第6話 狙って外れる男
「――あの円盤の、残り滓よ」
翌朝、工房の扉を開けるなり、ロゼリアはそう言った。
挨拶も、前置きもなかった。作業台の前に立ったまま、こちらに背を向けて。その台の天板には、昨日の蜘蛛の巣の罅が、そのまま残っていた。
「アリシア様の盾。壊れた円盤の中に、まだ少しだけ魔力が残ってたから、採っておいたの」
「……あれを、写させたのか」
「ええ」
ロゼリアは、振り向いた。
目の下に、うっすらと隈があった。昨夜は、あまり眠れなかったのだろう。
「期待、してたのよ。あなたの『劣化』で、あの盾の力が、何か別の形の"守り"に化けてくれないかって」
自嘲するように、口の端が上がる。
「一撃しか保たない盾じゃなくて。もっと長く、もっと広く、あの人を守れる何かに。――そうしたら、あなたがあの人の隣で、それを使ってくれるかもしれないって」
指先が、天板の罅をなぞる。
ぽろり、と。樫の木の欠片が、また一つ崩れた。
「でも、守る力の反対は、壊す力だった。……考えてみれば、当たり前よね。昨日の結果どおりなら、そうなるに決まってるのに」
工房の中が、しんと静まり返った。
雷夕は、しばらく黙って、その罅を見ていた。
蜘蛛の巣の形。あの戦場で、アリシアの手の中で、悲鳴を上げながら砕けていった盾と、同じ形。
それから、頭を掻いた。
「――なあ」
「何よ」
「あんた、あの盾、一撃しか保たないって言ったよな」
「……言ったわね」
「つまり、相手の二撃目が来る前に、こっちが止めりゃいいんだろ」
ロゼリアが、眉を寄せた。
「何が言いたいの」
「守るのが出ないなら、守らなくていい。相手の剣でも、鎧でも、あの白い光を撃つ手でも――二撃目を撃たれる前に、ぶっ壊して止めればいい」
雷夕は、天板の罅を、とん、と指で叩いた。
「使い道は、俺が決める。そう言ったろ」
ロゼリアは、目を丸くした。
ぽかんと、口を半開きにしたまま、しばらく雷夕を見つめていた。
それから――ふっと、吹き出した。
「……何それ。乱暴すぎる」
「傭兵なんでね」
「職人に言う台詞じゃないわよ」
そう言いながら、ロゼリアは手帳を開いた。
昨日の最後の一行の下に、何か書き足している。覗き込もうとしたら、ぱたんと閉じられた。
「いいわ。だったら、今日からは"狙う"練習よ」
その目に、昨日までの光が、戻っていた。
「出るものは選べなくても、出る方向を、少しでも寄せられるように。――昨日の仮説が正しいなら、出したいものの反対を写せば、出したいものが出るはず」
「……ややこしいな」
「ややこしいことを、簡単にするのが職人の仕事よ」
*
「はい、もう一回」
「……これ、何回目だ」
「三十回目。三十一回目でコツを掴むかもしれないでしょう」
工房の裏の、小さな訓練場。
踏み固められた土の上に、ロゼリアが運び込んだ作業机が一台。その上に、標本の瓶がずらりと並んでいる。
狙いは単純だった。
写す前に、「こう化けろ」と頭の中で念じる。反対か隣に化けるのなら、化けてほしいものの反対を写せばいい。
理屈の上では。
「今度は"風"の残滓よ。狙いは、反対の"土"。意識を集中して」
「分かった、分かった」
瓶の中の、渦を巻く淡い光を見つめる。
土。土。土。重くて、硬くて、動かないもの――。
「『劣化』!」
ふわっ、と。
手のひらから、甘い香りが立ちのぼった。
花の匂いだった。それも、むせ返るほど濃い。訓練場の空気が、一瞬で花畑の真ん中みたいになる。
「……なんだこれ」
「植物系ね。土から生えてくるものって意味じゃ、近いと言えなくもないけど」
ロゼリアは律儀に記録しながら、鼻を摘んでいる。
「もう一回」
「花の匂いで満足しちゃダメか」
「ダメに決まってるでしょう」
*
昼を過ぎても、成果らしい成果は出なかった。
水の残滓を写して「炎」を念じれば、出てきたのは、足元にまとわりつく重たい霧。光の残滓で「闇」を念じれば、なぜか周りの音が、きんきんと甲高く反響した。
