第8話 鍵の間
グラウエンブルクは、山の上にあった。
針葉樹の森が途切れた先。
灰色の岩肌が剥き出しになった、切り立った山の中腹に、張りつくように。
石の城だった。
いや――城、と呼ぶには、あまりに飾り気がなかった。
塔も、尖塔も、旗竿すらない。
ただ、山の岩と同じ灰色の石を、四角く、高く、隙間なく積み上げただけの、巨大な箱。
窓は、ほとんどなかった。
壁の高いところに、拳一つ分ほどの細い穴が、等間隔に並んでいるだけだった。
「――あれが」
ロゼリアが、馬の上で、小さく呟いた。
「グラウエンブルク、ね」
誰も、答えなかった。
山肌を吹き下ろしてくる風が、雪の匂いを運んできた。
*
要塞へ続く道は、一本しかなかった。
山肌を削って作られた、細い、つづら折りの坂道。
片側は、岩の壁。もう片側は、底の見えない谷。
馬一頭が、やっと通れる幅だった。
雷夕は、手枷を嵌めた両手で、手綱を握りしめていた。
(――逃げ道が、ない)
上るのも、一本。
下るのも、一本。
要塞の上から見下ろせば、この坂道の全てが、丸見えになる。
(入ったら、出られない場所――ってのは、こういうことか)
*
坂道を上りきった所に、門があった。
分厚い鉄の扉。
その上に、灰色の石の櫓が一つ、突き出している。
櫓の上から、看守が二人、こちらを見下ろしていた。
「――止まれ! 何者だ!」
リヴァールが、馬を止めた。
懐から、命令書を取り出して、高く掲げる。
「南より、護送隊! ヴァイス閣下の命により、囚人一名を引き渡しに参った!」
櫓の上の看守が、顔を見合わせた。
それから、一人が、櫓の奥へ引っ込んだ。
しばらくして、門が、軋みを上げて、ゆっくりと開き始めた。
ギィィィィィ――。
*
門の内側は、薄暗い石の通路だった。
天井が低い。
壁の松明が、湿った空気の中で、ぼんやりと煤けた光を放っている。
通路の先に、老人が一人、立っていた。
背が、高い。
白く長い髪を、首の後ろで一つに束ねている。灰色の外套。深い皺に埋もれた、落ち窪んだ目。
腰に、錆びた鍵束を下げていた。
「――グラウエンブルク典獄長、ゲルト・フォルクマーだ」
嗄れた声が、石の通路に、低く響いた。
「命令書を、検めさせてもらおう」
*
リヴァールが、馬から降りた。
命令書を、ゲルトに差し出す。
ゲルトは、それを受け取ると、通路の松明の下まで持っていって、ゆっくりと広げた。
目が、文字を追う。
一行。
一行。
一行。
関所の若い兵とは、まるで違った。
急がない。
慌てない。
一文字一文字を、まるで帳簿の数字を検めるように、確かめていく。
雷夕は、馬の上で、手枷の嵌まった手首を、膝の上で握りしめていた。
心臓の音が、うるさかった。
*
「――ヴァイス殿の、印だな」
ゲルトが、ぽつりと言った。
「そうだ」
「十日前にも、ヴァイス殿の護送隊が来た。カランドの議員を、五人」
「聞いている」
「その時の隊長は、何という名だった」
雷夕の背筋が、凍りついた。
(――知らねえよ、そんなの)
リヴァールも、知るはずがない。
ディートリヒの陣にいたわけではないのだ。
一拍。
リヴァールは、表情一つ変えずに、答えた。
「知らん」
*
ゲルトの、落ち窪んだ目が、ゆっくりと、リヴァールの顔に向いた。
「……知らん、とは」
「ヴァイス閣下の下には、護送隊が三つある。俺の隊は、カランドの国境から西を受け持っている。カランドの都の議員を運んだのは、都を受け持つ隊だ。――顔を合わせたこともない」
「三つ」
「そうだ」
リヴァールは、平然と、ゲルトの目を見返した。
「閣下は、一つの隊に、多くを任せない方だ。任せた隊が、しくじった時のために」
*
ゲルトは、しばらく、リヴァールの顔を見つめていた。
長い、長い沈黙だった。
通路の松明が、じじ、と鳴った。
やがて、ゲルトは、命令書を畳んだ。
「――なるほど」
それだけ言って、命令書を、自分の外套の内側にしまった。
リヴァールに、返さなかった。
「命令書は、預かる。帳簿に写してから、返す」
「……構わん」
「それと」
ゲルトは、通路の奥を、顎でしゃくった。
「護送隊の方々には、新月の刑が終わるまで、要塞に留まってもらう」
*
リヴァールの肩が、ほんの僅かに、動いた。
「……なぜだ」
「帝都の立会人が、三日後に来る。新月の刑は、その方の立ち会いのもとで行う。刑が終わるまでは、要塞の門は、誰も通さん。――入る者も、出る者も」
ゲルトの声は、淡々としていた。
「規則だ」
「俺の隊は、すぐに南へ戻らねばならん。閣下が――」
「ヴァイス殿の機嫌は、わしの知ったことではない」
ゲルトは、そう言って、腰の鍵束を、チャリ、と鳴らした。
「この要塞の中では、わしの規則が、全てだ」
*
