけどな。


でも、あれはアキの声だったのに、アキじゃなかった。

あの響きはもっと、冷たい何かだった。


まあ、夢だ。考えすぎか。


「うーん……」


アキが目をこすりながら目を開けた。


俺を見て、少し照れくさそうに笑う。


「おはよう。」


「おはよう。」


自然と笑みがこぼれる。


アキは俺の胸に顔をうずめながら、くぐもった声で言った。


「リク、大好き。好き好き。」


俺も、と言いかけた瞬間、左頬に軽いキス。


「シャワー浴びてくる。」


裸のまま寝室を出ていく後ろ姿。

細い背中。くびれた腰。柔らかい光。


きれいだ。


俺、ついにここまで来たんだな。


付き合ってまだ十日そこら。

なのにもうこんなに深いところにいる。


幸福と同時に、ぞわっとした恐怖が背中を撫でた。


失うかもしれない。


でも、それを考えるのは違う。


一秒でも長く、ちゃんと愛そう。


今だけでもいい。


――――――


バスローブを羽織り、リビングへ出る。


壁一面の姿見の前に立つ。


ローブを解き、裸になる。


……でかくなってる。


胸板。肩幅。腹筋。


ソフトマッチョとムキムキの間くらい。


童貞卒業でこうなるなら、世の中みんなムキムキだろ。


問題は、髪だ。


銀色。光を受けて、うっすら虹色に揺れる。


昨日、あの男を投げ飛ばした時。


あれは、ただの興奮じゃない。


俺は大理石の低いテーブルに近づいた。


右手で端を掴む。


持ち上げる。


……軽い。


発泡スチロールみたいに。


数百キロはあるはずだろ、これ。


俺の体で、何かが起きてる。


アキのあの蛇と同じ何か。


ベランダに出た。


昔は高所が怖かった。


今は、何も感じない。


柵に立つ。


なんとなく、飛べる気がした。


跳んだ。


「うおっ」


軽い。


空気が柔らかい。


軽く二百メートルは飛んだ。


そのまま屋上に着地。


膝が痛くない。


息も乱れない。


守れってことか?


何から?


