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私は、物心ついたころから、両親の期待に応える自分を演じていたのだと思う。


決められた人生が待っている。

変えられないのなら、従ったほうが賢い。


それを理解できるくらいには、私は聡かった。


初等科一年から、家庭教師、水泳、ピアノ。


忙しかった。でも嫌ではなかった。


ただ、本当は。


漫画もアニメも自由に見たかった。

友達とマックに行きたかった。

ディズニーランドに行ってみたかった。

自由に使えるスマホが欲しかった。

カラオケにも行ってみたかった。


でも、それを口にしたことは一度もない。


悟られない努力すら、必要なかった。


「アキは家柄が凄いから」

「根っからのお嬢様だから」


周りが勝手にそう決めていた。


抗うという発想は、最初からなかったのだと思う。


六年生の春。


左肩に違和感を覚えた。


ランドセルが、左だけやけに重い。


それでも背筋を伸ばして歩いた。


異変を誰にも言えなかった。


言ってはいけない気がした。


一年が過ぎようとした頃、高熱にうなされた。


風邪の症状はない。ただ熱と、全身の痛み。


一晩で引いた。


二週間後、また同じ症状。


でも私は「風邪っぽい」と誤魔化した。


両親は忙しかった。

私が邪魔をしてはいけないと思った。


そして春休み前の朝。


私は起き上がれなくなった。


最初に思ったのは――安堵だった。


これで、休める。


都内の大学病院の最上階。


このままずっと寝ていたいと思った。


両親と過ごす時間が増え、それだけで幸せだった。


弟が泣いたこともある。


「お姉ちゃんばっかりずるい。僕もママといる。」


そのときまでは、過酷な未来が待っているなんて、思いもしなかった。


治療が始まると、私は思った。


これは罰だ。


嘘ばかりついてきた罰。


演じ続けてきた罰。


そうに違いない、と。


最初の一年は友達も見舞いに来てくれた。


でも次第に来なくなった。


これも罰だと思った。


私は親友を持ったことがなかった。


演じた友情の罰。


私は死ぬべき人間だと思った。


勝手に死なせてくれるだろうと流れに任せた。


でも、しぶとく生き残った。


死と隣り合わせのまま。


時限爆弾を抱えて、ベッドで死を待つのは嫌だった。


私は自分に問いかけた。


私は、何がしたい?


