第10話 市場の女主人
「今日は休みよ、雷夕」
唐突なロゼリアの一声で、雷夕は久々に何の予定もない一日を手に入れた。
シュタイン村の一件から数日。森で倒れた後の、指先の冷えもようやく抜けた。次の指示は、まだ来ていない。
――というより、来させてもらえない、が正しい。
「完全に戻るまで、劣化は禁止。工房にも来なくていい」と言い渡したのは、ロゼリアだった。「領主命令の延長よ」と付け足したのは、アリシアだった。
こういう空白は、傭兵稼業では珍しい。
(休みって、何していいか忘れるもんだな)
結局、雷夕は市場に足を向けていた。ロゼリアから「ついでに材料を見繕ってきて」と頼まれた紙切れを片手に。
城下の市場は、いつも通りの賑わいだった。
野菜を売る声。魔道具の売り込み。子供たちの笑い声。
この国に来て、もう一月近くになる。
(技術立国、か)
イヴァルキアという国の成り立ちを、雷夕は改めて頭の中でなぞった。
魔力の総量では、帝国に遠く及ばない。兵の数でも、国土の広さでも、比べるべくもない。それでも、この国が帝国の侵略に何年も耐えてきたのは、暮らしの隅々にまで染み込んだ「工夫」のおかげだ。
アリシアは、そのことを「技術と結束だけでどうにか食いつないでいる、小さな国」と評していた。ロゼリアの師の言葉――「力の差は埋まらなくても、工夫の差は誰にでも埋められる」というのも、根っこは同じだろう。
魔力に恵まれない代わりに、道具を極める。それが、この国の生き方そのものだった。
(そういう国だって、頭では分かってたつもりだったが)
(それにしたって、道具屋の数、多すぎないか)
通りを歩けば、三軒に一軒は何かしらの道具を扱う店だ。農具、厨房用品、装身具、玩具。この国の暮らしは、ありとあらゆる場面に工夫が染み込んでいる。
その中で、ふと目を引く店があった。
小さな看板に、歯車と手のひらの紋様。他の店にはない、妙に控えめな佇まいが、かえって雷夕の足を止めさせた。
(何の店だ、ここ)
覗いてみると、薄暗い店内には、掌サイズの水晶がずらりと棚に並んでいた。どれも中に、淡い光の粒のようなものが揺れている。
「珍しいものに目をつけるな、兄さん」
奥から現れたのは、白髪交じりの初老の男だった。無口そうな佇まいだが、目だけはやけに柔らかい。
「これは何の道具なんだ?」
「"手業写し"って呼んでる。うちの発明品でね」
男――ガレットは、棚から水晶を一つ取り出すと、慣れた手つきで台の上に置いた。
「熟練の職人が、何十年もかけて体に染み込ませた"手癖"ってのがあるだろう。あれを、この水晶に一時的に写し取れる」
「写し取る……って、コピーってことか?」
「まあ、そんなようなもんだ。見てな」
ガレットは、水晶に触れながら、目の前の木片に鑿を当てた。
――スッ。
迷いのない一彫り。素人目にも分かる、無駄のない動きだった。
「今の感覚を、これに」
水晶が、淡く発光する。ガレットはそれを、傍らに控えていた若い弟子らしき青年に手渡した。
「持ってみろ」
青年が恐る恐る水晶を握り、鑿を手に取る。
その動きが――さっきまでのぎこちなさが嘘のように、滑らかになった。
「……あ、あれ? 体が、勝手に」
「一時的にな。数十分もすりゃ、元に戻る。でも、その間だけは、"感覚"そのものを借りられる」
雷夕は、思わず息を呑んだ。
(これは……)
現代日本にも、これまで見てきた異世界の魔法にも、なかった発想だ。技を「教える」のではなく、感覚そのものを「一時的に貸す」。
その仕組みは、どこか――自分の『劣化』にも通じる響きがあった。
「なあ、これ、失敗することはないのか。狙った通りに写せない、とか」
「そりゃもちろん、相性はある。誰の"手癖"でも綺麗に写せるわけじゃない。だが――理屈が分かってりゃ、精度は上げられる」
ガレットの言葉に、雷夕はしばらく黙り込んだ。
(理屈が分かってりゃ、精度は上げられる、か)
ロゼリアが、いつも口にしている言葉と、驚くほど近かった。
