第8話 届け、この一撃
振り下ろされる。
岩塊の前脚が、月明かりを裂いて、ロゼリアの頭上に落ちてくる。
時間が、粘つくように引き伸ばされた。
(――速い)
考えるより先に、体が動いていた。
地面を蹴る。手を伸ばす。ロゼリアの作業着の襟首を、指先が掴む。
力任せに、引き倒した。
二人分の体重もろとも、地面に叩きつけられる。その頭上を、岩の脚が、ごう、と空気を裂いて通り過ぎた。
ドゴォンッ――!
地面が、陥没した。
すぐ脇の土が、爆発したように跳ね上がる。土塊と小石が、雨のように降り注ぐ。ロゼリアの頭を胸に抱え込んで、背中でそれを受けた。
「無事か、ロゼリア!」
「え、ええ……っ」
腕の中の声が、震えていた。
壊れた拘束具を、まだ握りしめている。その指が、真っ白になっていた。
「……ごめんなさい。私の道具が、通用しなかった」
「謝るのは後だ」
雷夕は、ロゼリアを背中に庇うようにして、体を起こした。
魔物が、陥没した地面から前脚を引き抜いている。土煙の向こうで、赤い目が、ぎょろりとこちらを向いた。
逃げ場はない。
剣は通らない。ロゼリアの鎖は砕かれた。狙った『劣化』は、苔を揺らしただけ。
(考えろ――)
さっきの一撃。
考えて、考えて、狙った。反対を、隣を、必死に計算した。そして――掠めた。
訓練場でも、そうだった。三十回狙って、三十回外れた。
狙えば、外れる。
狙えば、掠める。
(――なら)
雷夕は、握っていた剣を、足元に落とした。
カラン、と。乾いた音。
「雷夕!? 何して――」
「狙わない」
短く、言った。
「何に化けるかを考えるのは、やめる。――その代わり、何を写すかだけは、俺が決める」
目を、魔物に向ける。
いや――その、足元に。
たった今、地面を陥没させた、あの踏み込み。岩の脚が大地を叩いた瞬間、足の裏から脳天まで突き抜けていった、あの衝撃。地面そのものを揺るがし、土を爆ぜさせた、破砕の波。
この魔物が持っている中で、一番でかい力。
それを、写す。
――それだけを決めて、あとは、全部、手放す。
両手を、大きく開いた。
頭の中から、計算を追い出す。反対も、隣も、ロゼリアの手帳の数字も、全部。
ただ、見る。
ただ、焼き付ける。
魔物が、地を蹴った。
迫ってくる。岩の巨体が。赤い目が。捻じれた牙が。
「――『劣化』ァアアアアアッ!!」
ドクンッ!!
心臓が、胸の内側から殴りつけてきた。
手のひらの奥から、何かが溢れ出す。引き抜かれる、のではない。溢れ出す。堰を切ったように。これまでのどの発動とも、まるで違う。体の芯が、燃えるように熱い。
放たれたものは、見えなかった。
光も、風も、靄もない。
ただ――空気が、震えた。
ヴゥゥゥゥゥン――ッ。
低い、低い唸り。耳ではなく、骨で聞く音。足元の小石が、細かく跳ねる。木々の葉が、一斉にざわめく。ロゼリアの壊れた拘束具が、手の中で、かたかたと鳴る。
その震えが、突進してくる魔物に、真正面からぶつかった。
――弾かれない。
岩の鎧の表面で止まらずに、それは、水が砂に染み込むように、鎧の内側へと、吸い込まれていった。
「――ギィイイイイイッ!?」
魔物の喉から、甲高い悲鳴が迸った。
突進が、止まる。巨体が、つんのめる。
外から叩けば弾かれるはずの力が、鎧の内側で、反響していた。岩と岩の継ぎ目の奥で、押し合い、跳ね返り、逃げ場を失って、どんどん膨れ上がっていく。
ピシッ。
鎧の表面に、細い線が走った。
ピシッ、ピシッ――ピシピシピシピシッ!!
線が、増える。枝分かれする。一本が二本に、二本が四本に。灰色の岩の鎧を、細かな亀裂が、生き物のように這い広がっていく。
「鎧が――割れてる!?」
ロゼリアが、叫んだ。
雷夕は、その罅を、見ていた。
見覚えが、あった。
蜘蛛の巣の、形。
工房の作業台。樫の天板に走った罅。触れたところから、乾いた土くれのように、ぽろりと崩れた――あの形。
(あれと、同じなら)
罅の広がり方を、目で追う。
線は、どこからでも走っているわけではない。全部の罅が、一点から、放射状に広がっている。魔物の右の肩口。岩と岩の継ぎ目が、一番深く刻まれた場所。
――罅が一番集まっているところが、一番、脆い。
雷夕は、足元の剣を、拾い上げた。
地を、蹴る。
一歩。砕けた地面が跳ねる。
二歩。震えに苛まれた巨体が、苦し紛れに牙を振り回す。身を沈めて、潜る。牙が、髪の先を掠めていく。
三歩。
懐。
目の前に、罅の中心があった。
「――届けぇえええッ!!」
剣を、突き込んだ。
ガギッ――!
硬い。一瞬、刃が止まる。
それでも、押す。体ごと、押す。
――ボロッ。
罅の中心から、岩の鎧が、崩れた。
剣先が、その奥の、柔らかなものに沈み込む。
ずぶり、と。鍔元まで。
「――ヴォ……ヴォオオオ……」
魔物の喉から、空気の抜けるような声が漏れた。
断末魔にしては、あまりにも弱々しい声だった。それでも、それは確かに、命が抜け落ちていく音だった。
巨体が、傾いでいく。
雷夕は、剣の柄から手を離して、よろめくように後ろへ下がった。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
岩の鎧に覆われた体が、地響きを立てて、横倒しに沈んだ。
ズゥゥゥン――……。
静寂。
森を渡る風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……終わった、のか」
「終わったわ」
背中で、ロゼリアの声がした。
「あなた、今の――」
「狙わなかった」
雷夕は、振り向かずに答えた。
「何を写すかだけ決めて、あとは、考えるのをやめた。……そしたら、出た」
「狙わない方が、強く出た……?」
「かもな。それと――あの罅」
横倒しになった魔物の、肩口の罅を、顎で示す。
「工房で、あんたの天板を割った時と、同じ形だった。だから、どこが一番脆いか、分かった」
ロゼリアが、息を呑む気配がした。
「……あの失敗が。役に立ったの?」
「役に立った。――あんたが、あの瓶を写させてくれたからだ」
振り向いて、笑ってやろうとした。
――視界が、傾いた。
(あ、れ)
膝が、抜けた。
地面が、斜めに迫ってくる。受け身を取ろうとした腕に、力が入らない。
手のひらが、冷たい。いや、手のひらだけじゃない。指先から、腕から、胸の奥から、熱という熱が、根こそぎ消えていく。工房で七回写した時とも、国境の戦場の時とも、比べものにならない。
体の中が、空っぽだ。
空っぽの井戸の、さらに底が、抜けたような。
どさり、と。
頬に、湿った土の感触。
「――雷夕!? 雷夕っ!!」
ロゼリアの声が、遠い。
肩を揺さぶられている。分かる。分かるのに、目が開かない。
「しっかりして! ねえ、聞こえてるんでしょう――雷夕ッ!!」
声が、どんどん、遠くなっていく。
分厚い水の底に、沈んでいくように。
最後に聞こえたのは、ロゼリアが誰かを呼ぶ、悲鳴のような叫び声だった。