考えた末に出た答えは、ひどく単純だった。


――恋がしたい。


一度でいい。


少女漫画のような恋を、自分の体で感じたい。


そして同時に。


生きたい。


強く、思った。


あの力が発現したのは、それから間もなく。


最初は制御できなかった。


色が見える。


覗くと、言葉が流れ込む。


気を失うこともあった。


これも罰だと思った。


人を見るたびに、幻覚のような言葉が耳に流れ込む罰。


でも違った。


両親の色を見たとき、確信した。


あたたかい白。


覗き込むと、父の焦り、母の祈りが聞こえた。


「生きてほしい」


これは幻覚ではない。


それから私は試した。


少しずつ、力を制御できるようになった。


色を保ち、覗き、言葉を聞く。


やがて思うようになった。


どうせ人はいつか死ぬ。


明日死ぬかもしれない。


なら、今日を生きる。


この力で、夢を叶える。


その頃には、最後の投薬から一年以上が経っていて、髪もショートボブになっていた。


そして気づいた。


自分の容姿が、男性に“受ける”ことに。


力がなければ、一生気づかなかったと思う。


私は男たちの色を覗いた。


同年代の色は、ほとんど黒。


中身はもっと黒かった。


「病気持ち」

「妊娠しないなら都合がいい」

「ヤれるだけヤりたい」


背景を知らない男も同じ。


欲望。消費。所有。


私は失望した。


次第に、覗くことが怖くなった。


自信もなくなった。


でも、諦めたくなかった。


だから、環境を変えようと思った。


遠い場所へ。


親の説得は大変だった。


祖母を保護者にする条件で、転院が決まった。


そして。


転院初日。


私は、運命の人と出会った。


――――――


病院裏のベンチの前には、横一列に駐車スペースが並んでいる。


でも車は一台もない。


夏はとうに過ぎ、空気はからっとした秋。


暑くも寒くもない。


今、この場所には、天使と俺しかいない。


「ごめんなさい。本当に。でも私はあなたと……友達からでも……」


天使の声が震えていた。


……泣いちゃってるじゃねーか。


何とかしろ、俺。


「君の話は信じるよ。でも……なんだか恥ずかしい。もしかして今も俺の考え、覗いてる?」


言葉を選んだつもりだった。


でも少し責めるような響きになってしまったことを、すぐに後悔した。


「今は、覗いてない。」


天使の目から、涙が一筋こぼれ落ちた。


おーーーい。


さらに泣いちゃったぞ。


どうすんだこれ。


俺は前を向いた。


駐車スペースの先の金網を見つめながら、息を吸った。


「じゃあ……もう答えはわかってるはずだよね。」


一拍置く。


「でも、ちゃんと言うよ。」


心臓がうるさい。


「俺は君に一目ぼれした。」


空気が止まる。


「こんな感情、生まれて初めてなんだ。正直、これまで碌な人生じゃなかった。でも今は、病気になって初めてよかったと思えた。」


自分で言っていて、少し笑いそうになった。


「俺、口下手だからうまく言えないけど……すごくうれしい。本当に。」


そして、顔を向けた。


「こんな俺でよければ、お付き合いしてください。」


次の瞬間。


天使が、勢いよく抱きついてきた。


顎が俺の左肩に触れる。


細い体が密着して、小刻みに震えている。


「ありがとう……」


泣きながら、そう言った。


俺は、天使のくびれた腰にそっと腕を回した。


壊れ物みたいに、でも確かに、抱きしめた。


――――――


彼女と付き合うことになった俺は、一分一秒でも多く一緒にいるために、現状を整理し、対策を立てた。


次の投薬は二週間後。


それまで点滴を刺しっぱなしでは、自由がない。


通院患者が家で生理食塩水を流し続けているわけではないのだから、俺にもその必要はないはずだ。


看護師経由で担当医に確認してもらうと、あっさり許可が出た。


第一関門クリア。


俺は二週間の自由を得た。


アキの治療は、四十八日後に手術。


その間に放射線治療を一度挟み、その後PET-CTで経過を見る。


点滴はなし。


さらに、祖母は一度帰ることになった。


老体で泊まり込みはきつい。


放射線治療のときに戻るという約束で、静かに去った。


こうして、俺とアキの間の障壁は、期限付きではあるが、ほぼ消えた。


移動手段も欲しかった。


父に頼むと、翌日には軽トラに125ccのスクーターを載せてやってきた。


だいぶ年季は入っているが、タンデムシートは広い。


二人乗りにちょうどいい。


ちなみに俺は、バイクはそこそこ得意だ。


それからの一週間は、信じられない速度で過ぎた。


ショッピングモール。


カフェ。


湖。


老舗ラーメン店。


海。


展望台。


