第9話 七十四番
牢は、要塞の三階の、一番奥の区画にあった。
石の廊下の両側に、鉄格子の牢が、向かい合わせにずらりと並んでいる。
廊下の壁に、松明が等間隔に二本。その煤けた灯りが、鉄格子の影を、廊下の床に縞模様に落としていた。
看守が、一つの牢の扉を開けた。
ギィ、と。
「入れ」
背中を押される。
雷夕は、牢の中に、つんのめるように入った。
ガシャン。
背後で、扉が閉まった。
鍵が回る音。看守の足音が、廊下の先へ遠ざかっていく。
*
牢の中は、狭かった。
大人が二人、横になれるかどうか。
藁を詰めた粗末な寝床。木の椀が一つ。水差しが一つ。
壁の高いところに、拳一つ分ほどの細い穴が開いていた。そこから、冷たい北の風が、ひゅうひゅうと吹き込んでくる。
雷夕は、寝床の上に、どさりと腰を下ろした。
手枷は、外されていた。
代わりに、手首に、目に見えない錠が掛かっている。
(――壁の外に出ても、開かない)
ゲルトの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
(聞いてねえよ、そんなの)
雷夕は、両手で顔を覆った。
*
どれくらい、そうしていただろう。
「――新しい方、ですね」
声がした。
静かな声だった。
雷夕は、顔から手を下ろした。
隣の牢から、聞こえた。
鉄格子と鉄格子の間の、石の壁。その壁の向こう。
「……ああ」
「七十四番、と看守が言っていました」
「そうらしい」
「お名前は」
雷夕は、少しだけ迷った。
――この要塞では、番号が全てだ。
「……名前は、聞かないんじゃなかったのか」
「典獄長は、聞きません」
壁の向こうの声が、少しだけ、柔らかくなった。
「私は、聞きます」
*
雷夕は、鉄格子に近づいた。
格子の隙間から、隣の牢を覗き込もうとする。
見えなかった。
石の壁に遮られて、隣の牢の中は、角度的に覗けない。
代わりに――格子の隙間から、細い手が一本、伸びてきた。
白い手だった。
細い指。汚れた爪。ささくれた指先。
その手が、何かを、雷夕の牢の床に、そっと置いた。
木の椀だった。
中に、薄い麦粥が、半分ほど入っていた。
「――今日の夕食、もう配り終わってしまったので。私の分を、半分」
*
雷夕は、床の椀を見下ろした。
冷めかけた、薄い麦粥。
ほとんど具の入っていない、水のような粥。
「……いいのか、これ」
「私は、平気です」
「でも」
「帳簿の数が合わなくなると、典獄長に怒られますけど」
壁の向こうで、小さく、笑う気配がした。
「――毛布を一枚、余計にもらったので。その分、粥を半分、返します。それで、数は合います」
雷夕は、何と言っていいか分からなかった。
ただ、床の椀を、両手で拾い上げた。
冷たかった。
けれど、指先に、ほんの少しだけ、人の手の温もりが残っている気がした。
*
「――雷夕」
雷夕は、椀を手に持ったまま、言った。
「霧島、雷夕。……それが、名前だ」
壁の向こうで、少しの間、沈黙があった。
「キリシマ、ライト」
確かめるように、一音ずつ、ゆっくりと繰り返す。
「変わったお名前ですね」
「よく言われる」
「――エルザです」
壁の向こうの声が、言った。
「七十三番。……エルザ」
*
雷夕は、粥を一口、すすった。
薄かった。
塩の味も、ほとんどしなかった。
それでも――温かくはなかったはずなのに、喉を通っていく時、少しだけ、体の芯が温かくなった気がした。
「……エルザ、さん」
「エルザでいいです」
「エルザは、ここ、長いのか」
「八年です」
雷夕の手が、止まった。
「――八年」
「九つの時に、入りました」
淡々とした声だった。
まるで、昨日の天気の話でもするように。
*
雷夕は、椀を床に置いた。
鉄格子に、額を押しつける。
九つ。
エマと、ほとんど同じ年だ。
大きすぎる上着の袖を折り返して、天幕の前で石を並べていた、あの少女と。
その年で、こんな場所に。
八年。
「……なんで」
声が、掠れた。
「なんで、九つの子供が、こんなところに」
壁の向こうで、エルザは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「――力が、あったからです」
*
「触れた人の力を、大きくする力です」
エルザの声は、相変わらず、淡々としていた。
「九つの時、村で、熱を出した弟の手を握っていたら、弟の熱が、ものすごく上がってしまって。……弟の中の、熱と戦う力を、大きくしようとしたんです。でも、大きくなったのは、熱の方でした」
「……」
「弟は、助かりました。でも、村の人たちが、怖がって。それが、帝都の偉い人の耳に入って」
エルザは、少しだけ、言葉を切った。
「――触れた者の力を大きくする力。反乱を企てる者の手に渡れば、一人で千の兵を薙ぎ払う化け物を作る。だから、ここにいろ、と」
*
雷夕は、鉄格子を、両手で握りしめていた。
指が、白くなるほどに。
(――何だよ、それ)
熱を出した弟を、助けようとしただけだ。
それだけで、八年。
