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4.
僕の人生は、親に敷かれたレールの上を、ただ歩いてきただけなのかもしれない。
でも、それを疑ったことはない。
疑う必要もなかった。
それが正解だと、理解していたからだ。
僕は物分かりがいい。
小学校のころから、だいたいのことはそつなくこなせた。
学級委員にもなった。
成績も悪くない。
けれど、一番にはなれなかった。
それでよかった。
目指していたのは、その先だったから。
両親は教育熱心だった。
特に母は、熱に浮かされたみたいだった。
仕事でどれだけ忙しくても、僕を最優先にした。
僕は、それに応えた。
それが役目だった。
市内一の高校に合格した日、母は泣いた。
父は、誇らしげだった。
僕は両親の“成果物”だった。
高校でも、変わらない。
何でもできる。
でも、一番ではない。
そして、好きな人もできた。
恋人と呼べるかどうかはわからない。
でも、たしかに好きだった。
それでも、僕は一線を越えなかった。
越えないと決めていた。
僕は両親の希望なのだから。
――――――
それが崩れたのは、唐突だった。
病気。
僕の体は、僕の知らないところで静かに壊れていた。
告知を受けた瞬間。
僕は矛盾した。
怖かった。
同時に――
ほんの一瞬、安堵した。
ああ、これで。
期待に応えられなくても、仕方がない。
そう思ってしまった。
最低だ。
僕は弱い。
心のどこかで、病気を“口実”にした。
その事実が、いちばん僕を傷つけた。
――――――
それから、必死に自分に嘘をつかないようにした。
でも、それは難しい。
両親が泣いている。
僕を見て。
そんな前で、本音なんて出せるわけがない。
僕はやっぱり、物分かりがいい。
――――――
そんなとき、彼に出会った。
クルス・リク。
僕とは正反対だった。
考えるより先に動く。
空気を読まない。
でも、なぜか、堂々としている。
夜通し宇宙の話をしたこともあった。
あの時間は、楽しかった。
僕は彼に惹かれていた。
けれど。
同時に、蔑んでいた。
自由であることの代償を、彼は知らない。
そう思っていた。
いや。
正確には――
知っていても、気にしない人間だったのだ。
それが、僕には理解できなかった。
――――――
彼は、入院してきた女の子と恋愛を始めたらしい。
噂はすぐ広まる。
僕は、彼を羨ましいと思った。
明日死ぬかもしれないのに。
どうして、あんなふうに笑えるのか。
どうして、手を伸ばせるのか。
僕は。
何も変わっていない。
まだ、世間体を気にしている。
まだ、両親の目を気にしている。
まだ、“正しい僕”を演じている。
みじめだ。
本当に。
でも。
これが僕だ。
僕は、あきらめられる人間だ。
彼とは違う。
踏み出さないと決められる人間だ。
それが、僕だ。
――――――――――――――
俺は、ファンタオレンジの点滴を受けながら、スタンドを握りしめ、廊下に立っていた。
18回目の投薬、2日目の昼。
おかしいくらい、何もない。
吐き気もない。
頭のふらつきもない。
むしろ、このファンタオレンジをコップに注いで一気飲みしてやろうか、と思うほどだった。
腕に刺さった針だけが鬱陶しい。
さっきCTを終えたアキが、目の前の診察室にいる。
担当医との話が長い。
普段なら秒で終わる。
入院患者の説明なんて、形式みたいなものだ。
なのに、出てこない。
何かあったのか。
考えても仕方ない。
でも、考えてしまう。
ただドアの前で、突っ立っていた。
――――――
どれくらい経っただろう。