バイクで行ける範囲のありとあらゆる場所へ行った。


彼女といるだけで、世界は明るかった。


漫画や映画、アニメの好みも一致していた。


闘病生活が長かった分、アキの読書量は俺の数倍。


次々と名作を勧められ、語り合った。


愛についても話した。


たくさん伝えた。


たくさん伝えられた。


明日死んでも悔いがないように。


言葉はときどき不器用で、ときどき情熱的だった。


彼女はよく涙を流した。


そのたびに、胸が締めつけられた。


そして、キスしたいと思った。


でもできなかった。


ヘタレはそう簡単には治らない。


――――――


付き合って九日目の夕方。


病室で、昼間の余韻に浸っていた。


気づけば外は真っ暗。


今日、空が異様に澄んでいたことを思い出した。


俺は立ち上がり、スマホを手に取った。


「アキ、体調どう?」


「全然大丈夫。」


ハートのスタンプ。


「今から会える?」


「うん。会いたい。」


「一階に来て。」


俺は下見を済ませていた。


外は、満天の星空だった。


エレベーターが一階に着き、扉が開いた瞬間。


アキが飛び出してきた。


そのまま、勢いよく抱きついてきた。


そして、唇が触れた。


一瞬、時間が止まった。


柔らかく、温かく、震えていた。


俺はそっと腰に手を回した。


短く息が混じる。


離れたあと、俺は言った。


「……もしかして、覗いた?」


「え?」


「俺の中。」


沈黙。


「……図星だね。」


「ごめん。でも違うの。昨日の夜、リクがキスしたいって聞いたのは確か。でもね、私もしたかったの。」


脳が一瞬停止した。


踏みとどまる。


「今日は?」


「今日は覗いてない。」


「じゃあ、キスするのに最高の場所、行く?」


裏のベンチ。


空は星で埋め尽くされていた。


二人だけの世界。


言葉はもういらなかった。


唇が重なり、


呼吸が溶け合い、


時間が、ゆっくりほどけていった。


秋の夜風が、やさしく頬を撫でていた。


――――――


夢を見ていた。


目の前に、光があった。


あまりにも眩しくて、目を閉じたかった。


でも、瞼が動かない。


光はゆっくり、しかし確実に近づいてくる。


輪郭が、浮かび上がる。


それは――虹色に発光した蛇だった。


蛇は、俺を見ていた。


真っ直ぐに。


叫ぼうとした。


声が出ない。


次の瞬間、蛇は口を開き、俺の口へと入り込んできた。


「あ……あ……」


拒めない。


どんどん入ってくる。


喉を、胸を、腹を、貫くように。


全長は数十メートルはあるようだった。


入ってくるたびに、体が軽くなる。


いや、浮いている。


「あ……ああ……」


最後の尾が喉を通り抜けた瞬間、


「あっ!」


と叫び、目が覚めた。


「はあ……はあ……」


過呼吸気味だった。


背中は汗でびっしょり。


朝の光が差し込んでいる。


間仕切りカーテンの隙間から、隣の少年が覗いていた。


「お兄ちゃんどしたの?」


「ああ……大丈夫。変な夢見ただけ。」


「ふーん。」


少年は顔を引っ込めた。


俺は十秒ほど動けなかった。


それから、無意識に頭を掴んだ。


……髪がある。


いや、それどころじゃない。


指の間を、長いものがすり抜けた。


目の前に垂れ落ちるそれは――銀色。


いや、光の当たり具合で虹色に揺れている。


長さは、一メートルはある。


心臓が止まりそうになった。


「なんだ……これ。」


俺は立ち上がった。


足元がふわりと軽い。


重力が薄い。


体が、違う。


ベッドを飛び出し、廊下へ出た。


とにかく外へ。


エレベーター前へ向かう。


看護師がこちらに気づいた。


「あら、鬘? 似合ってないわよ。長すぎる。」


「はは……そうなんですよ。返品しに……」


声が震えていた。


「ちゃんと外出許可出してからよ。」


その瞬間、エレベーターの扉が開いた。


俺は滑り込んだ。


一階。


外。


走る。


銀色の髪が背中で揺れる。


体が、異様に軽い。


血が沸騰しているみたいだ。


バイクの前で立ち止まる。


深呼吸。


昨日。


アキと星空の下でキスをして。


部屋に戻って。


SNSでやり取りして。


眠った。


そして夢を見た。


虹色の蛇。


――蛇が、入ってきた。


――――――


「うん。リク。似合ってるよ。」


「いや、そういう問題じゃ……」


「でも長すぎるわね。切りに行きましょう。」


「え?」


「このままだと怪しすぎるでしょ。」


「……確かに。」


俺は駐輪スペースにアキを呼び出し、夢のこと、蛇のこと、目覚めたらこうなっていたことを一通り話した。


だが、アキはどこか楽しそうだった。


