第4話
一週間後、国立書庫へ向かった。
王都の中心部に近い、石造りの建物だ。壁に蔦が絡んでいて、入口の石段が中央だけ少し沈んでいる。何百年もの人の足が踏み固めた跡だ。
受付で司書のベルナさんの名前を出すと、すぐに奥から出てきた。三十代、眼鏡、落ち着いた物腰。俺が便利屋の仕事をする前から顔なじみだ。
「カイトくん、久しぶり。お連れさんは?」
「調査の依頼人です。建国期の文書を見たいそうで」
ベルナさんがアルマを見た。アルマは無言で頭を下げた。
「建国期の文書……どのあたりのものを?」
「魔族との停戦条約以前のもの。特に、両種族間の交渉記録があれば」
ベルナさんの表情がわずかに変わった。
「……それは、かなり古い資料です。一般閲覧不可のものも含まれます」
「できる範囲で構いません」
「わかりました。閲覧室にご案内します。私が立ち会う形で、一部の制限資料まで見ていただけます」
◇ ◇ ◇
閲覧室は静かだった。
石の壁に囲まれた部屋に、古い木の机が並んでいる。窓から昼の光が差し込んで、空気の中に埃が見えた。長い時間、ここに積もってきた埃だ。
ベルナさんが数冊の文書を運んできた。羊皮紙に書かれたもの、木板に刻まれたもの、布に墨で記されたもの。様々な形式が残っている。
アルマが手袋をはめて、慎重にページをめくりはじめた。
ベルナさんは「何かあれば呼んでください」と言って、別の利用者の対応に、いったん部屋を出ていった。
俺はその隣に座った。
しばらくして、アルマの手が止まった。
「……カイト」
声のトーンが変わった。低く、静かで、いつもと違う真剣さがあった。
俺は文書を覗き込んだ。
建国から五十年後の記録だ。魔族との第一次交渉についての詳細が書かれている。
——俺の目に、赤みが見えた。
文書が、光っていた。
弱い光だった。全体がうっすら赤みを帯びている。特定の箇所だけではなく、記録そのものが薄く染まっていた。
(文書でも、光るのか)
「……この文書は、改ざんされています」
「どこが」
「全体的に、です。特定の部分というより、記録そのものが書き直されている感じです」
アルマが俺の目を見た。数秒、何かを考えるような間があった。
「……やはり、そうか」
「知っていたんですか」
「疑っていた。魔族側の記録と、人間側の記録が食い違う箇所がいくつかある。どちらかが、あるいは両方が書き換えられていると考えていた」
「なぜ書き換える必要があったんでしょう」
「……それを調べに来た」
アルマは別の文書を取り上げた。次のページを開いた。
さらに別の資料。また別の資料。
アルマの手が動くたびに、俺は光の強さを確認した。どの文書も薄く光っている。完全な捏造ではない。事実をベースに、何かを削り、何かを付け加えた記録だ。
そしてあるページで、アルマの動きが止まった。
本文とは別の筆跡で書かれた一行が、ページの端にあった。本文より古い墨の色で、細く、急いで書かれたような文字だ。
「——この記録は、後世の者の手によって修正されたものである。原本は————に保管してある」
場所を示す部分が、刃物で削り取られていた。
二人で、顔を寄せて、それを見た。
「……誰かが、気づいていた」とアルマが言った。
「修正されたことに気づいて、原本の場所を書き残した。でもその場所も消された」
「……原本は、まだどこかにある」
俺はその一行を見た。
細い文字だった。急いで書かれたのか、筆圧が均等ではない。それでも、一文字ずつ丁寧に書かれていた。
何百年も前に、同じことを不思議に思った人間がいた。書き換えられた記録に気づいて、せめてもの痕跡を残した。その痕跡もまた、誰かに消された。でも、完全には消せなかった。
「この文字、光らないんですよね」
「……何?」
「この書き込みだけ、光っていないんです。本文は薄く光っているのに、この書き込みだけ光がない」
アルマが俺を見た。
「……つまり、これだけが本当のことだ」
「そう思います」
アルマはしばらくその一行を見ていた。
