第9話 頼みごとの、その先
歌が、聞こえた。
ひび割れた、小さな声だった。
節回しは、ところどころ怪しい。息継ぎのたびに、少しだけ掠れる。それでも、ゆっくりと、ゆっくりと、同じ旋律を繰り返している。
額の上に、冷たいものが載っていた。
濡れた布だ。
それが、そっと持ち上げられて、桶の水に浸される音。絞られる音。また、額に戻される。
(……どこだ、ここ)
瞼が、重い。
どうにか、薄く開けた。
低い天井。煤けた梁。干した薬草の束が、何本も吊り下げられて、かすかに揺れている。
「――おや」
歌が、止んだ。
視界の端に、皺だらけの顔が覗き込んできた。
集会所の囲炉裏の隅にいた、あの老婆だった。
「目が覚めたかい、傭兵さん」
「……婆さん」
声が、掠れた。喉が、からからに乾いている。
老婆は、何も言わずに、木の椀を口元へ運んでくれた。ぬるい白湯。少しだけ、薬草の苦い匂いがした。
一口飲んで、ようやく、頭が回りはじめる。
「魔物、は」
「死んだよ。あんたが倒したんだろうに」
「ロゼリアは」
「工房の嬢ちゃんなら、隣の部屋で寝てるよ。一晩じゅう、あんたの手を握って離さなかったんだけどねえ。明け方になって、さすがに、こてんと」
老婆は、くっくっと喉の奥で笑った。
「あの子が村まで駆け戻ってきた時は、何事かと思ったよ。泣きそうな顔で、『誰か来て、雷夕が』ってね。男衆が松明を持って森に行って、あんたを戸板に載せて運んできたのさ」
(……泣きそうな顔、か)
あのロゼリアが。
想像して、少しだけ、胸の奥がむず痒くなった。
体を起こそうとして、腕に力が入らないことに気づく。指先が、まだ冷たい。体の芯の、あの空っぽの感覚が、薄くなってはいたが、まだ残っていた。
「無理はおよし。一晩寝たくらいじゃ、戻りきらないよ」
老婆が、額の布を取り替えてくれた。
節くれだった指。ひび割れた、硬い手のひら。それなのに、触れ方は、驚くほど柔らかかった。
「……慣れてるんだな」
「そりゃあね」
老婆は、桶の水で布を絞りながら、遠いところを見るような目をした。
「昔、もっと手のかかる子を、看てたからねえ」
雷夕は、黙って、その横顔を見た。
「――アリシア、か」
「おや。あの子から聞いてないのかい」
「何も」
「そうかい。……そうだろうねえ。あの子は、そういうことを人に言う子じゃないから」
老婆は、絞った布を、そっと雷夕の額に載せた。
「熱ばかり出す子だったよ。季節の変わり目になるたびに、寝台から起き上がれなくなってね。お屋敷の人たちは、みんな忙しかったから、あたしの一族が、代わる代わる、枕元についてた」
皺だらけの指が、布の端を、丁寧に整える。
「夜中に熱が上がるとね、怖がって泣くんだよ。だから、ずうっと、さっきの歌を歌ってやった。寝つくまで。寝ついても、また目を覚ますから、朝まで」
「……」
「その子がねえ」
老婆の声が、少しだけ、震えた。
「剣を握って、鎧を着て、国境の戦場に立ったって。村にまで、噂が届いたよ」
雷夕は、何も言えなかった。
あの戦場で見た、細い背中。震える肩。
――今度は、私の番。
その言葉の意味が、少しだけ、分かった気がした。
守られるばかりだった子供が。今度は、自分が守る番だと。
「傭兵さん」
老婆が、雷夕の手を、両手で包み込んだ。
冷えきった指先に、ひび割れた手のひらの温もりが、じんわりと染みてくる。
「あの子を、頼んだよ」
雷夕は、その手を、握り返した。
力は、まだあまり入らなかった。それでも、精一杯に。
「――ああ」
*
昼過ぎ、村を発った。
村じゅうの人間が、村の入口まで見送りに出てきた。村長は何度も何度も頭を下げ、若い農夫は、照れくさそうに、干した芋の包みを荷台に放り込んでいった。
昨夜の子供が、母親の後ろから、ちょこんと顔を出した。
「……傭兵さん、ありがとう」
「おう。もう、柵は折れないからな」
手を振ると、子供は、ぱっと顔を輝かせて、母親の後ろに引っ込んだ。
最後に、あの老婆が、荷台に近づいてきた。
手に、小さな布の包みを持っている。
「これを、あの子に」
受け取ると、ふわりと、青い草の匂いがした。
「熱冷ましの薬草だよ。あの子が小さい頃、熱を出すたびに、これを煎じて飲ませてた。――どうせ今も、夜更かしばかりしてるんだろう?」
「……よく分かるな」
「分かるさ」
老婆は、くしゃりと笑った。
「それと、伝えとくれ。『無茶するんじゃないよ』って。……まあ、聞きやしないだろうけどね」
*
帰り道は、静かだった。
揺れる荷馬車。軋む車輪。御者台のロゼリアは、村を出てから、ほとんど口を利かなかった。
雷夕は、荷台に凭れかかったまま、その背中を眺めていた。
「……なあ」
「何よ」
「昨夜、ありがとうな」
ロゼリアの肩が、ぴくりと跳ねた。
「――お礼を言うのは、こっちでしょう。庇ってもらったのは、私なんだから」