不安よりも、好奇心のほうが勝っている顔。


「とにかく今は行きましょう。話はそれから。」


俺はアキを後ろに乗せ、バイクを走らせた。


体は異様に軽い。


風を切る感覚が、いつもと違う。


大型ショッピングモールに着くと、俺たちはどうやら別々のことを考えていたらしい。


「バリカン買って自分で坊主にしたほうが早いと思うけど。」


「ダメ。絶対ダメ。」


即答だった。


「こんなにきれいな髪、もったいないよ。美容院行きましょう。ちゃんとカッコよくしてもらうの。」


「いや俺、目立ちたくないんだけど……」


「もう十分目立ってる。」


正論だった。


結局、美容院に入った。


案の定、美容師は食いついた。


「え、これ地毛ですか?カラーどうやって?どのくらい伸ばしたんです?お仕事は?」


うるせえなと思った瞬間、アキが横からすっと割って入った。


「彼、ヘアモデルなの。カラー専門の。美容師さんならわかるでしょ?新人さんの練習台なのよ。いろいろ試されているうちに、こんな不思議な色になっちゃったの。」


にこり。


完璧な営業スマイル。


「髪は……十年くらい伸ばしたのかしら。とにかくバッサリ切ってください。カッコよく。」


美容師は一瞬ぽかんとしたあと、


「へぇ……すごいっすね。」


それ以上は聞かなかった。


鏡の前で、長い銀色の髪が切られていく。


床に落ちるたび、なぜか胸がざわつく。


髪の断面が、ほんの一瞬だけ虹色に光った気がした。


気のせいだと思いたかった。


シャンプー。


ドライヤー。


仕上げ。


鏡に映ったのは、見慣れない自分だった。


銀色の短髪。


光の角度で、微かに虹が揺れる。


アキが両手を目の下に当てて、にやにやしながら近づいてきた。


「かっこいい。妬けちゃう。」


「からかわないでよ。」


顔が熱い。


でも、アキの目は本気だった。


――――――


それから一階のフードコートへ。


俺はたこ焼きとジンジャーエール。


アキはワンタンメン。


湯気が立ちのぼる。


どこにでもある平凡な光景。


でも俺の中では、何かが静かに変わっていた。


箸を持つ手が、少しだけ震えている。


胸の奥で、何かが脈打っている。


蛇の感触が、まだ喉の奥に残っていた。


お互いを見つめながら食事をとった。


食べ終わったあと、アキが言った。


「でも私は、髪があってもなくても、リクのこと大好きだからね。」


「ありがとう。」


「でも本当に似合ってる。」


どうやら今日は髪の話から離れないらしい。


「そういえばさ、夢の話なんだけど。」


話題を切り替えた。


アキの表情が少し真剣になる。


「多分、私が前に見た蛇と同じだと思う。」


「やっぱりそうだよな。」


「だとしたら、リクにも力が発現している可能性がある。」


「うーん……」


「目を閉じてみて。私から色が見えないか、集中して。」


俺は目を閉じ、アキに意識を向けた。


何も見えない。


もう一度。


唸るように集中する。


……やっぱり何も見えない。


「何も見えないよ。」


そう言った瞬間、アキが立ち上がった。


「ちょっと待って。リク、なんか体大きくなってない?」


「は?」


「昨日よりがっちりしてる。立ってみて。」


言われるまま立ち上がる。


アキが俺の胸に顔をうずめ、腰に腕を回した。


「ちょ、見られてるって。」


「やっぱり。背も少し伸びてる。」


見上げる瞳が真剣だった。


俺も違和感はあった。


筋肉の張り。


骨の位置。


重心。


確実に何かが違う。


「ここじゃ恥ずかしいから、もう出よう。」


俺はアキの手を引き、ショッピングモールを出た。


――――――


バイクの駐輪スペースへ向かう途中だった。


突然、膝の裏を蹴られた。


バランスを崩す。


振り向く。


三人。


ずんぐりむっくりの男。


力士みたいな巨体。


ナイフを持った痩せた男。


完全にヤカラだ。


「お前どこのもんじゃあ、ゴルァ。」


声が低い。


嫌な匂い。


アキの手を握る。


「先に逃げろ。モールに戻れ。」


「でも――」


「大丈夫。」


言い終わる前に、力士の男がアキを羽交い締めにした。


「カワイ子ちゃんは俺と遊ぼか。」


その瞬間。


胸の奥で、何かが弾けた。


音がした気がした。


視界が白く染まる。


「アキに触るな!」


叫んでいた。


次の瞬間には、俺は動いていた。


気づけば、片手で男の首を掴んでいる。


巨体が宙に浮く。


軽い。


信じられないほど軽い。


アキの拘束が解け、地面に尻もちをつく。


俺はそのまま男を投げた。


風を切る音。


五メートル以上は飛んだ。


地面に叩きつけられた衝撃音。


静寂。