「……おかしいだろ、そんなの」
「おかしいのかどうか、私には、よく分かりません」
エルザの声は、静かだった。
「ここに来てから、外のことは、ほとんど知らないので。……先生に教わったことしか」
「先生?」
*
「――私のことだよ」
別の声が、した。
廊下を挟んだ、向かいの牢から。
雷夕は、顔を上げた。
向かいの牢の、鉄格子の向こう。
その奥の暗がりに、痩せた男が、壁にもたれて座っていた。
頬は削げ、髭は伸び放題。
囚人服の袖から覗く手首は、骨の形が浮き出るほどに細い。
けれど、その目は――。
穏やかだった。
松明の煤けた灯りの中で、その目だけが、少しも濁っていなかった。
*
「新しい人を、驚かせてしまったね」
男は、ゆっくりと身を起こして、鉄格子の前まで、這うようにして近づいてきた。
咳が、一つ、出た。
「すまない。……十八番だ。エルザに、読み書きを教えている。先生、などと呼ばれているが、ただの囚人だよ」
雷夕は、男の顔を、じっと見つめていた。
痩せている。
衰えている。
けれど、その声の、穏やかな響き。
(――剣の振り方より先に、剣を振らずに済ませる方法を考えろ)
リヴァールが、焚き火の前で、そう言った時の声。
その声の向こうに、きっと、こういう響きがあったのだ。
*
「……あんた」
雷夕は、鉄格子に顔を押しつけた。
声を、落とす。
廊下の先に、看守の姿はない。
松明の、じじ、という音だけが、静かに響いている。
「あんたの、名前は」
男は、少しだけ、首を傾げた。
「名前を聞くのかい。この要塞で」
「聞く」
「……変わった人だね」
男は、小さく笑った。
それから、穏やかに、言った。
「――ヨアヒム。ヨアヒム・ガルトナーだ」
*
雷夕の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
(――いた)
生きていた。
ここに。
目の前に。
「……ヨアヒム、さん」
声が、震えた。
「リヴァールって、名前に――覚え、あるか」
*
向かいの牢の、穏やかな目が。
――凍りついた。
ヨアヒムは、動かなかった。
息をするのさえ、忘れたように。
鉄格子を握る、骨の浮き出た指が、ゆっくりと、白くなっていった。
「……今」
掠れた声だった。
「今、何と、言った」
「リヴァール。リヴァール・クロネン」
雷夕は、一言一言、はっきりと言った。
「元、帝国の騎士団の。――あんたの、部下だった奴だ」
*
長い、長い沈黙だった。
松明の炎が、揺れた。
隣の牢で、エルザが、息を呑む気配がした。
ヨアヒムは、鉄格子を握りしめたまま、雷夕の顔を、じっと見つめていた。
その目が――少しずつ、潤んでいった。
「……リヴァールは」
声が、震えていた。
この男の声が震えるのを、雷夕は、初めて聞いた。
いや――エルザも、たぶん、初めて聞いたのだと思った。
「リヴァールは、生きて、いるのか」
「生きてる」
雷夕は、言った。
「この要塞の中に、いる。――護送隊の隊長のふりをして、俺をここに連れてきた」
*
ヨアヒムの肩が、震え始めた。
痩せた手で、顔を覆う。
その指の間から――声にならない声が、漏れた。
泣いているのか。
笑っているのか。
雷夕には、分からなかった。
たぶん、両方だった。
「……馬鹿な、ことを」
ヨアヒムが、顔を覆ったまま、掠れた声で言った。
「あの子は――本当に、昔から、馬鹿正直で」
それから、また、肩を震わせた。
*
隣の牢から、エルザの声がした。
「――先生」
静かな声だった。
けれど、その声も、少しだけ、震えていた。
「先生の、部下の方が……先生を、迎えに?」
ヨアヒムは、答えなかった。
答えられなかったのだと、雷夕には分かった。
だから、代わりに、雷夕が答えた。
「迎えに来た」
石の壁の向こうの、見えない少女に向かって。
「――ここから、出る。全員で」
*
その夜。
雷夕は、牢の寝床に横たわって、天井を見上げていた。
壁の細い穴から、月の光が、ほんの少しだけ差し込んでいた。
細い月だった。
もう、ほとんど、消えかけている。
新月まで――あと、三日。
(……劣化は、使えない)
手首の、目に見えない錠。
壁の内側では、誰の力も使えない。リヴァールの重撃も。ロゼリアの魔道具も、魔力を使うものは、きっと。
(どうやって、出る)
答えは、まだ、どこにもなかった。
向かいの牢から、ヨアヒムの浅い寝息が聞こえていた。
隣の牢から――エルザの、小さな声が聞こえた。
「……ライト、さん」
「ん」
「起きていますか」
「起きてる」
「――海って、見たことありますか」
雷夕は、天井を見上げたまま、少しだけ笑った。
「あるよ」
「……どんな音が、しましたか」
雷夕は、目を閉じた。
ずっと昔の、この世界に来る前の記憶。
家族と行った、夏の浜辺。
「――ざあ、って」
「ざあ」
「何回も、何回も。一日中、休まずに」
壁の向こうで、エルザが、小さく息を吐いた。
「……先生と、同じことを言うんですね」
その声は、少しだけ、嬉しそうだった。




