第7話 狙い、掠める
「……なあ、これ、"依頼"って言っていいのか?」
荷馬車の荷台に寝転がったまま、雷夕は誰へともなく愚痴をこぼした。
「傭兵ってのは、依頼書があって、報酬があって、条件があって、初めて成り立つ商売だろ。今回のこれ、そのどれもないじゃないか」
「あら、細かいこと気にするのね」
御者台から、ロゼリアの声が飛んでくる。手綱を握る手つきは、工具を握る時と同じくらい、迷いがない。
「アリシア様直々に頼まれて、断れるわけないでしょう、普通」
「断らないって。断らないけどさ」
雷夕は、荷台の上で寝返りを打った。
麻袋の隙間から、昨日の夜の回廊の光景が、ふっと浮かぶ。
――個人的に、頼みたいことがあるの。
握り潰された手紙。迷っている顔。
「"依頼"なら、割り切れる。でも"頼みごと"って言われると、妙に肩に力が入るんだよな。俺はあの人に、命を助けられた側なんだし」
「それだけ信頼されてる、ってことでしょう」
「信頼と重荷は、紙一重なんだよ」
ぼやきながら、それでも、こうして荷台に揺られている自分に、雷夕は内心で苦笑した。
(まあ……愚痴るくらいは、許してほしいもんだ)
行き先は、国境近くの小さな村――シュタイン村。
数日前から、魔物が出ているという。帝国との睨み合いが続く今、正規の討伐隊を割く余裕は、国のどこにもない。
だから、アリシアは、公務ではなく――一人の人間としての「頼みごと」という形で、二人に声をかけたのだった。
「懐かしくない? こういう、傭兵らしい仕事」
「懐かしむには早すぎるさ。まだ数週間だろ」
*
シュタイン村に着いたのは、夕刻に差し掛かる頃だった。
村の入口をくぐった瞬間、雷夕は眉をひそめた。
柵が、折れていた。
一本や二本ではない。村の西側をぐるりと囲んでいたはずの木の柵が、何か巨大なものに薙ぎ払われたように、まとめて内側へ倒れている。太い杭が、根元からへし折られ、白い木肌を晒していた。
その向こうの畑は、土が深くえぐれていた。
蹄の跡――にしては、大きすぎる。人の頭がすっぽり入りそうな窪みが、点々と、村の方へ続いている。
「……でかいな」
「ええ。でかいわね」
ロゼリアが、荷馬車を降りて、窪みの一つにしゃがみ込んだ。指先で土をつまみ、擦り合わせ、匂いを嗅ぐ。
井戸端で洗い物をしていた女たちが、荷馬車の音に気づいて、一斉に振り返った。
その顔に浮かんだのは、警戒と――それを上回るほどの、安堵だった。
「もしかして……アリシア様のところの!」
「ああ。頼まれて来た」
雷夕が答えると、女たちの間に、ほっとした空気が広がった。一人が駆け出し、村の奥へと知らせに走っていく。
ほどなくして現れたのは、白髪交じりの、恰幅のいい老人だった。
「よくぞ……よくぞ来てくださった! 村長を務めております。アリシア様には、何度お礼を申し上げても足りません」
「頭を上げてくれ。まだ何もしてない」
「いえ、来てくださっただけで、村の者がどれだけ救われたか――」
村長は、目尻を拭いながら、二人を村の集会所へと案内した。
*
集会所の囲炉裏を囲んで、村人たちが不安げな顔を寄せ合っていた。
煤けた梁。壁に吊るされた鍬と鎌。囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜるたび、誰かの肩がびくりと跳ねる。
「三日前の晩です」
口を開いたのは、日に焼けた顔の若い農夫だった。
「最初は、遠くで地鳴りがするだけでした。……でも、次の夜には、西の柵がやられて。羊が二頭、いなくなりました」
膝の上で握った拳が、微かに震えていた。
「二日目の夜は、うちの畑が。丹精込めて育てた麦が、一晩で、滅茶苦茶に」
「うちもだよ。もう、夜になるのが怖くて、怖くて……」
口々に語られる被害に、雷夕は黙って耳を傾けた。
こういう場には、この三年、何度も立ち会ってきた。
――慣れたことは、一度もない。
「姿を見た者は?」
ロゼリアの問いに、囲炉裏の隅で背を丸めていた老婆が、顔を上げた。
小さな人だった。皺だらけの顔。節くれだった指。けれど、その目だけは、驚くほど澄んでいた。
「あたしが、一度だけ。月明かりの下で……」
震える声で、言葉を探す。
「岩みたいな……鎧を着込んだみたいな、ごつごつした体でねえ。猪に似た形で。目が、赤く光ってた」
「土系統の魔物、かしらね」
ロゼリアが、帳面に書きつけながら呟いた。
村長が、雷夕の耳元に顔を寄せて、小声で囁いた。
「あの婆様は、アリシア様の乳母の縁者でしてな。長いこと、レーヴァルトのお屋敷に仕えていたのです」
(――そういうことか)
アリシアが、この村を「公務ではない頼み」として抱えていた理由。
回廊で見た、あの迷った顔の理由。
ようやく、腑に落ちた。
その老婆が、ふいに、雷夕の方を見た。
「あんた……アリシア様のところの、傭兵さんだね」
「ああ」
「あの子は……いや、アリシア様は。お元気かい」
少しだけ、間が空いた。
雷夕の脳裏に、いくつもの光景がよぎる。罅だらけの円盤を突き出す、震える腕。鞘に収まらない剣。夜中の執務室で、包帯の上から腕を押さえて、それでも手紙を書いていた背中。
「――元気だよ」
雷夕は、答えた。
「無茶しすぎなくらい、元気だ」
老婆は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、くしゃりと、顔中の皺を寄せて笑った。
「……そうかい。変わらないねえ、あの子は」
その笑顔が、なぜだか、ひどく寂しそうに見えた。
*
夕餉は、硬いパンと、具の少ない麦の粥だった。
「こんなものしか、お出しできませんが……」
「十分すぎるくらいだ。ありがとう」
雷夕がそう言って笑うと、囲炉裏の陰から様子を窺っていた子供たちが、少しだけ顔を緩めた。
誰かが、小さく呟く。
「……傭兵さん、がんばって」
雷夕は、その声の方に向かって、黙って頷いた。
月が昇る頃、二人は村の西の外れ――柵が薙ぎ払われた場所の、さらに先の森の入口で、張り込みについた。
冷たい夜風が、首筋を撫でる。
ロゼリアが、懐から掌ほどの真鍮の箱を取り出した。蓋を開けると、中で小さな針が、ふるふると震えている。
「探知用の魔道具よ。大きな魔力に反応して、針が振れる」
「便利なもんだな」
「でしょう。――それと、これ」
もう一つ、腰の物入れから取り出したのは、黒い金属の輪に、細い鎖が何本も絡みついた道具だった。
「拘束用の術式を仕込んであるの。起動すれば、光の鎖が対象の四肢に絡みついて、しばらく動きを封じる。今まで、一度も外したことがない一品よ」
「頼もしいな」
「当然でしょう。私が作ったんだから」
ロゼリアが、得意げに胸を張った――その時。
真鍮の箱の中で、針が、跳ねた。
カチッ。カチカチカチッ――!