残りの二人が後ずさる。


「ひ、ひぃ……」


情けない声。


ずんぐりむっくりと痩せ男は、倒れた巨体を担ぎ、逃げていった。


俺は追おうとした。


まだ怒りが収まらない。


視界の端が赤く染まっている。


「リク!」


アキの声。


そこで我に返った。


振り返る。


アキが立ち上がっている。


震えている。


俺は駆け寄り、抱きしめた。


そのとき、アキが小さく言った。


「リク……さっき、髪の毛が……」


言葉を遮るように、俺は強く抱きしめた。


――――――


俺はアキを後ろに乗せ、行き先も決めずにバイクを走らせた。


高速に乗った。


アクセルを開け続けた。


風が顔を叩く。


怒りが抜けない。


胸の奥で何かがまだ暴れている。


気づけば夕方だった。


後ろから、アキが強く抱きしめてきた。


その体温で、ようやく我に返る。


少し先に出口の標識が見えた。


そのまま高速を降りた。


そこは、病院の周辺とは別世界だった。


高層ビルと住宅街、小さな店が混ざり合う、ごく普通の市街地。


その“普通”が、妙に遠く感じられた。


駅ビルがあった。


地下の駐輪場にバイクを停め、六階のダイニングカフェへ。


窓側の席に案内された。


街が一望できる。


ネオンが灯り始めていた。


テーブルを挟んでメニューを見る。


俺は、腹が異様に減っていた。


ホットドッグ。


ナポリタン。


ビーフカレー。


オレンジジュース。


アキはホットケーキとカフェオレ。


「すごい食べるんだね。育ち盛り。」


「いや、正直自分でも驚いてる。でも、体が欲してる感じなんだ。力がみなぎってるというか。ついこの前まで何も食べられなかったのに。」


少し沈黙。


アキが続けた。


「実はね、私も思い当たることがあるの。」


俺は視線を上げた。


「心が読めるようになってからなんだけど、その後も何度か投薬はあったの。でもね、怠さとか吐き気が、一切なかった。」


「慣れたとかじゃなくて?」


「そう言われた。でも違う気がするの。」


アキは窓の外を見ながら言った。


「うまく言えないけど……病原体が薬を吸い込んでくれているみたいな感覚だった。」


背筋が冷える。


「それからね、私は病気のはずなのに、病気にかかっている気がしないの。今も。」


視線が交わる。


沈黙。


空気が少し重くなる。


「あ、そうだ。」


アキが思い出したように言った。


「さっき言いかけたこと。」


俺は頷いた。


「リクが私を助けてくれたとき……髪が虹色に光ってたの。」


「反射とかじゃなくて?」


「違う。あの蛇みたいに、内側から光ってた。」


鼓動が一つ、強く鳴る。


「あと……すごくカッコよかった。アニメのヒーローみたいだった。」


頬を赤らめる。


「はは……ありがとう。でも、あれは何だったんだろうな。」


そのとき。


「お待たせしました。」


店員が料理を運んできた。


会話が一旦途切れる。


俺は、運ばれてくる料理をほとんど無意識で平らげた。


自分でも怖いくらいの速度だった。


皿が空になる頃、アキのホットケーキはまだ半分以上残っている。


「本当によく食べるのね。」


アキが笑って、俺の頭を撫でた。


「恥ずかしい。」


その瞬間、嫌な予感がよぎった。


スマホを見る。


不在着信。


病院から二件。


嫌な汗がにじむ。


「アキ、そろそろ戻ろう。暗くなる前に。」


反応がない。


「今日、外出許可もらってないんだ。」


それでも。


アキは椅子にもたれ、足を伸ばしたまま言った。


「嫌。帰りたくない。」


その声は、わがままではなかった。


切実だった。


「みんな心配してる。着信も来てる。」


言い終わる前に、アキが言葉を被せる。


「私が何とかする。」


「何とかって……」


「ちょっと待って。」


アキはスマホを取り出した。


どこかに電話をかける。


コール音。


窓の外では、夜が完全に降りていた。


――――――


数秒後、アキが通話をはじめた。


「……あ、サイトウさん? いきなりでごめんね。ちょっとお願いがあって。」


声色が一瞬で“無邪気”になる。


「うん、そうそう。あのね、今ちょっと病院じゃなくて外なの。で、今日お友達と遊んでて、戻れそうにないの。もちろん大丈夫だよ? うん。だからね、パパとママには絶対内緒でお願い。ほんと絶対。」


ちらっと俺を見て、にこっと笑う。


「その友達なんだけど、同じ病院の人で……クルス・リクっていうの。この人も戻れなくなっちゃったから、病院にはうまく伝えておいて。お願い。一生のお願い。……えー、男だけどさ。違うのよ。そんなんじゃないって。」


電話越しの声は聞こえない。


でも、だいたい想像はつく。


これ本当に大丈夫か?