「面白いもん見せてもらったよ、ありがとうな」
「気に入ったら、また来な。うちは逃げも隠れもしないから」
ガレットは、そう言って口の端をわずかに緩めた。
店を出た頃には、日はすっかり中天に昇っていた。
*
歩き回るうちに、腹の虫が控えめに主張を始めた。
(そういや、朝からろくに食ってないな)
食事処を探して通りを進むと、やがて、ひときわ賑やかな喧騒が耳に届いてきた。
笑い声。怒鳴り声。皿の触れ合う音。
その喧騒の中心にあったのは、他の屋台よりも一回り大きな、看板つきの店構えだった。軒先には、香辛料の袋や見慣れない工具と一緒に、湯気の立つ鍋や串焼きの匂いが漂っている。
(道具屋なのか、飯屋なのか、どっちだよ)
首をひねりながら、雷夕は暖簾をくぐった。
店内は、想像以上の盛況ぶりだった。
鎧を脱いだ兵士らしき男たちが、大声で笑いながら酒を酌み交わしている。旅装のままの冒険者たちが、壁に立てかけた武器を横目に肉を頬張っている。
空いている席を見つけて座ると、すぐに、控えめな声がかけられた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
振り返ると、まだ十代半ばに見える少女が、姿勢よく注文票を手に立っていた。この荒っぽい店の中では、明らかに浮くほど物腰の柔らかい佇まい。フィオナと名乗ったその少女は、しとやかに小首を傾げてみせる。
「おすすめは、ございますか?」
「本日でしたら、岩猪の煮込みがおすすめです。大きな猪を、まるごと一頭仕入れましたので」
丁寧な物言いに、雷夕は一瞬、店の雰囲気とのちぐはぐさに面食らった。
「……岩猪、ね」
シュタイン村での一件を思い出し、雷夕は思わず苦笑した。奇妙な巡り合わせだ。
「じゃあ、それをもらおうか」
「かしこまりました」
フィオナは丁寧に頷いてから、ふと悪戯っぽく目を細めた。
「――ちなみに、噂の"劣化"さんですよね? 皆さん、あなたの話でもちきりですよ」
「え」
「ふふ、内緒にしておきますね。少々お待ちくださいませ」
フィオナは丁寧に一礼すると、静かな足取りで厨房へと向かった。物腰こそ淑やかだが、その所作には一切の無駄がない。厨房の奥に声をかけると、威勢のいい返事が返ってきた。
しばらくして、木箱の山を抱えたリタが、厨房から店の奥へと大股で歩いてきた。がっしりとした体格の若い娘で、その顔には終始明るい笑みが張り付いている。
だが。
どすん、という鈍い音とともに、木箱の一つが傾き、積み上げられていた酒瓶の列に接触した。
「あはは、やっちゃった!」
リタの明るい声とともに、瓶が二、三本、盛大に転がり落ちる。
割れはしなかったものの、床には酒がじわりと広がった。本人はまるで悪びれる様子もなく、けらけらと笑っている。
「うわ、リタまたやった!」
カウンターの向こうで帳簿をつけていたミラが、眼鏡の奥で目を細めながら、くすりと笑いを漏らす。
「またって、お前――」
「リタ・アンダーソン!!」
店の奥から響き渡った怒声に、店内の喧騒が一瞬だけ静まった。
ハンナが、腰に手を当て、仁王立ちでこちらを睨んでいる。
「先週も同じことやったばっかりだろう! あんた、その図体、少しは器用に使いな!」
「はーい、すみませーん! すぐ片付けますね!」
まるで叱られ慣れているとでも言うように、けろりとした顔で雑巾を取りに走るリタの背中を、店中の冒険者や兵士たちが囃し立てた。
「おーい、また女将の説教タイムか!」
「リタ、今週三回目だぞ!」
「賭けるか、来週もやらかすかどうか!」
「またやりまーす!」
リタが明るく即答すると、店内はどっと笑いに包まれた。誰も彼も、慣れきった様子で、この騒動を肴に酒を進めている。
(……なんだ、この店)
雷夕は、運ばれてきた岩猪の煮込みに口をつけながら、呆気に取られていた。
道具屋なのか、酒場なのか、いまだによく分からない。
だが、この店に流れる空気は――不思議と、居心地が悪くなかった。
*
