第5話 劣化の理
「次!」
ロゼリアが、二本目の瓶を作業台に叩きつけるように置いた。
凍りついた水差しは、もう作業台の端に追いやられている。表面の霜が、窓からの光を受けて、ゆっくりと溶けはじめていた。ぽたり、ぽたりと、雫が床の設計図に染みを作る。
ロゼリアは、気にも留めていない。
「これは治癒魔法の残滓。ごく軽い、擦り傷を塞ぐ程度のもの。――はい、見て」
瓶の中で、淡い緑の光が、呼吸するように明滅している。
柔らかい光だった。見ているだけで、肩の力が抜けていくような。
「『劣化』」
ドクン。
手のひらに生まれたのは――何も、なかった。
光も、靄も、音もない。
「……不発?」
「待って」
ロゼリアが、鋭く制した。
その視線の先で。
作業台の脇に積まれていた木箱が、ぐらり、と揺れた。
中には、金属の部品がぎっしりと詰まっているはずの、大人が二人がかりで運ぶような箱だ。それが、ゆっくりと、床から離れていく。
拳ひとつ分。
膝の高さ。
腰の高さ。
ふわふわと、宙に浮いたまま、木箱はくるりと一回転した。中の部品が、かしゃん、と小さく鳴る。
「……浮いた」
「浮いたわね」
二人して、浮かぶ木箱を見上げた。
やがて、効果が切れたのか、木箱はすとんと床に落ちた。
ガシャアンッ!
中身の部品が、盛大に散らばった。
「あああっ! 歯車の仕分け、昨日やったばっかり――!」
「俺のせいじゃないだろ、今のは!」
「あなたのせいでしょう、どう考えても!」
*
三本目は、探知魔法の残滓だった。
周囲の気配を探るための、索敵用の魔法。瓶の中で、薄青い光が、波紋のように輪を広げては消えていく。
「『劣化』」
――しん、と。
音が、遠くなった。
窓の外から聞こえていた鳥の声。廊下を行き交う誰かの足音。ロゼリアが手帳をめくる、紙の擦れる音。
全部が、分厚い布の向こう側へ押しやられたように、くぐもって、遠ざかっていく。
ロゼリアの口が、何か言っている。
聞こえない。
雷夕が首を傾げると、ロゼリアは苛立たしげに手帳に何か書きつけて、こちらに突きつけた。
『しずか すぎ』
(……見りゃ分かる)
四本目。五本目。六本目。
風の残滓は、なぜか作業台の上の埃を一粒残らず床に沈めた。土の残滓は、手のひらにうっすらと汗をかかせただけだった。雷の残滓は、何も起きなかった――と思ったら、ロゼリアの髪が一房、ぴんと逆立った。
そのたびに、ロゼリアの手帳の文字が増えていく。
そのたびに、雷夕の膝が、少しずつ重くなっていく。
七本目を写したところで、さすがに目の前が、ちかちかと白んだ。
「……ちょっと、休ませてくれ」
雷夕は、作業台の脇の丸椅子に、どさりと腰を落とした。
手のひらが、冷たい。指先が、じんじんと痺れている。あの国境の戦場の後ほどではないが、体の芯から、熱が抜けていくようなだるさ。
ロゼリアは、その様子を、ちらりと横目で見た。
そして、手帳にまた何か、書き足した。
それから、作業台の引き出しを開けて、何かを取り出した。
掌ほどの、平たい硝子板だった。表面に、細い目盛りが刻まれている。
「手、出して」
「……何だそれ」
「体温を測る板。いいから」
言われるまま差し出した右手に、ロゼリアは硝子板をぴたりと押し当てた。ひやりとした感触。目盛りの上を、銀色の細い線が、じわじわと這い上がっていく。
途中で、止まった。
「……低いわね。朝、測った時より、かなり」
ロゼリアは、硝子板を光にかざして目盛りを読み、手帳に数字を書き込んだ。一本目の後。三本目の後。五本目の後。いつの間に測っていたのか、数字が縦にずらりと並んでいる。
そのどれもが、少しずつ、下がっていた。
「使うたびに、冷えていく。――今日は七回。たぶん、一日に使える回数に、限りがあるのね」
「回数、か」
「今のところは、そう見えるってだけ。――でも、おかしいのよ」
ロゼリアは、ペンの尻で、こつこつと手帳を叩いた。
「あの国境の戦場では、一回写しただけで、二回目が出なかったんでしょう? 標本なら七回いけるのに」
