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ずいぶん前から思っていたのだが、なぜこの鼻という器官の性能は一定しないのだろうか。
目や耳より、極端な気がする。
今日はやけに、嫌なほうの匂いを拾いやがる。
点滴の針を押さえるために貼られた半透明のテープから、甘ったるい嫌な匂いがしている気がする。なんなんだこれは。吐きそうだ。
暇つぶしのために親に買ってもらった旧式のスマホは、YouTubeショートを数日見ただけで、今は電源が入っているのかどうかもわからない状態で放置してある。
とっくにバッテリーは切れているだろう。
今、この瞬間、誰かに話しかけられたらブチ切れる可能性はほぼ100パーセント。
「あら、まだなのね。お薬」
後ろから母の声がした。
あー。一番嫌なパターンだ、これは。
でも結局、ブチ切れたりはしない。
だからといって応える気にもなれない。
この階で一番安いであろう六人部屋の一番奥のベッドで、背を向けたままうずくまっていた。俺は。
母が後ろで荷物を下ろす音が、ごそごそと聞こえる。
俺が寝ていると思ったのかどうか知らないが、リュックから何かを取り出してどこかに置き、何も言わずに病室を出ていった。
それからもしばらく、俺は一ミリも動けなかった。
ベッドの横に看護師の気配がした。血圧を測りに来たのか。
俺はとっさに、点滴が刺さっていないほうの腕を差し出した。
ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅ……。
ぎゅうっと圧迫され、すぱっと解放される。腕が一瞬、自分のものじゃないみたいに痺れる。
なぜ一日に何度も血圧を測るのだろうか。理由は特に知りたくないけど。
血圧を測り終えた看護師は、点滴の状態を確認し、液体の入った注射器を管の栓に差し込み、ぐいっと流し込んだ。二本。
流れ込んだ液体が腕から肩へと広がっていく感覚。そのあと、冷たい何かが鼻から抜けていくような錯覚。
いつものことだ。
このあと、毒の投薬が始まる。
今回で十七回目。
おかげで頭はつるっつるに禿げた。
最初の投薬は、本当に地獄だった。
気絶していたらしい。
断片的な記憶だけが残っている。俺が俺を俯瞰で見ているような感覚。
だから夢だったのかもしれない。
気づいたとき、母と父が俺を見下ろしていた。
それからは吐き気が止まらなかった。
するすると、どばどばと、バケツに吐瀉物をぶちまけながら、人間ってこんなに吐けるんだ、とぼんやり思った。
体はずっと怠かった。
一回目の投薬は約三日間続いたが、その間、まともに食べた記憶がない。多分、何も食っていなかった。
それから十日間は投薬がなく、普通なら一度家に帰って、次の投薬のときにまた戻ってくる。
だが、俺んちは国から選ばれた貧乏家だったため、ずっとここにいられた。
というか、ここにいる病人のほとんどが、国から選ばれし貧乏人だ。だからほとんど家に帰らない。
そういう場所だ、ここは。
貧乏で、余命いくばくもないやつらがごろごろいる場所。
地獄の入り口。
――――――
俺の父はトラックの運ちゃんで、母はスナックで夜のバイトをしていた。
母は若いころえらくモテていたらしい。俺もそれに似て、顔は悪くない方だと思う。でもモテはしなかった。残念だ。
俺は頭が悪かったので、しょうもない高校にしか入れなかった。そんで嫌になって途中でドロップアウトし、フリーターになった。
でも夢はあった。