食事を終えた頃、ようやく落ち着いたらしいハンナが、カウンターの向こうから顔を出した。
「悪いね、うるさくして。……ああ、あんた、噂の"劣化"の兄さんだろ」
「霧島雷夕だ」
軽く頭を下げてから、雷夕はふと思い出したように懐を探った。
(そういえば……)
ロゼリアに頼まれた、あの注文書。まだどこにも持ち込んでいなかった。
(この店、道具も扱ってるみたいだし、ついでに聞いてみるか)
「なあ、実はロゼリアに頼まれ物をしててな。あんたの店でも扱ってるか、見てもらえるか?」
雷夕は苦笑しながら、メモを差し出した。
「これ、揃うか?」
メモに目を通したハンナは、片方の眉を吊り上げた。
「――"銀狐の毛皮"に"深淵水晶の欠片"? あの工房主、また無茶な注文を」
「知り合いか?」
「そりゃもう。イヴァルキアで、あの人に振り回されたことのない商人なんていないさ」
ハンナは笑いながら、店の奥へと声を張り上げた。
「リタ! 例の銀狐の毛皮、在庫あったかい!」
「確認しまーす、女将!」
さっきの粗相などまるで気にした様子もなく、リタは相変わらずの笑顔で棚の奥へと駆けていった。
「ミラ、深淵水晶の帳簿、出しとくれ」
「はい、すぐに」
迷いのない手つきで台帳を繰るミラの隣で、店の品を黙々と並べ直していたネルバが、ふと顔を上げた。
「女将、店先の樽、そろそろ並べ替えた方がいいですかね」
物静かな年配の女で、皺の刻まれた手つきには、長年この仕事を続けてきた者らしい丁寧さがあった。
「そうだね、頼むよ、ネルバ」
リタ、ミラ、ネルバ、フィオナ。四人の店員――全員が女性というのも、この店らしいと言えばらしい。それぞれの持ち場で忙しく動き回る様は、賑やかさの中にも、確かな連携があった。
「賑やかな店だな」
「うちの子たちは、みんな頼りになるからね」
ハンナは、誇らしげに笑いながら、店の奥をごそごそと漁り始めた。
「幸い、心当たりはある。三日、待ってくれるかい?」
「早いな、随分」
「伊達に長年この商売やってないよ」
自信たっぷりに言い切るハンナに、雷夕は思わず感心した。
「なあ、こんな辺境の市場で、そこまで手広くやれるもんなのか」
「まあね。若い頃は、色んな土地を渡り歩いてたから」
その一言に、雷夕は一瞬だけ、彼女の目の奥に何かがよぎった気がした。
だが、それはすぐに、いつもの快活な笑みに塗り替えられる。
「昔話はまた今度さ。それより、あんたも大変だねぇ。あの工房主に振り回されて」
「本当にな」
軽口を交わしながら、雷夕はふと、この店の空気が心地よいことに気づいた。
戦場でも、工房でもない、ただの日常。
こういう時間が、自分にはずっと足りていなかったのかもしれない。
*
夕方、宿代わりの部屋に戻ると、ロゼリアが卓に向かって一人でカードを並べていた。
「何してるんだ、それ」
「暇だから、一人占い。付き合う?」
「占いって柄でもないだろ、あんた」
「うるさいわね。休みの日くらい、いいでしょう」
結局、二人で他愛のない勝負を始めることになった。ロゼリアの手際は、こんな遊びでも無駄がなく、雷夕はあっさりと三連敗を喫した。
「工房での手際のよさ、こんなところにも出るのか」
「勝負事は、何でも得意なのよ」
得意げに笑うロゼリアに、雷夕は肩をすくめるしかなかった。
窓の外では、市場の喧騒が、遠く柔らかく響いていた。
戦いとは無縁の、ただの午後。
こんな時間が積み重なっていくことを、雷夕は――柄にもなく、幸せだと思った。
*
その頃、店じまいを終えたハンナは、誰もいなくなった店の奥で、一枚の古い布切れを取り出していた。
布には、消えかけた紋様が刺繍されている。
随分と昔、別の名前で呼ばれていた頃の――名残だった。
「……劣化、ねえ」
ハンナは、独り言のように呟くと、布を丁寧に折りたたみ、懐にしまい込んだ。
「面白い坊やが、来たもんだ」
その口元に浮かんだ笑みは、市場の女主人のものにしては――ほんの少しだけ、質が違って見えた。