と、俺が訝しんでいると、


アキがスマホを差し出してきた。


「ごめんリク。電話出てもらえる? リクと話したいんだって。」


マジかよ。


逃げ場なし。


腹を括る。


「もしもし。お電話代わりました。クルス・リクです。」


「はじめまして、クルス様。カツラギ商事株式会社秘書部長のサイトウと申します。」


女性の、落ち着いた声。


圧がある。


カツラギ商事。


名前だけで胃がきゅっとなる。


「お嬢様とはお友達と伺っておりますが、どういった理由で病院に戻れないのか、お聞かせ願えますでしょうか。」


沈黙。


数秒。


逃げるな。


俺は腹を決めた。


「アキさんとは病院で知り合いました。僕が一目ぼれして、今はお付き合いさせていただいています。」


言ってしまった。


「もちろん二人とも闘病中ですので、遠出はできませんが……今日は少しだけ遠くに行ってみたいと思い、僕のバイクで走っていたら、知らない場所まで来てしまいました。それで、暗くなり、戻れなくなりました。申し訳ございません。」


静寂。


本当に、三十秒はあった。


胃が痛い。


「クルス様。現在地はお分かりになりますか。」


俺は立ち上がり、窓の外の駅名を確認する。


「○○駅の駅ビルです。」


「承知いたしました。」


即答だった。


「駅ビル裏手に“ホテルカツラギ”がございます。お部屋をご用意いたします。本日はそちらにお泊りください。」


え。


話が早すぎる。


「なお、バイクでの移動は極めて危険です。今後、お嬢様を後部座席に乗せることはお控えください。」


正論すぎる。


「最後に。誤解が生じるおそれのある行動は、慎みいただけますよう、お願いいたします。」


釘を刺された。


やわらかい口調で、がっつり。


「……はい。承知しました。」


「では、お嬢様にお代わりください。」


通話を終えた瞬間、どっと疲れが押し寄せる。


肩が重い。


アキにスマホを渡す。


アキは、さっきの無邪気な声で話しはじめた。


「えーそうなの? 実は彼氏。へへへ、ごめんって。」


彼氏って言ったぞ今。


「えー、2泊3日にしてよ。……えー。いやだー。……えー。わかったよ。」


しばらく押し問答。


そして。


「15時は早すぎる。17時にして。……うん、ありがとうサイトウさん。じゃあね。」


通話終了。


アキはスマホを口元に当てたまま、上目遣いで俺を見る。


「明日の17時に迎えに来るって。それまで私たちは自由。」


キラキラしている。


本当に、心の底から嬉しそうだ。


自由。


期限付きの自由。


俺はその言葉の裏にあるものを考えてしまった。


“17時まで”。


それは、カウントダウンでもある。


でも今は。


「……20時間以上あるってことか。」


「うん。」


アキが笑う。


「リク、どこ行く?」


夜の街が、ガラス越しに光っている。


世界は普通に回っている。


でも俺たちは、


確実に普通から外れ始めていた。


――――――


「さあ、着いたわよ、ホテル。入りましょ。」


「……やっぱ、やめた方がいいと思う。」


アキが足を止めた。


「どうして?」


「アキ、あのサイトウさんって人さ……あの人には嘘はつけない。だから俺は正直に、付き合ってるって言った。」


「それは……私は嬉しかったけど。」


「嬉しいとかじゃなくてさ。俺、試されてる気がするんだよ。」


アキが首をかしげる。


俺はホテルの看板を指差した。


「読んでみて。」


「ホテルカツラギ。」


「で、アキはカツラギグループのお嬢様。隠しカメラで監視されてるかもしれないだろ。俺の人間性チェックだよ。これ。」


「そんなわけないじゃない!」


「そもそも、なんで言わなかったんだよ、こんな大事なこと。」


「大事なことって何よ。」


「アキがカツラギグループのお嬢様だってこと。」


「そんなの関係ない!」


「関係あるだろ! こっちは中卒フリーターだぞ!」


アキの瞳に涙が溜まる。


「私は私なの。家柄なんて関係ない!」


「関係なくないんだよ……!」


言った瞬間、言いすぎたとわかった。


アキの目から涙が零れ落ちた。


「もう……知らない。」


それだけ言い残して、ホテルの自動ドアの向こうへ消えていった。


俺はその場に立ち尽くした。


胸が苦しい。


ちょっと言いすぎたかもしれない。


いや、でも。


ぐるぐる回る。


戻るか?