いつか漫画家になって一発だけ当てて引退。アニメ化、映画化、メガヒット。夢の印税生活。
だがしかし、俺は一度も漫画を描いたことがない。
これは言い訳だが、病気にかかってしまったからだ。
フリーターになって半年ほど経ったある日、前からあった違和感がはっきりと痛みに変わった。膝が痛い。
親指と人差し指で膝をつまみ、痛みの発生源を探ろうとした瞬間、びりっと電流が走ったような感覚がした。
でも、こんな痛みなど気にするほどでもないと思い、そのままバイト先のコンビニで棚卸をしていたら、すってんころりんとこけた。
最初は床が濡れているのかと思ったが、濡れていない。
立ち上がろうとして、またこけた。
どうやら、うんこ座りができなくなっているらしい。
なんだこれは、と思いながら、両腕で這うようにしてようやく立ち上がった。
こりゃ病院かな、と思った。
最初は近所の整形外科でレントゲンを撮った。
医者は、成長痛の可能性もあるが、大きな病院で診てもらえと言った。
この時この医者は、俺が何の病気か知っていたのだろうか。どうでもいいか。
翌日、でかい病院に行った。
初めての大病院だった。すべてが威圧的だった。とにかく待たされたし、普通に帰りたかった。
本気で帰ってやろうと思ったそのとき、名前が呼ばれ、診察室にそそくさと入った。
医者に「親に連絡しなさい」と言われた。
そのあと、親が来て、MRIやらPET-CTやら、いろいろ撮られた。
一日だけ入院し、組織検査と呼ばれる、膝をズタズタにされる行為を受けたのち、俺の病気は確定した。
最初は恐怖しかなかった。
なんで俺なんだ、と理解できなかった。
母は泣いていた。父は何をしていたんだろう。思い出せない。
俺も泣いていたかもしれない。多分、もらい泣きだ。ただの。
それからは周りの景色が目まぐるしく変わった。
親は仕事を休み、どうやって俺を治療するかという議題で話し合い、最終的には毎回喧嘩になった。
金が圧倒的に足りない。
それだけは、明らかだった。
率直に言うと、うちの両親は馬鹿なので、この問題の打開策など見つけられないだろうというのは火を見るより明らかだった。
だから俺は、自分で役所に問い合わせ、ネットで調べるしかなかった。
特に母は何の役にも立たなかった。俺を見るたびに泣くばかりだったから。
結論から言えば、この国は貧乏人を見捨てなかった。
まだ二十歳未満だったこともあり、かなり格安で治療が受けられる制度があった。
それでも入院費や雑費は避けられない。
最初に行った大病院では、借金持ちの父には到底無理だった。
そこで見つけたのが、家から二百キロ以上離れた、国立の小児難病専門の治療施設だった。
さらに、ひとり親向けの補助金を受けるため、そして入院の確率を上げるため、両親は離婚した。
母は何度も言った。
これは偽りの離婚だ。あなたのためだ。父と母は力を合わせている、と。
正直、どうでもよかった。
そうしてくれ、としか思わなかった。
そしてめでたく、この施設への入院許可が下りた。
建物は五階建て。一階が外来、二階以上が入院病棟。
名前通り小児だけかと思いきや、実際は二階から四階までは老人だらけで、五階だけが小児病棟だった。少子化の煽りだ。
五階のエレベーターを出ると、左が男子棟、右が女子棟。
とはいえ、幼稚園児や低学年はその限りではなく、ベッドが空いた順に振り分けられていた。
エレベーターの向かいにはナースステーションがあり、デスクが並んでいる。
まあ、いわゆる普通の入院病棟だ。特に特徴はない。
だが建物の外は、普通じゃない。
何がって?