「……あなたのスキルは、予想以上に使い道がある」
「今日初めて知りました、文書にも使えるとは」
「……そうか」
アルマは静かに文書を閉じた。
◇ ◇ ◇
書庫を出たのは夕方だった。
石畳の上を並んで歩きながら、アルマが口を開いた。
「……私の調査の目的を、正確に話す」
「聞きます」
「人間と魔族の間に、意図的に仕込まれた嘘がある。誰かが——おそらく単独ではなく、組織として——両者の記録を書き換え、反目させ続けている。その証拠を、私は探している」
「なぜ」
「……魔族の中にも、人間に敵対的な派閥がある。その者たちは『人間は信用できない、歴史がそれを証明している』と主張する。だが、私はその歴史が偽物だと思っている。偽物なら、証明できる」
「それを証明して、どうしたいんですか」
アルマは少し間を置いた。
「……戦争を、なくしたい」
光らなかった。
俺は何も言わなかった。
二百年生きてきた存在が、人間の街に一人で来た理由がわかった気がした。
「……おかしいと思うか」
「どうして」
「……魔族の王女が、人間の平和を望むのは、不自然だと」
「別に不自然じゃないですよ」
「……魔族の論理では——」
「あなたが魔族の論理だけで動く人なら、最初からここには来てないと思います」
アルマが足を止めた。
俺も止まった。
アルマが俺を見た。何かを言おうとして、やめた。
「……続けるか。この調査を」
「はい」
「……危険になるかもしれない。誰かが記録を消しているということは、知られたくない者がいる」
「わかっています」
「なぜ続ける」
「面白いから。それと——」
俺は少し考えた。
「——あなたが一人でやるのを、見ていられないので」
アルマが俺を見続けた。
長い沈黙だった。
「……魔族の第三王女に向かって、見ていられないとは」
「失礼でしたか」
「……いや」
アルマは歩き出した。
「……一つだけ、聞いていいか」
「どうぞ」
「……あなたは、魔族が嫌いか」
「嫌いじゃないです」
「……なぜ」
「会ったことがなかったので。あなたに会うまでは」
アルマはしばらく黙って歩いた。
「……そうか」
嘘の色は、なかった。
◇ ◇ ◇
白鳥亭に戻ってから、俺は自室で書庫でのことを整理した。
改ざんされた文書。消された場所。何百年も前に残された書き込み。
誰が、なぜ、記録を書き換えたのか。
それより広い問いが浮かんだ。俺は三年間この世界にいるが、人間と魔族の間に何があったのか、深く考えたことがなかった。市場で買い物して、依頼をこなして、それだけだった。
アルマが探しているのは、俺が気にもとめていなかった何かだ。
廊下でノックの音がした。
「……今日の礼を言いに来た」
扉を開けると、アルマが立っていた。
「書庫のことですか。仕事ですから」
「……あなたのスキルがなければ、文書の改ざんに気づくのはもっと後になっていた。役に立った」
「ありがとうございます」
「……礼を言われることじゃない。こちらが礼を言っている」
「わかりました。どういたしまして」
アルマが少し間を置いた。
「……今夜も」
「どうぞ」
「……まだ言っていない」
「言いそうでしたので」
アルマが俺を見た。
「……勝手に決めるな」
赤く光った。
「すみません。どうぞ」
アルマが入ってきた。ベッドに座って、少し考えるような顔をした。
「……あなたは、嘘が見えるのに、指摘しないのか」
「大抵は」
「……なぜだ」
「人が素直に言えないことには、理由があるので」
「……嘘は弱さだ」
「魔族ではそうなんですか」
「……そうだ。だから指摘する。正直に言い直す。それが礼儀だ」
「人間は違いますよ。嘘は弱さじゃなくて、時間が必要なことへの、仮の答えだと思っています」
アルマがしばらく考えた。
「……時間が必要なこと」
「はい」
「……難しい考え方だ」
「慣れなくていいですよ、別に」
アルマがこちらを見た。
「……おやすみ」
光らなかった。
「おやすみなさい」