アキが出てきた。
口元が、変だった。
恥ずかしさと、うれしさが、混ざっている。
小声で言った。
「リク、ちょっと外出れる? 話があるの。」
わかっていたのかもしれない。
何を言われるのか。
――――――
建物の外、一番近いベンチ。
アキが言った。
「ねえ、リク。私、治ったかもしれないって。先生が。」
俺は、アキの目を見ていた。
うれしいはずだった。
なのに。
心臓に、どす黒い液体が流れ込んだ。
小学校の美術で使った、あのポリ水筒。
最初は透明だった水が、筆を洗うたびに色を吸って、最後は濁って、底の見えない黒になる。
あの色。
あれが、心にすっと落ちてきた。
気づいたら、涙が出ていた。
――――――
アキが頬に触れる。
「泣かないでよ。」
少し涙ぐんでいる。
俺は言った。
「嬉しくて。つい。」
嘘だ。
いや、嬉しいのは本当だ。
でも先に出たのは、怖さだった。
アキが、どこか遠くへ行く。
俺の知らない世界へ。
置いていかれる。
その感情が先だった。
最低だ。
本当に。
――――――
「退院は?」
「まだ確定じゃないの。組織検査もう一回。でも、ほぼ奇跡だって。」
俺はアキの頬を包んだ。
「本当に良かった。」
それは、嘘じゃなかった。
――――――
二日後。
完全寛解。
アキの病気は、消えた。
数時間後、サイトウさんと男が二人。
退院の準備。
俺は、廊下の遠くからそれを見ていた。
あの部屋に、俺の居場所はもうない。
そう思った。
ただ、思っただけなのに。
胸が、潰れそうだった。
――――――
それからは、SNSだけ。
電話はしなかった。
忙しいだろうし。
俺が重荷になりたくなかった。
返信は、だんだん遅くなった。
既読がつくまでの時間が、伸びていった。
俺は凹んでいた。
でも同時に、喜んでいた。
アキが普通に戻ろうとしている。
それは、祝福すべきことだ。
なのに、俺は。
複雑だった。
何もかも。
――――――
翌朝、回診。
俺は医者に聞いた。
「俺の病気って、運よく消えることってあるんですか。」
医者は笑った。
「カツラギさんの件だね。」
肺は、稀にある。
でも骨は違う。
自然消滅はない。
世界で一度もない。
俺は何も言えなかった。
ただ、
俺はもう病気じゃない気がする。
それが言えなかった。
「組織検査、今できませんか。」
「三ヶ月後だ。我慢しろ。あと、鬘派手すぎだぞ。」
医者は去った。
――――――
俺は、元の俺に戻った。
無気力。
アキとのSNSだけが、酸素だった。
正直に言う。
彼女ができたのは初めてだ。
俺が、こんなに依存するとは思わなかった。
俺はもっとクールだと思っていた。
違った。
俺は、ただのガキだった。
知らなかった。
自分が、こんなに誰かに縋る人間だなんて。
情けない。
――――――
退院して11日目。
窓の外は紅葉。
秋は、ちゃんと来ている。
スマホを見る。
通知なし。
シーツにくるまり、蹲る。
アキの声を思い出す。
アキの笑い方。
アキの匂い。
静かに、黒い水がまた胸に溜まっていく。
――――――――――――――
「リク。」
背後から声がした。
はっとして、シーツを払いのける。
アキが立っていた。
あのベージュのトレンチコートを着て。
現実味がなかった。
夢かもしれないと思った。
嬉しさが喉まで込み上げて、危うく泣きそうになる。
「どうしたの、アキ。検診はまだ先だろ?」
「来ちゃった。」
それだけ言って、少し笑う。
「ここ人目多いから、外出ようか。」
――――――
病院裏のベンチ。
秋の空気がやけに澄んでいた。
アキが先に口を開く。