何もない。
細い国道と空き地と山と木。それだけだ。
スマホで最寄りのコンビニを調べたら、車で十五分。
三回目の投薬を終え、しばしの自由時間を与えられた夜、俺は外に出てみた。
そこには、おびただしい数の星があった。
包まれる、という表現が一番近い。
すぐそこにあるような、触れられそうな偽物にすら見えた。
「ワオ」
口に出して言ってしまった俺がいた。
俺に声を漏らさせるとは、大したやつらだ。
圧巻だった。
――――――
看護師が再び俺のベッドのそばに来たとき、俺はそろそろ寝ようと目を固く閉じていた。
十六回も投薬されている俺は、一つ学んだことがある。
初日の“ファンタオレンジ色のあれ”が一番きつい。
特に投薬が始まってからが地獄だ。
なら、その時間を寝てやり過ごせばいいんじゃないか――そう思ったわけである。天才。
そのために俺は前日から一睡もしていない。丸二十二時間。
やつを克服するにはこれくらいの犠牲は必要経費だ。策士。
どうやら看護師は、あのファンタオレンジを俺の点滴にセットし終えたらしい。
寝ろ。寝ろ寝ろ寝ろ。はやく寝ろ俺。
――が。
ここで思わぬアクシデントが起きた。
凄まじい尿意。
くそぉ……さっき行っとくべきだった。あのあほ母のせいで俺の計画にズレが生じた。どうしてくれんだわが母よ。
考えてもしょうがない。
俺は起き上がり、点滴スタンドを押してトイレへ向かった。
トイレは部屋の外、エレベーターの隣にある。地味に遠い。
小便器の前に立ち、ガウン型の入院着から陰茎を取り出し、ひねり出す。
――あ。
これは。
やつはもう、ここまで浸食してきたのか。
小便の色がファンタオレンジだった。
この色の小便は独特の匂いを放ち、衣類につくとシミが取れない。オレンジの蛍光ペンで書いたような跡が、永遠に残る。
とんだ毒薬だ。地獄のポーション。
まあ、もう慣れた。
特に驚きもしない。
手を洗い、さっさと戻ろうとした、そのときだった。
俺は、とんでもないものを見てしまった。
出会ってしまった。
ナースステーションの前に、女の子が立っていた。
最初は横顔だけが見えた。
看護師から入院の説明を受けているらしい。ここからでは会話の内容までは聞こえないが、入院着を持っている。やはり入院するのか。
俺は棒立ちで凝視していた。
看護師がちらりと俺を一瞥し、すぐ女の子に視線を戻す。
その瞬間。
女の子が、こちらを見た。
目が、合った。
――天使だった。
ちょっと待ってくれ。
ここはマルコメになったジャガイモ達の巣窟、地獄の入り口だぞ。あなたがいていい場所じゃない。
そう思ったのに。
顎の下から胸にかけて、熱い、しかし心地いい何かがすっと落ちていく感覚があった。
嚥下したみたいに。
ちょっと待ってくれ……。
そのとき、エレベーターが開いた。
母が出てきた。
最悪のタイミング。さすがわが母。
俺は母と一緒に病室へ戻るしかなかった。
今日泊まるつもりだな、と思ったら案の定、母は病院から貸し出しの簡易ベッドを俺の横に設置し始めた。
今は、母と同じ空間にいる気分じゃなかった。
しかも、ファンタオレンジの猛攻にもかかわらず、俺の精神はやけにまともだった。吐いたのは一回だけ。
俺は、この病院に入院して初めて、母にやさしく話しかけた。
「かあちゃん……俺、もう子供じゃないんだし、投薬のたびに来なくてもいいよ。心配しなくていい。まだ手術前だし。一人でできるよ。」
本当は、目の前からどいてほしかっただけだ。
だが母は、やたらと感動したらしく、涙を溜めて「ありがとね」と言った。
結局その日、母は病院に泊まった。
――――――
朝、看護師の血圧チェックで目が覚めた。時計は九時を回っていた。
投薬中なので回診があったはずだが、まだ来ていないのか。
「先生来てた?」と母に聞くと、「もうとっくに行っちゃったよ」と言われた。
点滴スタンドを見上げると、ファンタオレンジは終わり、でかい容器に入った無色透明のやつに変わっていた。あとはこれを二日受ければ、十七回目の投薬も終わる。
オレンジほどではないが、この透明も油断できない。怠いし、吐き気もする。