雷夕は、自分の手のひらを握って、開いた。
あの時の、空っぽの井戸のような感覚。白い光が三度目に膨れ上がっていくのを、ただ見ているしかなかった、あの瞬間。
「……標本と、本物の戦場の魔法とじゃ、何かが違うのかもな」
「かもしれない。回数だけじゃ、説明がつかないわね」
ロゼリアは、手帳の端に、小さく丸をつけた。たぶん、後で考える、という印だ。
「――見えてきたわ」
手帳を開いたまま、ロゼリアは作業台に腰を預けた。
「あなたの『劣化』、単純に"威力を下げて写してる"わけじゃない。写した瞬間に、"中身"そのものが、別のものにすり替わってる」
指先で、手帳の一行一行をなぞっていく。
「火が、冷気に。治癒が、浮遊に。探知が、静寂に。――火の反対は、冷たさ。探す力の反対は、隠す……音を消す力。治癒と浮遊はちょっと遠いけど、どっちも"体を軽くする"って意味では、隣り合ってる」
「反対か、隣、ってことか」
「そう。完全な法則とまでは言えない。でも、少なくとも"でたらめ"じゃない」
ロゼリアは、手帳をぱたんと閉じた。
「劣化コピー、なんて名前のせいで誤解されてるけど、これは劣化なんかじゃないわ。強いて言うなら――"転写"よ。狙った通りには決して写らない、ずれた転写。だから」
「だから?」
「写す時の意識の向け方次第で、"ずれ方"そのものを、ある程度誘導できるかもしれない」
雷夕は、思わず、丸椅子から腰を浮かせた。
「……狙って出せる、ってことか?」
「保証はできない。データが、全然足りないもの」
ロゼリアは、真っ直ぐに雷夕を見た。
「でも、可能性はある。あなたの力は、ただの博打じゃない。理屈がある。――理屈があるなら、磨ける」
磨ける。
雷夕は、自分の手のひらを見下ろした。
この三年。まともに形になったことなど一度もなく、使えるかどうかも分からないまま、腰の奥に仕舞い込んできた力。
それに、初めて――「先」という言葉が、くっついた。
(……悪くない)
悪くない。
ふと、ロゼリアが、作業台の一番端に手を伸ばした。
並んだ標本の列から、少しだけ離して置かれていた、一本の瓶。
他の瓶には、どれも小さな札が下がっている。「火炎」「治癒」「探知」――ロゼリアの几帳面な字で。
その瓶にだけ、札がなかった。
「最後に、これだけ」
差し出された瓶の中で、銀色の光が、静かに揺れていた。
他の標本とは、光り方が違う。細い糸が、幾重にも、幾重にも重なり合って、ゆっくりと円を描いている。
どこかで、見たことがある気がした。
「これ、何の――」
「いいから。見て」
ロゼリアの声が、少しだけ、硬かった。
雷夕は、それ以上は聞かずに、瓶の光を見つめた。
銀の糸。重なり合う円。
――焼き付ける。
「『劣化』」
ドクン。
手のひらに、淡い灰色の光が灯った。
頼りない、くすんだ色。それが、ふわりと手のひらから零れて、作業台の天板に、落ちた。
ぴしり。
小さな音がした。
灰色の光が落ちたところから、天板に、細い線が走っていた。
ぴしり。ぴし、ぴしぴしっ――。
線が、増える。枝分かれする。一本が二本に、二本が四本に。分厚い樫の天板の表面を、細かな亀裂が、まるで生き物のように這い広がっていく。
蜘蛛の巣の、形に。
雷夕は、息を呑んだ。
――見たことがある、どころじゃない。
昨夜、アリシアの机の上で。今朝、ロゼリアの手のひらの上で。
あの円盤の表面を走っていた罅と、同じ形だ。
亀裂は、天板の端まで届いて、ようやく止まった。
ロゼリアは、何も言わなかった。
ただ、天板の罅を、じっと見下ろしていた。指先で、そっと触れる。触れたところから、樫の木の表面が、乾いた土くれのように、ぽろりと崩れた。
彼女の顔から、さっきまでの、爛々とした光が、消えていた。
「……おい。今の、何の標本だ」
「――今日は、ここまでにしましょう」
ロゼリアは、札のない瓶を、そっと胸に抱え込んだ。
雷夕の方を、見ないまま。
「明日も、来て。続きは、明日」
その声は、小さく、震えていた。




