第3話:波紋と選択
夏の夜。
昼間の賑やかさが嘘のように静まり返った三浦半島の港町。波音だけが暗闇の中に響いていた。
町の外れにある千春の工場では、小さな電球の光の下で、千春が『王子帰還用潜水カプセル』の設計図と向き合っていた。複雑なホログラムデータと地上の工具。その異質なコントラストの中で、千春の作業台にドサリと刺身の包みが置かれる。
「……千春。進んでるか」
やってきたのは、真っ黒に日焼けした漁師——海上工作員の康児だった。
「康児か。……クロードからの命令だ。カプセルの基礎設計は終わった。ジャックの特殊部隊もすでに三浦沖へ向けて潜航を開始している」
千春の手が止まる。ふたりは言葉を交わさずとも、互いの胸の内を察していた。
竜宮城の安全な環境へ王子を連れ戻すという本国の意図も、任務の重さも分かっている。全員が「昭太郎王子の無事」を願っている点では、同じだ。
「昭太郎の奴、さっきソラと笑いながら道を歩いてたよ」
康児が煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせながら呟く。
「あいつのあの顔を見てみろ。ただの15才のガキだ。あの笑顔を奪って、海底の冷たい城に押し込めるのが、本当にあいつのためになるのかねぇ」
「俺は職人だ。命令されたものを作るだけだ……と言いたいところだがな」
千春が苦笑いを浮かべたその時、工場の引き戸が静かに開いた。
「——私も、同じ思いです」
現れたのは、昭太郎を育ててきたユキだった。
昭太郎がカレーをおかわりし、無邪気な顔でぐっすり眠ったのを見届けてから、ここへやってきたのだ。
「ユキさん……」
千春が視線を向けると、ユキはまっすぐにふたりを見つめ、静かに、けれど揺るぎない声で告げた。
「15年前、乙姫様からあの子を託された時、私は『母』になりました。あの子がこの三浦の海と風の中で積み重ねてきた15年間の思い出と笑顔……それを奪う事なら、私は決して認めません」
「……乙姫様や本国の命令に背くことになるぞ」
康児の問いに、ユキはふっと温かい、けれど強い笑みを浮かべた。
「ええ。たとえ本国を敵に回そうとも、私はあの子の『地上の母』として、今の日常を守ります」
ユキの決意に、千春は同意し、工具を握り直した。
「参ったな。それなら、このカプセルにも、少しばかり俺の『職人としての意地』を混ぜ込ませてもらうとしようか」
「よし、決まりだな」
康児は煙草を揉み消すと、不敵な笑みを浮かべて工場を後にした。
同じ頃、三浦半島の沖合。漆黒の深海を、最新鋭の隠密潜水艇が静かに滑空していた。
艦橋に立つのは、冷徹な眼光を持つ特殊部隊リーダー、ジャック。
「ターゲットの回収ポイントまであとわずか。……これより三浦沿岸へ潜入する」
部下が懸念を口にする。
「隊長、地上に潜伏中の工作員(康児たち)が干渉してくる可能性は?」
「関係ない。我々は、クロード様の命令に従い遂行する事だけ、任務は王子の安全な奪還だ。邪魔立てする者は、たとえ味方の工作員であろうと排除するつもりだ」
「……これより、作戦開始」
夜明け前。
潮の満ち引きを肌で察知した康児は、自分の漁船『康栄丸』のエンジンを静かに始動させていた。
港で見送る娘のソラには、「ちょっと早めの漁に行ってくる」とだけ告げてある。
操舵竿を握る康児の目は、もはやただの気さくな漁師のものではなかった。数々の修羅場をくぐり抜けてきた、凄腕の海上工作員の光が宿っている。
朝焼けの朱色に染まり始めた三浦の海へ、康児の漁船が滑り出していく。
昭太郎の知らぬところで、彼の日常を守るための大人たちの密かな戦いが、今まさに始まろうとしていた。