あーーー、と心の中で呻きながら、ベッドに横になったまま足の指を激しく閉じたり開いたりしていた。
「帰るけど、本当に一人で大丈夫そう? あんた、お薬のときはご飯もろくに食べないから。オレンジジュースとパン買っといたから、後で食べて。」
母の言葉を聞きながら、昨日の天使の顔がフラッシュバックする。
「大丈夫だよ。なんかあったら連絡するし。」
「わかった。じゃあ、頑張って。お母さんも頑張るから。」
そう言って母はリュックを背負い、病室を出ていった。
それから、昨日のことを本格的に思い出そうとした。
あの子は何の病気でここに来たのか。
もしかして弟の付き添いだっただけかもしれない。いや、そんな感じではなかった気もする。
考えが暴れ出す。
ふと、目が合った瞬間を思い出し、赤面するほど恥ずかしくなった。
今の俺、マルコメだし。キャップでも被っとけばよかった。……いや、ここで何を気にしてんだ俺。
ここは地獄の入り口だ。
マルコメに恋愛感情などありえない。
自堕落、悲観、虚無のみが許される場所。
一般人と同じ感情を享受できると勘違いしている俺は痴れ者だ。マルコメだ。
――そう思った。
けれど同時に、心が躍っていることも否定できなかった。
投薬中なのに、初めて自分の意思でベッドから降りた。
俺史上ありえないことだ。
今は外が気になる。特に女子棟。
――――――
病室を出ると、長い廊下の先に窓が見える。何度も見た光景だ。
「あそこの景色を見たかったんです」という口実で、このまま女子棟まで行ってやろうかと思ったが、そこまでの勇気はなかった。
しょうがない。
メガネのところにでも行くか。
四つ先の二人部屋に入った。
メガネは俺とは違う血液系だ。外科手術はない。ただ詳しくは知らないが、投薬は俺よりマシで、骨髄検査ってやつが地獄らしい。
こんな状況でも学校の勉強をしている、ド級の変態野郎だ。
数少ない同年代で、俺が一階のラウンジで少年漫画を読んでいたときに話しかけてきたのがきっかけで仲良くなった。実は超いいやつ。
「お前が来るなんて珍しいな。調子はどう?」
ゲームのNPCみたいなことを平然と言ってくる。
「知らねーよ。ていうかお前またスタバ飲んでたんか。ブルジョワめ。」
「あー、これ飲む?」
「飲まねーよ。病気が移る。」
二人してゲラゲラ笑った。
「そういえば、なんでお前一人?」
空いたベッドを見ながら訊く。
「ああ、あの子は無菌室に行ったよ。」
「マジか……」
メガネの声は少しだけ沈んでいた。
「でも当分は自由だな。夜中も電気つけられるし。」
「そうだね。ラッキーだね。」
湿っぽさ全開の空気が逆におかしくなった。笑わなかったけど。
「そういえばさ、訊きたいことあるんだけど。」
話題を変えたかったわけじゃない。最初からこれを訊きたかった。
「お前、彼女いたことある?」
メガネは一瞬うつむき、少し考えた。
「うーん。いたよ。……いた、でいいのかな。」
歯切れが悪い。
俺は根掘り葉掘り訊いた。
最初は恥ずかしがっていたくせに、だんだん饒舌になっていく。
メガネは俺よりずっと裕福だ。両親は公務員。医者を目指して勉強していたエリートの卵。
なんでこんな辺境の病院に来たかというと、血液系の担当医が都内の超有名大学病院の元教授で、引退後ここに来たらしい。その元教授は国内屈指の権威だとか。
俺も何度か見たことがある。宮崎駿みたいな爺さんだ。
つまり地獄の入り口にいる天才マッドサイエンティスト宮崎駿に診てもらうために、メガネはここを選んだわけだ。
で、恋人は高校の同級生。お互い切磋琢磨するライバル。
デートは専ら図書館。
だが病気になってから、メガネは一方的に連絡を絶った。
SNSのIDも削除。スマホも買い替え。電話番号も教えていない。
ここに入院していることも彼女は知らない。
病気のことは噂で聞いているかもしれないが、もう二度と会うことはないだろうと。
俺は本当はもっと別のことを訊きたかったが、訊けなかった。
饒舌クソメガネに一本取られた。無念。
「お前ってさ、超絶リア充だよな。」
「死にかけてるけどな。」
「そだな。死にかけにリア充もクソもねーな。」
俺だけゲラゲラ笑った。
メガネはにたーっと苦笑い。
