第2話
俺のポケットには、朝から魔法石が一つ入っている。
昨夜、枕元に置かれていたやつだ。市場で俺が値切って買った安物より、明らかに上等な代物。礼の言葉も、書置きもなかった。
その持ち主は今、食堂で素知らぬ顔をしている。
朝食の間、アルマは分厚い歴史書を読んでいた。
俺が向かいに座ると、ページをめくる手が一瞬止まった。それだけだった。
「おはようございます」
「……ああ」
返事はした。本から顔を上げなかったが、した。昨夜の借りに比べれば、十分な反応だと思うことにした。
カルロさんがスープとパンを運んできた。アルマの前にも同じものが置かれた。昨日と同じ手順で、均等な一口ずつ食べている。
「今日も出かけますか」と俺が聞くと、アルマは少し間を置いた。
「……予定はない。書物を読む」
「わかりました。俺は午前中に一件あるので、昼過ぎには戻ります」
アルマはページをめくった。
「……別に、あなたがいつ戻ろうと関係ない」
赤く光った。
俺は何も言わずにスープを飲んだ。
◇ ◇ ◇
午前中の依頼は、商館の在庫確認だった。倉庫の数を数えて報告書を作るだけの仕事で、二時間で終わった。
報酬を受け取って白鳥亭に戻ると、食堂のテーブルにアルマがいた。午前と同じ席で、同じ本を読んでいた。ページは進んでいたが、俺が見える位置に座っていた。昨日とは席が違う。
そのことを言わなかった。
「お昼はどうしますか。市場に美味いもの屋台が出てる時間帯です」
アルマが本を閉じた。
「……案内しろ」
頼んでいない、とは言わなかった。
◇ ◇ ◇
市場の通りを歩いていると、広場の角で楽士が演奏していた。
リュートに似た楽器を弾きながら歌っている、四十がらみの男だ。うまくはないが、声に張りがあって、道ゆく人が何人か立ち止まっている。
俺が通り過ぎようとして、隣を見た。
アルマがいなかった。
振り返ると、三歩後ろで立ち止まっていた。楽士の方を見ている。
「……アルマさん」
「なんだ」
「行きますよ」
「……わかっている。足が止まったのは、あの演奏の音程が気になっただけだ。技術的な問題がある」
光った。弱い光だった。「嘘だと断言するほどでもないが、本当でもない」種類の光り方だ。
つまり、音程が気になったのは本当で、それ以外の理由もある。
楽士が曲調を変えた。静かな、夜の空気のような旋律だ。
アルマが微動だにしなかった。
俺は隣で待った。
三十秒ほどして、アルマが歩き出した。
「……魔族の城にも、音楽師がいる。だが、あのような野外で演奏する者はいない」
「外で聴く方が好きですか」
アルマはしばらく黙った。
「……判断するには、まだ一度だけでは足りない」
光らなかった。
◇ ◇ ◇
昼食は屋台の焼きパンを買って、噴水広場のベンチで食べた。
アルマは最初、「屋台の食べ物を外で食べるのか」と言っていた。食べ方の作法を尋ねるような目で俺のことを見ていた。
俺が普通にかじって見せると、少し迷った様子で同じようにした。
「……これは」
「美味しいですか」
「……食べられる」
光った。微弱な光だ。「食べられる」は本当で、その先に何かがある光り方だ。
「もう一個買いますか」
「……必要ない」
俺はもう一個買って、何も言わずに横に置いた。聞くまでもない色だったからだ。アルマは一拍置いて、それを取った。
◇ ◇ ◇
午後、白鳥亭に戻ったとき、カルロさんから手紙が届いていた。
国立書庫の司書をしている知人からだ。建国期の文書なら確かに保管されている、閲覧には申請が必要だが、来週なら時間が取れると書いてあった。
「来た」と言いながらアルマに見せると、アルマが素早く文面を読んだ。
「……来週か」
「急ぎますか」
「……いや、構わない」
本当に急いでいないのか、急げない事情があるのかは、まだわからない。少なくとも、言葉に色はなかった。
「来週、一緒に行きましょう」
「……なぜあなたが来る」
「書庫の手続きは少し面倒です。俺が顔を出した方が早い」
「……わかった」
アルマはそれだけ言って、部屋へ上がっていった。
俺は手紙を畳みながら、アルマが建国期の文書を探している理由を考えた。
旅人、と言った。眩しいくらいに光った嘘だ。
でも、何を探しているかは本当のことを言った。嘘をつく必要のない部分だけ、本当だった。
◇ ◇ ◇
夕食の後、カルロさんが「今日はデザートはないですよ、仕入れが間に合わなくて」と申し訳なさそうに言った。
アルマの表情が微妙に動いた。ほんの少し、眉の角度が変わった。
「……そうか」
光らなかった。残念に思っているのは、嘘じゃないということだ。
俺はその顔を見て、何か言おうとして、やめた。
代わりに「明日、市場に別の甘味屋台が出ますよ」と言った。
アルマが俺を見た。
「……情報として把握しておく」
把握、の二文字が、じんわり赤かった。
◇ ◇ ◇
夜、自室に向かうと、扉が少し開いていた。
中を見ると、アルマが窓際の椅子に座って外を眺めていた。
「鍵が開いていた」
「昼間に閉め忘れました。すみません」
「……侵入するつもりはなかった。通りかかったら開いていたので、確認に入っただけだ」
光った。昨夜と同じ光の強さだ。
「今夜もベッドどうぞ」
「……悪いとは思っている」
「思っていなくてもいいですよ」
アルマが椅子から立って、ベッドに腰掛けた。
「……カイト」
「はい」
「……昨日の魔法石は、礼ではない。ただ、粗末なものを使っているのが目についただけだ」
赤く光った。
「覚えておきます」
「覚えていてやる、だけだ。礼とは言っていない」
また光った。
俺は毛布を引き上げて、目を閉じた。
アルマが何かを言おうとして、言わなかった気配がした。なんだったのかは、わからないままだった。