病院に?

ホテルに?

いや、監視されてるかも。

でもアキに会いたい。

でもサイトウが。

でも。


堂々巡り。


俺はふらふらと歩き出した。


気づけば、光に吸い込まれるようにパチンコ店へ入っていた。


爆音。

ネオン。

意味のない煌めき。


CR森物語。


財布にあった万札を一枚、投入口へ滑らせる。


玉が弾かれる。


でも頭の中は――


アキ。


アキに会いたい。


アキに会いたい。


アキに会いたい。


抱きしめたい。


キスしたい。


会いたい。


会いたい。


会いたい。


思考がループする。


いつの間にか大当たりが来ていた。


34連チャン。


換金21万円。


なのに、何も嬉しくない。


金じゃない。


欲しいのは――


「リクのバカ!」


振り返る。


ベージュのトレンチコート。


アキだ。


俺は走った。

アキも走った。


ぶつかるように抱き合う。


「会いたかった。」


涙が勝手に出る。


「知ってる。」


あ、そうだった。


アキは心が読めるんだった。


「ずるいよ。」


「違う。ずるいのはそっち!」


アキが叫ぶ。


「私は聞こえるのに、どうしてリクは私の気持ちがわからないの!」


胸が締めつけられる。


「私はいつ死ぬかわからない。でも、あなたに出会えた。やっと出会えたの。だから時間を無駄にしたくないの。家柄も学歴も関係ない。私だって小卒よ!」


人目も憚らず、二人で泣いた。


ぐちゃぐちゃになって。


子どもみたいに。


少し落ち着いて。


「そのコート、似合ってる。」


「サイトウさんから。リクのもあるよ。」


「え?」


「彼氏ができたから、って。」


胸がじんわりする。


「……ホテル戻ろう。」


最上階のスイートルーム。


広すぎる空間。


テーブルの上に豪奢な箱が二つ。


ひとつは開封済み。


「開けてみて。」


黒のトレンチコート。


そして、メッセージカード。


クルス・リク様

アキお嬢様を悲しませるようなことがあれば、私が許しません。

――サイトウ


脅しじゃない。


覚悟だ。


俺はアキを抱き寄せた。


「泣かせない。」


そう囁いた。


その夜、

俺たちは、互いの存在を確かめ合うように、

何度も抱きしめ合った。


外の夜景は静かに瞬き続けていた。


――――――


夢を見ていた。


目が焼けるほどの光が、目の前にあった。


まばゆいという言葉では足りない。

狂気じみた輝きだった。


光は揺れていた。

ギラギラと、脈打つように。


美しさと、どこか生物的な嫌悪が同居している。


手を伸ばせば届きそうな距離。


俺は、躊躇なく手を伸ばした。


触れた瞬間――


光は爆ぜた。


激しく震え、分裂し、増殖し、

まるで細胞分裂の映像を早送りで見せられているかのように、

無限に広がっていく。


視界は白に埋め尽くされた。


音も、重さも、温度もない。


ただ、白。


俺は真っ白な部屋の中に立っているような感覚になった。


その白の奥から、声がした。


「――ワレヲマモレ」


アキの声だった。


でも、人間の声ではない。


震えている。

揺らいでいる。

幾重にも重なっている。


「ワレヲマモレ」


今度ははっきりと。


俺は自分の体を見下ろした。


腕がない。


脚もない。


代わりに、しなやかな鱗が光を反射している。


虹色に。


青でもない。

赤でもない。

全ての色を内包した、流動する光。


俺は――


蛇だった。


長大な、虹色の蛇。


地面も天井もない空間を、ゆるやかに浮遊している。


視界が異様に広い。


空間の振動がわかる。


遠くの“意志”が波紋のように伝わってくる。


そして理解した。


これは夢ではない。


「守れ」


その言葉は、命令ではなかった。


本能だった。


俺の中から、湧き上がる衝動だった。


次の瞬間、白い空間に黒い亀裂が走った。


そこから、濁った影が滲み出す。


俺は、牙をむいた。


牙?


いや、牙ではない。


それは光そのものだった。


――守る。


そう思った瞬間、


世界が砕けた。

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