「俺、もう戻るわ。気持ち悪くなってきた。」
本当に少し吐きそうだった。
「うん。なんか話せて楽しかった。」
メガネは満面の笑みを見せた。
――――――
自分のベッドに戻った俺は、まずバッテリーが切れているであろうスマホを手に取り、充電ケーブルを差した。
画面が点いたのを確認して、すぐさま検索。
「難病患者同士の結婚」
出ました。AIがわかった風なことを箇条書きで抜かしてやがる。
気持ち悪いなと思ったが、気持ち悪いのは俺だった。
昨日初めて見た人間に勝手に恋慕し、結婚まで妄想する奴ってどう思いますか、皆さん。
目が合ったのは数秒。名前も知らない。
それで脳を焼かれてる俺のほうがよっぽど気持ち悪くないですか。
検索したところで何が変わるんだ。
誰も答えなんて教えてくれない。
そもそも答えなんてない。
まず俺は社会のド底辺ですよ。
ここで死んだほうが、生還するよりマシまである、客観的に見て。
現実を見ない男に、どんな女が靡くんでしょうか。
ありえなくないですか。
ちょっと聞いてますか。俺。
……すみません。俺。
いや、俺さん。
わかってますよ。そんなことは。
でも、でもですよ。
こう考えてみよう。
俺が病気じゃなかったとする。
コンビニでバイト中に、天使ちゃんが客として来たら。
俺は彼女を口説けるでしょうか?
多分無理です。
あれは紛れもない天使です。
中卒フリーターは同じ空間で息を吸うことすら憚られる存在です。
……でも。
逆に考えてみてください、俺さん。
天使ちゃんがここに来てくれたからこそ、
ゼロだった確率が、0.0000000000000001%くらいにはなったんじゃないですか?
同じ境遇。
痛みを分かち合える関係。
最初は傷の舐め合いでも、徐々に気持ちが深まることも……なくはなくないですか?
ねえ。
……あーあー。
最低だ俺。
ついに言っちゃいけないこと言ったな。
これで完全に生還ルートは閉ざされた。地獄行き。
彼女が病気になってチャンスだと思うのか。
うれしいのか。
極悪人。鬼畜。人でなし。悪魔。
おい、聞いてるか。
違うんですよ、俺さん。
そうじゃないんです。
誤解なんです。
ちゃんとエンディングは用意してあるんです。
彼女と仲良くなって、少しずつ距離が縮まる。
でも、完全に近づく前に、全身転移して俺は死ぬ。
彼女は生き残る。
恋人同士になったわけじゃないから、泣いてくれるかはわからない。
でも、一生、彼女の記憶のどこかに俺はいる。
それだけでいいんです。
……本当に。
俺。
俺さん。
全俺が泣いた。
妄想が暴走しすぎて、急に馬鹿らしくなった。
「ははは」
声に出して笑ってやった。
とにかく。
いつか彼女の様子を見に行こう。
それだけは、固く決意した。
――――――
それから三日後。
追加点滴投与も終わったところで、看護師に針を抜いてくれないかと頼んだ。
「またすぐ刺すことになるけど、いいの? 血管探すの大変よ。細くなっちゃってるし。」
まあ間違ってはいない。刺しっぱなしのほうが楽なのは事実だ。
だが、今は何も刺さっていない腕でいたい。
「お願いします。」
針が抜かれた瞬間、途轍もない開放感があった。
本当に自由になった気分だ。あとのことは知らん。
――もちろん、彼女の様子を見に行くためである。
十八歳。やはり少しでもまともな格好でいたい年頃。
俺は、普段ほとんど開けないベッド横の細長い箪笥を開け、私服を取り出した。
全部着替えるのも不自然かと思い、入院着のまま黒のジャケットを羽織り、黒のキャップを被った。
まずは、彼女の病室を突き止めねばならない。
女子棟へ向かう。
途中二人の看護師とすれ違ったが、入院患者が院内をうろついても特に問題はない。素通り。
三人目の看護師だけ声をかけてきた。
「どしたの、出かけるの?」
「いや、寒いから着てるだけです。」
「なんかかっこいいね。オシャレ。」
無視した。
人間、目的があるというのは幸せなことだ。
俺は天使ちゃんを探すために、普段絶対しない行動をしている。
それだけでいい。
武者震いした。鳥肌も立った。
頭が異様にクリアだ。いつぶりだろう。