答えはない。


……全裸だった。


慌てて戻る。


リビングに戻ると、バスローブ姿のアキがソファに座っていた。


「リク、外で何してたの。そんな恰好で。」


笑っている。


俺はローブを拾って着た。


「アキ、ちょっと来て。」


ベランダへ連れ出す。


「ごめん。」


姫抱き。


「え?」


跳ぶ。


「きゃああ!」


今度はもっと高く。


雲に届きそうな高さ。


屋上へ着地。


「なにこれ、すごい……!」


「俺もわからない。でも、できる。」


アキは俺の腕の中で目を閉じ、唇を突き出した。


キス。


屋上の風の中で、長く。


部屋に戻り、ソファに並ぶ。


ルームサービス。


俺はステーキセット。


「そんなに?」


「腹減ってしょうがない。」


アキは笑う。


「リクが食べてるの見るの好き。」


少し間が空いた。


「ねえ。」


「ん?」


「私の力、なくなったみたい。」


空気が変わった。


「さっきシャワーの時、覗こうとしたの。色も見えない。」


俺は黙った。


アキは微笑む。


「でもいいの。」


俺の腕にしがみつく。


「もう望み、かなえちゃったから。」


俺はアキの首の後ろに手を回した。


「好き。」


「私も。」


心はもう読めない。


だから言葉で言うしかない。


それは少し不便で、でも、少し嬉しい。


――――――


俺はアキとのブランチをすませ、シャワーを浴びに浴室へ入った。


改めて思う。

なんだこの浴室は。


バカでかいジェットバス。

その奥にヒノキの露天風呂。


昨日、アキと一緒に入った時の光景が蘇って、

一瞬で理性が蒸発しかけた。


やばい。


これは危険だ。


結局、ジェットバスには近づかず、

手前のシャワースペースでさっと流して、

そそくさと出た。


バスローブで適当に水分をぬぐいながらリビングへ戻ると、

アキはすでに服を着て、化粧台の前で何かしていた。


その後ろ姿を見た瞬間、我慢が吹き飛んだ。


後ろから抱きしめる。


「ごめん、我慢できない。」


そのまま抱きかかえて寝室へ。


……まあ、しょうがない。


本当にすまん。


タイムリミットは17時。


16時50分。


やっと俺たちは現実に戻った。


「急がないと。サイトウさん、時間には超厳しいの。」


アキが慌てて散らかった部屋を片づけ始める。


タオル、ペットボトル、丸まったティッシュ、ショッピングバッグ。


俺も手伝おうとすると、


「大丈夫。リクは着替えて。」


10分なんて一瞬だった。


「これ着て。」


アキが黒のトレンチコートを広げる。


腕を通す。


ぴったりだ。


なんか、ちゃんとした男になった気がする。


「行こ。」


ドアを開けた瞬間。


そこに立っていた。


黒のパンツスーツ。鋭い目。


30代後半くらいの女性。


空気が変わる。


「ごめん、サイトウさん。遅くなっちゃった。」


「お嬢様、7分遅刻です。歩いてください。」


冷たい。


俺は会釈する。


「クルスです。どうも。」


一瞥。


無反応。


エレベーターを降り、ロビーへ。


俺は回転ドアの前で立ち止まった。


「サイトウさん。ここの代金、俺に払わせてください。」


昨日21万勝った。


さすがに20万はいかないだろ。


高をくくっていた。


「ちょっと、リク。」


アキが不安そうに見る。


「クルス様。あなたに払えますか。」


「大丈夫・・・です。」


声が少しだけ上ずった。


「少々お待ちください。」


サイトウさんが奥へ消える。


アキが小声で言う。


「リク、ほんとにいいの。払う必要ないよ。」


「男の意地だ。」


数分後。


A4の明細書。


受け取る。


ちらっと見る。


もう一度見る。


三度見る。


79万2千円。


……は?


脳が停止した。


「お代金は結構です。クルス様。」


淡々。


そう言い残して外へ出る。


俺は立ち尽くしたまま。


アキが追いかけながら叫ぶ。


「サイトウさん!リクをいじめないでよ!」


ロビーに一人。


俺って。


ダサすぎるだろ。


――――――


ホテルの前には黒い高級セダンが停まっていた。


サイトウさんが後部座席のドアを開け、無言で目配せする。


俺はバイクを思い出した。


「すみません。俺、バイクで戻ります。駐輪所に停めてるんで。あと……このコート、ありがとうございました。」


アキが俺の袖をつまんだ。


何か言いたげな目。


でも俺は軽く笑って言った。


「大丈夫。病院で会おう。すぐ追いつく。」


そう言って、そっとアキを車内へ押し込み、ドアを閉めた。


サイトウさんは一瞬だけ俺を見た。


「わかりました。お気をつけて。」


ドアが閉まる。


黒い車体は静かに滑り出し、街に溶けていった。


一泊79万。


79万てなんだよ。


普通に上場企業のボーナスじゃねーか。


俺は歩きながら、頭の中で同じ言葉を何度も反芻していた。


俺、この先アキを幸せにできるのか?


住む世界が違う。


生還できたとしても。


アキは――


離れていくんじゃないか?


現実って残酷だ。


生きるって、そんな単純じゃない。


……いや。


だったら。


この力で格闘技の世界チャンピオンになればいい。


スポンサーついて、億稼いで。


俺、今、超つえーし。


……でも。


この力、消えたら?


その瞬間、俺はただの中卒フリーター。


漫画家?


描いたことねー。


勉強?


今さら?


……いや、そもそも。


これは勉強でどうにかなる問題じゃない。


気づいたら、独り言が漏れていた。


地下駐輪場。


バイクにまたがる。


高速は使わない。


なんとなく、人のいない高架下へ、


停車した。


むしゃくしゃする。


飛ぶか。


スマホで病院の方角を確認。


バイクを片手で持ち上げる。


軽い。


空のペットボトルみたいだ。


ホップ。


ステップ。


ジャンプ。


空気が裂ける。


風が顔を打つ。


山をひとつ飛び越える。


「うひゃー。」


笑いがこぼれる。


楽しい。


ダムを見つける。


端から端へ幅跳び。


ピョン。


ピョン。


俺、何してんだ。


でも止まらない。


力が気持ちいい。


自分が、自分じゃないみたいだ。


気づけば病院近く。


そろそろバイクに乗るか。


左手を見る。


……ハンドルのグリップしか残ってない。


粉々。


やりすぎた。


「まじかよ……」


仕方なく、そこからは歩いた。


病院の駐車スペース。


黒いセダンはすでに停まっていた。


時間的にはギリセーフ。


……バイクは死んだが。


自動ドアをくぐる。


消毒液の匂い。


白い壁。


いつもの空気。


さっきまで山を飛び越えてた男とは思えない。


でも今はそれどころじゃない。


とりあえず。


アキに会いてぇ。

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