「どうして連絡少ないの? ほぼ私からじゃん。電話もしてこないし。」
言葉に詰まる。
「邪魔したら悪いかなって。退院して、色々あるだろうし……勝手にそう思ってた。」
アキは笑った。
俺の頬に触れる。
「私に会いたかった?」
その一言で、堰が切れた。
会いたかったこと。
依存してる自分が情けなかったこと。
一日中通話したかったこと。
でも重くなりたくなくて我慢してたこと。
全部、子供みたいにぶちまけた。
情けない。
でも止まらなかった。
アキは、うれしそうに笑った。
「キスしよっか。」
「こんなとこじゃな。」
俺はにやっと笑って、アキを抱きかかえた。
「最高の場所に移動する。」
久しぶりに、力を使った。
――――――
空を蹴る。
数回、大きく跳ぶ。
身体が軽い。
力が、まだそこにあることを確認するみたいに。
ダムに着地。
コンクリートの最上部に並んで座る。
「すごい景色。」
アキが満足そうに言う。
俺は、キスをした。
深く。
身体が痺れるほどの幸福。
このまま時間が止まればいいと思った。
――――――
アキは退院後の話をした。
家族旅行。
温泉。
弟。
ペット。
普通の生活。
俺は、ただ聞いていた。
少しだけ遠い世界の話みたいだった。
「でもね、心の片隅で違うって思ったの。私のしたいことはこれじゃないって。」
「アキ……」
「リクが、頭から離れなかった。」
手を握る。
「それで看護師目指すことにしたの。まずは高認から。」
「勉強なら他でもできるだろ?」
「まあ、半分嘘だけどね。あの病院じゃないと集中できないって言った。」
やっぱり強いな、と思った。
「条件付き。サイトウさんが見張る。」
げ、と思ったが飲み込む。
「病室は?」
「それは無理。でもね、5階のナースステーション横の空き部屋、勉強部屋にしてもらった。」
カツラギグループ。
力の匂いがする。
でもアキは照れくさそうに言った。
「これで、前より会いやすい。」
その顔を見て、少しだけ胸が締まる。
俺は言う。
「俺も勉強する。一緒に高認受けよう。」
一瞬だけ、迷った。
でも言った。
アキは、こぼれそうな笑顔で、指を絡めてきた。
恋人つなぎ。
「一緒に、頑張ろ。」
その瞬間。
胸の奥で、何かがざわついた。
守れ。
あの夢の声が、ほんの一瞬、よぎった。
でも俺は気づかないふりをした。
今は、ただ幸福だったから。
――――――――――――――
アキの勉強部屋は、元ナースの会議室らしい。
長テーブルが一つ。椅子が六脚。
奥はカーテンで仕切られ、その向こうにベッド。
参考書と問題集が積まれている。
そしてサイトウさん。
椅子に腰かけ、ノートパソコンを無音で叩いている。
アキは、淡々と勉強していた。
姿勢がいい。
真面目だ。
俺は。
眠い。
教科書を開いた瞬間、意識が遠のく。
数字が溶ける。
文字が踊る。
これじゃダメだ。
外に出た。
空気を吸う。
メガネに会いたくなった。
あいつなら、この重たい空気を中和してくれる気がした。
思い立ったら即行動。
――――――
メガネは相変わらず病人だった。
粘り気のある牛乳みたいな点滴をぶら下げながら、本を読んでいる。
「よ、久しぶり。」
「どうしたの。」
相変わらずの愛想笑い。
「あのさ、勉強教えてくれねーか。高認受けようと思って。」
少し目を丸くして、それから頷いた。
「教えられなくもない。」
「じゃあ来てくれよ。紹介したい人もいる。」
乗り気ではなさそうだったが、断らなかった。
――――――
病室を出た瞬間、違和感。
ナースステーションの灯りが消えている。
静かすぎる。
デスクに一人、看護師がうつ伏せになっていた。
寝てる?