彼女は女子棟の奥から三つ目の二人部屋にいた。
ちょうど看護師が入っていったところだった。
基本、看護師はドアを開けっぱなしにする。
中が見えた。
右側のベッドに、天使とおばあちゃんらしき人。
左側のベッドには小学校低学年か幼稚園児くらいの女の子が点滴を受けている。
天使は点滴をしていなかった。
ベッドに腰掛け、看護師と話している。
入院して四日以上経っているはずなのに、生理食塩水すら受けていないのは珍しい。
俺はドアの前で固まった。
話が終わったのか、看護師が振り返り、俺を見て仰天した。
「ちょっ、びっくりした。何? 急に出てこないでよ。」
笑っている。
俺はとっさに嘘をついた。
「あそこにいる子、何日か前に見かけて……昔の同級生に似てたので、確認しに来ただけです。でも、違うみたいで。」
「あー、あの子は絶対違うわよ。」
絶対?
何を根拠に。
「あ、そうだ。紹介してあげる。」
マジですか。
看護師は天使のほうを向いた。
「この子なんだけど……あなたからしたら先輩ね。病気のことはあなたより詳しいかも。でも年は同じなんだから仲良くしてあげなさい。」
情報量。
先輩? 同い年?
看護師は去っていった。
代わりに、祖母と思われる女性がやたら大げさに俺を迎えた。
話し相手が欲しかったのだろう。
そこから三十分ほど、俺はなるべく天使を直視しないようにしながら、祖母と話した。
祖母で当たりだった。
そして、天使の人生は想像を遥かに超えて過酷だった。
小学校六年で肩に腫瘍が見つかり、その時点で肺に転移。
その後五年間、治療と手術に専念。中学進学は断念。
投薬の効果は徐々に薄れ、免疫がついたのか効かなくなった。
放射線治療へ移行。
そして最後の望みをかけた手術のため、ここへ来たという。
胸が、苦くなる。
やりきれない。
俺は、そっと天使を見た。
天使も、俺を見た。
真っ白い肌。
卵型の輪郭。
やや垂れた三白眼、すっきりした奥二重。
小さく高い鼻。
桜色の唇。
褐色のレイヤーショートボブ。
細い首。
完璧だった。
「よろしく。俺、リク。君は?」
「アキ。」
「アキか。お互い、生きてここから出られるといいな。」
アキは、ほんの少しだけ笑った。
「お隣に申し訳ないので、そろそろお暇します。また遊びに来ます。」
祖母に会釈し、部屋を出た。
――――――
夢を見ていた。
夢の中にいるとわかっていながら、その中を彷徨っていた。
坂を上っていると、上から大量の車いすが転がり落ちてきた。
すべて俺に向かって。
両足はファンタオレンジ色の粘着質な何かに絡め取られ、動かない。
凄まじい速度で迫る車いす。
次の瞬間、両足がもがれ、胴体が宙に舞った。
そのまま、どんどん太陽に向かって浮かんでいく。
――これが夢じゃなければいいのに。
夢の中で、そう思った。
その直後、目が覚めた。
枕のシーツがぐっしょり濡れている。
つるっぱげの後頭部から、冷や汗が滝みたいに出ていた。
軽いめまい。
目を擦る。
点滴スタンドには生理食塩水。
チューブはスタンド中央のトレイにぐるぐる巻き。
やばい。
ここにいたら、すぐに看護師が来る。
針を刺される。自由を奪われる。
俺は急いで病室を出た。
看護師に見つからないように、そっとエレベーターに乗り、一階へ。
昨日、天使の部屋であった出来事を頭の中で再構成したい気持ちと、何も考えたくない気持ちが半々だった。
とにかく、一人になりたい。
売店でホットいちごミルクを買い、建物裏のベンチへ向かった。
天使のことを考えると胸が締めつけられそうになる。
だから、自分のこれからを考えることにした。
投薬はあと何回。
手術はいつ。
生還したら何をする。
高校に入り直すのも悪くないかもしれない。
夜間かな、とか。
必死に、そっちへ思考を向ける。
……そのとき。
耳のすぐ横で声がした。
「ねえ。隣いい?」
「うわっ」
本当に飛び上がった。
声のほうを、恐る恐る見る。
天使ちゃんが、そこにいた。
――――――
天使ちゃんは俺の隣に腰かけ、確かにこう言った。
「あの、いきなりで本当にごめんなさい。よかったらでいいんだけど……恋人になってくれませんか。」
ほほが赤い。
ん?