「じゃあ、お互い様だ」
「……そうね。お互い様」
ぶっきらぼうな返事。
それから、少しの間を置いて、ロゼリアは、前を向いたまま言った。
「次に、ああいう倒れ方したら、許さないから」
「努力する」
「努力じゃなくて、しないの」
声の端が、ほんの少し、湿っていた。
雷夕は、聞こえなかったふりをした。
*
城に着いたのは、燭台に火が入る頃だった。
「報告は、明日でもいいんじゃない? その顔色で」
「いや。今日中に、渡しておきたいものがある」
雷夕は、懐の布の包みを、軽く叩いた。
「頼みごと、だからな。寝かせておくもんじゃない気がする」
執務室の扉を叩くと、すぐに応えが返ってきた。
「入って」
アリシアは、執務机の前に立っていた。
座ってすらいなかった。まるで、扉が開くのを、ずっとそこで待っていたかのように。
雷夕の顔を見た瞬間、その表情が、くしゃりと歪みかけて――どうにか、持ち直した。
「……ロゼリアの早馬が、昼前に着いたわ」
「あー……」
雷夕は、頭を掻いた。
「全部、聞いてる感じか」
「魔物を倒したことも。そのあと、あなたが倒れて、朝まで目を覚まさなかったことも」
アリシアは、一歩、近づいた。
雷夕の顔を、下から覗き込むように見上げる。
「顔色が、悪いわ」
「平気だって。一晩寝たし」
「平気な人は、そんな手の冷たさはしてないわよ」
いつの間にか、手首を掴まれていた。
細い指。剣だこ。インクの染み。その指先が、確かめるように、雷夕の冷えた手を握る。
「……ごめんなさい」
俯いたまま、アリシアが言った。
「私が頼んだから。私の、個人的な頼みごとのせいで――」
「違う」
雷夕は、遮った。
「頼まれたから行ったのは、確かだ。けど、あの村で、あの魔物とやり合うって決めたのは、俺だ。あんたのせいじゃない」
それから、懐の包みを取り出して、アリシアの手のひらに載せた。
「それより、これ。預かりもんだ」
アリシアは、きょとんと包みを見下ろした。
布の結び目を、ほどく。
ふわりと、青い草の匂いが、執務室に広がった。
――アリシアの手が、止まった。
「これ……」
「熱冷ましの薬草だってさ。あんたが小さい頃、熱を出すたびに煎じてたって。どうせ今も夜更かしばっかりしてるんだろうから、って」
アリシアは、何も言わなかった。
包みを、両手で持ったまま。そっと、顔を近づけて、その匂いを吸い込んだ。
一度。
二度。
肩が、小さく震えた。
「……あと、伝言。『無茶するんじゃないよ』だとさ」
「――っ」
アリシアが、ぎゅっと、目を閉じた。
それから、ふっと、笑った。泣き笑いのような、顔だった。
「……ばあや、ったら。いつまでも、子供扱いして」
その声は、執務室で聞くどんな声とも違っていた。
領主ではない。凛とした指揮官でもない。熱を出して、枕元の歌を聞きながら眠った、小さな女の子の声だった。
「小さい頃、体が弱くてね」
包みを胸に抱いたまま、アリシアは、ぽつりと言った。
「季節が変わるたびに熱を出して、寝台から起き上がれなかった。そのたびに、ばあやの一族の誰かが、枕元についていてくれたの。――あの村の人たちは、私にとって、家族みたいなものよ」
「だから、"頼みごと"だったのか」
「ええ。領主が、私情で兵を動かすわけにはいかない。だから、ああいう小さな頼みは、いつも自分一人で何とかするか、諦めるか、そのどちらかだった」
「今回は?」
アリシアは、少しだけ、黙った。
それから、まっすぐに、雷夕を見た。
「――頼れる相手が、いたから」
雷夕は、思わず、口をつぐんだ。
何気ない一言のはずなのに。やけに、耳の奥に残る響きだった。
「……そんな顔されると、照れるだろ」
「別に、そんな顔はしていないわ」
「いや、してた」
「してないったら」
アリシアが、堪えきれずに、小さく吹き出した。
「ちゃんと寝ろよ。その薬草、煎じてさ。目の下、隈できてるぞ」
「あなたこそ。……今夜は、絶対に、まっすぐ部屋に戻って寝ること。これは、領主命令よ」
「頼みごとじゃなくて?」
「命令よ」
*
――同じ頃。
帝都ガルドヴァール。石造りの官舎の一室で、バルトレン・ガイアーは、一通の封書を開いていた。
上質な羊皮紙。封蝋には、騎士団上層部の紋。
目を走らせる。
『国境における報告、受領した。当該の傭兵については、卿の責任において処理せよ。次の報告が"処理済み"でない場合、国境方面の指揮は、別の者に預ける』
バルトレンは、封書を、燭台の炎にかざした。
端から、黒く縮れていく。
「……言われずとも」
机の上には、木炭で描かれた似顔絵の写しが、重ねて置かれていた。
気の抜けた目元。締まりのない口。
バルトレンは、その束を、指先で数えた。
一枚。二枚。三枚――。
九枚。
十枚目は、もう、そこにはなかった。