振り切れる。
「……来る」
ロゼリアの声が、低くなった。
ズン、と。
足の裏から、重い振動が這い上がってきた。
ズン。ズン。
森の奥から。一定の間隔で。近づいてくる。
――ゴリ、ゴリ、と。岩と岩とが擦れ合うような、低い唸り。
木々が、揺れた。
メキメキメキッ――!
幹の太い樫の木が、根元から押し倒される。土煙の向こうから、赤い光が二つ、ゆっくりと浮かび上がった。
でかい。
荷馬車ほどもある体躯。灰色の岩が何枚も重なり合って、鎧のように全身を覆っている。猪に似た、低く突き出た鼻面。その両脇から、捻じれた牙が月明かりを弾いていた。
「――ゴアアアアアアッ!!」
咆哮が、森を揺さぶった。
鼓膜を、直接殴りつけられたような衝撃。木の葉がざあっと降り注ぐ。
「デカいな、おい……!」
「想定より大きいわね。でも、慌てないで」
ロゼリアが、拘束具を構えた。
「型通りにいくわ。私が鎖で足を止める。その隙に、あなたが」
「了解」
「――いくわよ!」
起動した拘束具から、青白い光の鎖が、幾筋も放たれた。
狙いは正確だった。鎖は宙を走り、魔物の四肢へと、蛇のように絡みつく。
――パリンッ。
乾いた、音。
光の鎖が、岩の鎧に触れた瞬間に、硝子細工のように砕け散っていた。
「……え」
ロゼリアの手の中で、拘束具が、ぶすぶすと煙を上げている。
「嘘、でしょう……鎧の硬さが、想定の、何倍……!?」
初めて聞く、焦りの滲んだ声だった。
「ゴ、ル、ル、ル……」
魔物が、鬱陶しそうに首を振った。前脚で、地面を掻く。一度。二度。
来る。
「――下がれ、ロゼリア!」
ドンッ――!
地面が、爆ぜた。
巨体に見合わない速さだった。雷夕は横へ跳ぶ。跳んだはずだった。突進の余波だけで、体が木の葉のように吹き飛ばされる。
背中から、地面に叩きつけられた。
「がっ――!」
肺の中の空気が、全部、押し出される。
「雷夕!」
「……大丈夫、だ」
口の中に、土と血の味が広がる。
魔物が、ゆっくりと向きを変えていた。赤い目が、こちらを捉えている。
(――剣じゃ、無理だ)
あの鎧。ロゼリアの鎖を弾いた硬さ。人の腕で振るう刃が、通るはずがない。
だったら。
『劣化』しか、ない。
――狙え。
工房で、訓練場で、何十回と繰り返した感覚を、必死に手繰り寄せる。
写すのは、今の突進。地面を爆ぜさせた、あの重い衝撃。化けてほしいのは――あの鎧を砕くもの。硬いものを、壊すもの。
衝撃の、反対は。
壊すの、反対は。
(考えろ、考えろ――)
「『劣化』ッ!」
ドクン。
手のひらから、何かが、飛び出した。
――風、だった。
突風が、一筋。魔物の鼻面へまっすぐに飛んで、その岩の鎧の表面を、さらり、と撫でた。
掠めた、だけ。
魔物の頬の、苔の一房が、ふわりと揺れた。
それだけだった。
「……は、は」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
(狙うと――掠めるだけかよ)
魔物が、もう一度、地面を掻いた。
さっきよりも、深く。さっきよりも、強く。喉の奥から、ズズ、ズズズ、と低い振動音が漏れている。獲物を仕留める直前の、獣の昂り。
「逃げるか、ロゼリア!」
「逃げても追いつかれる速さよ! それに、この先には村が――!」
分かっている。
背中の向こうには、折れた柵と、えぐれた畑と、囲炉裏を囲んでいた人たちがいる。「がんばって」と呟いた、子供の声がある。
魔物が、地を蹴った。
視界いっぱいに、岩の巨体が迫る。
振り上げられた前脚が、月明かりを遮った。
――狙いは、雷夕ではなかった。
その、隣。
壊れた拘束具を握りしめたまま、立ち竦んでいる、ロゼリアだった。