今なんて?
「え? えーーーーーー?」
今なんて言った?
天使が?
俺と?
ごめんだなんてそんな……でも……どういうこと?
頭から湯気が出そうだった。
その瞬間、あの感覚が蘇った。
初めて天使を見たときの、あの感覚。
「やっぱり、あなたしかいないわ。まだ真っ白だもん。私はあなたのことが好き。」
「え? 真っ白? 俺も好き?? だけど……」
嬉しさを通り越して、理解が追いつかない。
目ん玉が飛び出そうだ。
「ごめんなさい。ちゃんと説明する。いきなり変だよね。」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「私、実は……人の心が読めるの。」
……は?
それから天使は、俺を落ち着かせるように、ゆっくり話し始めた。
「あなたも同じ病気だからわかると思うんだけど、あの黄色いお薬あるでしょ?」
「あー、ファンタオレンジ?」
「そうそう。それそれ。ファンタオレンジだよね。確かに。」
ちょっと笑った。俺もつられて笑った。嬉しい。
「私はあれに、すごく敏感に反応してたの。」
「敏感?」
「幽体離脱みたいになったり。吐いたり熱出たりもしたけど……それより、心の中を踏みにじられる感じが酷かったの。」
……わからなくもない。
「それでね。私は肺に転移してたから、あなた知らないかもしれないけど、赤い薬があるの。」
「赤?」
「血を薄めたみたいな、おどろおどろしい点滴。それを入れたとき、ファンタオレンジの百倍くらいの衝撃が来たの。体の内側から全部踏みにじられる感じ。」
俺は黙って聞いていた。
「そのあと、一週間くらい気絶してたらしいの。」
一週間。
「その間に見た夢を、今でも覚えてる。虹色に光る蛇みたいな生き物が、私の体に入っていったの。それから、色のついたフィルムみたいなものが、頭の中に流れ込んできた。」
天使は俺の顔を上目遣いで見た。
かわええ、と思った。
「いいよ。続けて。」
「信じられないと思う。でも、それから人の心が見えるようになったの。」
空気が、少し変わった。
「正確にはね、色で見えるの。その色を覗き込むと、声になるの。」
天使は一瞬うつむいた。肩がわずかに震えている。
「でも……その色のほとんどは黒いの。真っ黒だったり、灰色だったり。覗き込むと……思い出したくもない言葉でいっぱいだった。」
天使の目に、涙が溜まっていた。
「白はね、だいたい家族。お父さん、お母さん、おばあちゃん。でも……」
そこで、俺を見た。
「あなたの白は、今までで一番はっきりしてた。」
心臓が止まりそうだった。
「初めて会ったときから、少しずつ覗いてた。あなたが、私のことを“天使”って呼んでるのも知ってる。」
「い……あ……」
言語能力が死んだ。
IQも下がったかもしれない。
顔が沸騰している。
「ごめんなさい。でも、これで信じてもらえる?」
上目遣い。
涙目。
バチクソかわいい。
それだけは、確かだった。