いや。
こんな静寂、初めてだ。
近づいた、そのとき。
「こいつが七番目か。」
背後から声がした。
振り向く。
暗闇に男が立っていた。
三十代くらい。
目を閉じている。
そして、右手をこちらへ伸ばしている。
天井から音。
スタッ。
長身痩躯の女が降り立った。
「女って言ってなかったっけ。こいつ違うんじゃない?」
「でも、力がある。」
「ほんと? あんたたまに外すからね。」
俺のうなじを汗が伝う。
もしかして、
こいつらも。
次の瞬間。
女が消えた。
いや、速すぎて見えないだけだ。
ズドン。
脇腹に衝撃。
肺が潰れる。
だが、折れない。
踏みとどまる。
「嘘。」
女が後退する。
「結構本気だったんだけど。物理系?聞いてない。」
「お前ら、何者だ。」
女は笑う。
無邪気に。
「天然の発現者なんて初めて見た。リストにもないよ?」
リスト。
七番目。
嫌な予感しかしない。
「想定外だ。一旦戻るしかない。」
目を閉じていた男が、目を見開いた。
充血した眼球。
その瞬間。
脳に砂が流れ込むような感覚。
ザラザラ。
痛い。
「ああああ……!」
頭を抱える。
視界が揺れる。
意識が削られる。
立て直そうとした瞬間。
女が跳ぶ。
顎に、鋭いアッパー。
骨が軋む音が、内側から響いた。
――――――
気がついたとき、天井がやけに近かった。
白い。
見慣れた、病院の天井。
身体を動かそうとすると、うまく力が入らない。
頭の奥が、まだ鈍くじんじんと疼いている。
「……リク」
声。
視線を向けると、アキがいた。
俺の左手を、両手で包み込むように握っている。
「気が付いた? 大丈夫?」
「ああ……多分」
喉がひどく乾いていた。
「ここは……?」
「私の部屋。カザイさんが運んでくれたの」
――カザイ。メガネだ。
その名を聞いた瞬間、映像が一気に蘇る。
暗いナースステーション。
倒れていた看護師。
目を閉じた男。
速すぎる女。
「……っ」
反射的に上体を起こす。
「メガネは?
あいつらは……どうなった?」
アキは一瞬だけ視線を落とし、それから静かに言った。
「カザイさんは無事。
今はサイトウさんと一緒にいる」
胸の奥に詰まっていた息が、ようやく抜ける。
「……で、あいつらは?」
「私が来たときには、もういなかった。
ナースステーションの窓が……割れてたって」
割れていた。
それで十分だった。
俺はベッドの縁を掴み、拳を握り締める。
――逃げた。
何も奪わずに。
何も説明せずに。
だが確実に、誰かを探していた。
“七番目”。
あれは――俺じゃない。
俺は、嫌な確信を抱いた。
狙いは、アキだ。
――――――
俺とアキ。
サイトウさん。
そしてメガネ。
長机を挟んで向かい合う。
誰も口を開かない。
静まり返った部屋の中に、
さっきまでの衝撃だけが残っている。
やがて、サイトウさんが口を開いた。
「クルス様。状況の説明を」
声は淡々としている。
だが低い。
俺はアキを見る。
アキは小さく頷く。
俺は話した。
アキの力。
俺の力。
アキの力が消えたこと。
メガネは黙って聞いていた。
その横顔はいつも通り冷静で、
だがどこか、観察する側の目をしていた。
途中、彼が一度だけ言った。
「あの二人……
カツラギさんを探してた。“七番目”って」
空気が凍る。
サイトウさんの視線が、ほんのわずかに鋭くなる。
「七番目、とは?」
「わからない。ただ――」
メガネは一瞬だけ俺を見た。
「狙いは、カツラギさんだと思う」
アキの肩が震える。
俺は無意識に彼女を引き寄せた。
そのとき。
「監視カメラですが」
サイトウさんが静かに言った。
「何も映っておりません」
「……は?」
「看護師が談笑している映像。
その後、窓が割れる映像のみ」
「俺は殴られたんだぞ。
音も、衝撃も――」
「細工でしょう」
即答。
「あるいは、映像そのものが書き換えられたか」
沈黙。
メガネが、ぽつりと呟く。
「世界の外側の人間、かもしれないね」
その言い方が、妙に引っかかった。
外側?
何を基準に?
サイトウさんが続ける。
「警察に通報することは可能です。
しかし」
一瞬の間。
「私は、お嬢様の安全を最優先いたします」
迷いがない。
俺は頷く。
「俺が守る」
口に出した瞬間、確信した。
「あいつらは、また来る」
アキは何も言わない。
ただ、俺の袖を強く握りしめていた。
その力は、震えていなかった。