関所で、あれほど効いたディートリヒの名前が。
この老人の前では、まるで、ただの埃のように、軽く払われた。
リヴァールは、しばらく黙っていた。
それから、小さく、頭を下げた。
「――承知した」
「兵舎に部屋を用意させる。――では」
ゲルトの落ち窪んだ目が、ゆっくりと、馬の上の雷夕に向いた。
「囚人を、こちらへ」
*
ケインが、雷夕の馬の手綱を引いた。
雷夕は、馬から降りた。
手枷の鎖が、ちゃり、と鳴る。
ゲルトが、近づいてきた。
背の高い老人だった。雷夕より、頭一つ分高い。
近くで見ると、その顔の皺は、まるで、灰色の石を刃物で刻んだように、深かった。
「――番号は、七十四番」
ゲルトは、雷夕を見下ろして、言った。
「名前は、聞かん。この要塞では、番号が全てだ」
雷夕は、黙って、頷いた。
(――七十四番)
自分の名前を、捨てさせられる。
それが、どういうことなのか――この瞬間、初めて、肌で分かった気がした。
*
「鍵の間へ」
ゲルトが、看守に命じた。
看守が二人、雷夕の両脇を挟んだ。
背中を押される。
通路の奥へ。地下へ続く、石の階段へ。
雷夕は、一度だけ、振り返った。
リヴァールが、通路の入り口に立っていた。
ケインが、その隣に。ロゼリアが、帝国の兵の外套の前を、ぎゅっと握りしめて。
三人とも、表情一つ、変えていなかった。
護送隊の士官と、兵の顔だった。
――ただ、ロゼリアの唇が、ほんの僅かに動いた。
声には、ならなかった。
けれど、その形は、確かに、こう言っていた。
(二回押して、一回引く)
雷夕は、前を向いた。
階段を、下りていった。
*
鍵の間は、窓のない、小さな石の部屋だった。
壁に、松明が一本。
床の真ん中に、低い石の台。
その台の上に、雷夕は座らされた。
ゲルトが、部屋に入ってきた。
扉が、閉まる。
ガチャン。
*
「――手を、出せ」
ゲルトが、言った。
雷夕は、手枷の嵌まった両手を、前に差し出した。
ゲルトは、腰の鍵束に、手をかけた。
チャリ、チャリ、チャリ。
数十本の鍵の中から、一本を、選び出す。
小さな鍵だった。
他のどの鍵よりも錆が深く、赤茶けて、ほとんど黒に近い色をしていた。
ゲルトは、その鍵の先を、雷夕の手首――手枷と手枷の間の、むき出しの肌に、そっと当てた。
冷たかった。
「――鍵を、掛ける」
*
その瞬間。
――カチリ、と。
音が、した。
耳で聞いた音ではなかった。
体の、ずっと奥の方で。
心臓よりも、もっと深い所で。
何かの錠が、閉まる音がした。
(――――)
雷夕は、息を呑んだ。
消えた。
何かが。
この三年と少し、ずっと体の奥にあった何か。
使えるのか使えないのか分からなくて、使えるようになってからも、どう化けるのか分からなくて――それでも、確かに、そこにあった何か。
『劣化』が。
消えた。
いや――消えたのではない。
閉じ込められた。
体の奥の、深い深い所に、分厚い錠を掛けられて。
*
雷夕は、自分の手のひらを見下ろした。
何も、変わっていない。
手枷の鉄の輪。
その間の、むき出しの手首。
指。手のひら。
けれど、分かった。
この手は、今――何も、写せない。
「……っ」
喉の奥が、ひくりと引き攣った。
怖い、と思った。
劣化が使えなかった三年間よりも、ずっと。
使えなかった頃は、最初から、何もなかった。
今は――あったものを、奪われたのだ。
*
「――感じたか」
ゲルトの声が、頭の上から降ってきた。
雷夕は、顔を上げた。
老人は、鍵を鍵束に戻しながら、雷夕を見下ろしていた。
「この要塞の壁の内側では、わし以外の者の魔法も、固有スキルも、使えん。――お前のような囚人には、それに加えて、鍵を掛ける。壁の外に出ても、わしが鍵を開けない限り、その錠は開かん」
雷夕の背筋が、冷たくなった。
(――壁の外に出ても)
それは、聞いていなかった。
リヴァールも、知らなかったはずだ。
「お前が何の力を持っているのかは、知らん。帳簿にも書かれていなかった。――知る必要もない。ここでは、全ての力が、等しく、無だ」
ゲルトは、腰の鍵束を、チャリ、と鳴らした。
「立て、七十四番。牢へ行く」
*
――その時。
鍵の間の、ずっと上の方。
いくつもの階段と、石の廊下と、鉄格子の向こう側で。
一人の少女が、牢の壁際で、膝を抱えたまま、目を開けていた。
(――来た)
胸の奥で、何かが、ほんの一瞬だけ、身じろぎした。
八年間、冷たい石の下に押し込められていたものが。
瞬き一つほどの間だけ、息を吹き返して――。
そして、また、押し潰された。
(……新しい人が、来た)
少女は、自分の手のひらを、じっと見下ろしていた。
細い指。汚れた爪。ささくれた指先。
その手の中に、まだ、それがあることを――確かめるように。