どれもこれも、狙いには掠りもしない。
「くそ……ここまで外れると、逆に才能あるんじゃないか。外す才能が」
「変なところで前向きね、あなた」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてないわよ」
息を切らしながら軽口を叩く雷夕に、ロゼリアは呆れたように笑った。
それから、手帳をめくりながら、少しだけ真面目な声になった。
「でも、悲観する結果でもないのよ。意識の向け方で、出てくるものの"種類"に、ほんの少しだけど偏りが出てる。完全な無作為じゃない」
「ほんの少し、なあ」
「ほんの少し。――狙って出せるようになるには、まだ相当かかるわね」
身も蓋もない正直さに、雷夕は苦笑した。
机の端に、昨日の札のない瓶が、置かれていた。
ロゼリアは、時々、手を止めて、その瓶を見る。それから、何事もなかったように、次の標本を手に取る。
「……あの人さ」
休憩の合間に、水筒の水を呷りながら、雷夕は聞いた。
「自分用の盾、あれ一枚しか持ってなかったのか」
「作らせてくれないのよ」
ロゼリアは、溜め息混じりに答えた。
「あの円盤ひとつ作るのに、どれだけの素材と手間がかかると思う? それを知ってるから、『私の分を作るくらいなら、国境の守備隊に回して』って。何度言っても、聞きやしない」
「……らしいな」
「らしいでしょう」
ロゼリアは、瓶をひとつ、指先で弾いた。
「だから、あなたに期待したの。――勝手にね」
雷夕は、水筒の蓋を閉めた。
それから、立ち上がった。
「もう一回、いいか」
「あら。珍しく積極的じゃない」
「せっかくなら、今日中に一つくらいは、狙い通りに出したいだけだ」
次の瓶を手に取る。治癒の残滓。昨日は、浮遊に化けた。
だったら――今度は、「重く」を念じる。浮く反対。押さえつけるもの。
「『劣化』!」
ゴウッ!
手のひらから、突風が吹き出した。
机の上の手帳が、標本の札が、書き散らした紙の束が、一斉に宙に舞い上がる。
「うわ、紙が!」
「あああっ! 待って待って、それ大事な記録――!」
二人して、舞い散る紙を追いかけて、訓練場を走り回る羽目になった。
*
紙をかき集め終えた頃には、訓練場の隅の篝火台に、火が入れられていた。
薪の爆ぜる音が、ぱち、ぱち、と静かに響く。
「……今日も、狙い通りにはいかなかったな」
「そうね。でも」
ロゼリアは、皺だらけになった紙束を胸に抱えながら、それでも笑っていた。
「今日の"風"、昨日の"浮遊"よりは、ちょっとだけ"重く"の方に寄ってたわよ。吹き飛ばす力って意味ではね」
「気休めだろ、それ」
「気休めじゃないわ。データは嘘をつかないの」
雷夕は、篝火の炎を眺めながら、ぼやいた。
「……先は長そうだな」
「長いでしょうね。でも」
ロゼリアは、当然のように付け加えた。
「長い方が、面白いじゃない」
雷夕は、しばらく黙ってから、小さく笑った。
「……ああ。そうだな」
*
城の回廊を、宛がわれた部屋の方へ戻る途中だった。
燭台の灯りが、等間隔に、石の床に光の溜まりを落としている。その一つ一つを踏みながら、雷夕は欠伸を噛み殺した。
角を、曲がる。
次の光の溜まりの中に、銀の髪が立っていた。
「――雷夕」
アリシアだった。
供の一人もつけていない。手には、一通の手紙を握っている。封はもう切られていて、紙の端が、くしゃりと握り潰されていた。
その顔を見て、雷夕は欠伸を引っ込めた。
執務室で手紙を書いていた夜とも、戦場で剣を振るっていた時とも違う。
――迷っている、顔だった。
「どうした」
「……呼び止めて、ごめんなさい。これは、公務じゃないの」
アリシアは、握った手紙に目を落とした。
少しの間、唇を噛んで。
それから、顔を上げた。
「個人的に、頼みたいことがあるの」
握り潰された手紙の端に、雷夕は、走り書きの一行を見た。
震える文字で。
『――西の柵が破られ、羊が二頭いなくなりました。次は、人かもしれません』




