第7話 錆びた鍵束
グラウエンブルクの典獄長室には、窓がなかった。
石の壁。石の床。石の天井。
壁の一面を、天井まで届く木の棚が埋めている。棚には、革の背表紙の帳簿が、隙間なくぎっしりと並んでいた。
三十年分の、帳簿だった。
この要塞に入った全ての囚人の、番号と、名前と、罪状と、入った日と――出た日。
出た日の欄が埋まっている者は、ほとんどいなかった。
埋まっている者の大半は、その横に、小さな十字の印が添えられていた。
*
ゲルト・フォルクマーは、机に向かって、帳簿をつけていた。
羽根ペンが、紙の上を、かりかりと走る。
今日の配膳の数。
今日の水の量。
今日、熱を出した者の番号。今日、咳をした者の番号。今日、泣いた者の番号。
一つ一つ、丁寧に。
一文字の乱れもなく。
燭台の炎が、老人の落ち窪んだ目の中で、小さく揺れていた。
腰の鍵束が、羽根ペンが動くたびに、チャリ、と小さく鳴った。
*
扉が、叩かれた。
「――入れ」
若い看守が、羊皮紙を一枚持って、入ってきた。
「典獄長。南の中継所から、早馬の報せです」
ゲルトは、羽根ペンを置かずに、顔だけを上げた。
「読め」
「は。――護送隊が一隊、北上中。囚人一名。ヴァイス閣下の印のある命令書を所持。あと数日で、当要塞に到着の見込み、とのことです」
羽根ペンが、止まった。
*
「……ヴァイス殿の、印」
ゲルトは、ゆっくりと、羽根ペンをインク壺に戻した。
「十日前に、カランドの議員を五人、送ってきたばかりだな」
「は。四十一番から四十五番として、収監済みです」
「その時の命令書に、追加の護送の予定は」
「……書かれていなかった、と記憶しております」
ゲルトは、棚の帳簿の一冊を、迷いなく抜き出した。
ぱらり、ぱらりと、頁をめくる。
十日前の頁。
カランド議員五名。ヴァイス閣下の命令書による。護送隊、士官一名、兵八名。
追加の予定――記載なし。
*
老人の落ち窪んだ目が、帳簿の上の文字を、じっと見つめていた。
「囚人は、どこの者だ」
「カランドの残党、とのことです。イヴァルキアとの国境近くで捕らえた、と」
「イヴァルキア」
その名前を、ゲルトは、ゆっくりと口の中で転がした。
「……カランドの残党が、なぜ西へ逃げる。カランドから逃げるなら、南のベルリアだろう」
若い看守は、答えられなかった。
ゲルトも、答えを求めてはいなかった。
ただ、帳簿の頁の余白に、小さな字で、一行だけ書き添えた。
『――数が、合わない』
*
「到着したら、すぐに、わしのところへ通せ」
「は」
「護送隊の士官もだ。わしが、直接、命令書を検める」
「は。――典獄長」
若い看守が、少しだけ、言いにくそうに口を開いた。
「何だ」
「その……新月の刑の件ですが。帝都から、執行の立会人が、新月の三日前に到着される、と」
「知っている」
「七名の刑の準備を、そろそろ――」
「している」
ゲルトは、帳簿を閉じた。
「中庭の石畳は、昨日、全て洗わせた。刑具は、三日前に検めた。立会人の部屋は、明日、整えさせる。――七名の帳簿の、出た日の欄は、まだ空けてある」
若い看守の顔が、僅かに強張った。
「……は。失礼いたしました」
*
看守が出ていった後、ゲルトは、しばらく、閉じた帳簿の表紙を見下ろしていた。
それから、立ち上がった。
腰の鍵束が、チャリ、と鳴った。
*
チャリ、チャリ、チャリ。
廊下を、歩く。
石の廊下。湿った空気。松明の煤の匂い。
鉄格子の向こうから、いくつもの目が、こちらを見ている。
三十年、歩き続けてきた廊下だった。
ゲルトは、どの牢に、誰がいるのか、帳簿を開かなくても、全て覚えていた。
五番は、膝が悪い。
十二番は、夜になると、亡くなった妻の名を呼ぶ。
二十一番は、熱が下がった。今朝、椀を空にした。
――七十三番が、自分の分を分けていたからだ。
*
廊下の角を曲がる。
一つの牢の前で、足を止めた。
鉄格子の向こう。
牢の奥の壁際で、少女が一人、膝を抱えて座っていた。
床の埃の上に、指で何かを書いていた手が、ぴたりと止まる。
「――七十三番」
「……はい」
少女が、顔を上げた。
八年前、この牢に入れられた時、少女は九つだった。
泣きもせず、叫びもせず、ただ、大きな目で、じっとゲルトを見上げていた。
今も、同じ目だった。
*
ゲルトは、少女の牢の床に書かれた文字を、鉄格子越しに見下ろした。
『うみ』
「……海か」
少女の肩が、びくりと揺れた。
「十八番に、教わったのか」
「……はい」
ゲルトは、向かいの牢を、ちらりと見た。
痩せた男が、壁にもたれて、浅い寝息を立てていた。
咳が、時折、その胸を震わせている。
「――海など、見ることはない」
ゲルトは、少女に向き直って、静かに言った。
「お前は、ここを出ることはない。出れば、お前の力を欲しがる者が、必ず現れる。触れた者の力を大きくする力。反乱を企てる者の手に渡れば、それは、一人で千の兵を薙ぎ払う化け物を作る」
「……」
「ここにいる限り、お前の力は、誰も傷つけない。――それが、帝都の判断だ。わしは、それを守る」
*
少女は、何も言わなかった。
ただ、床の文字を、じっと見下ろしていた。
ゲルトは、しばらく、少女の頭の上を見つめていた。
それから、外套の内側から、何かを取り出した。
小さな、毛布だった。
鉄格子の隙間から、それを、牢の中へ押し込む。
「――二十一番の分だ。熱が下がったから、もう要らん。お前が使え」
少女が、目を見開いて、顔を上げた。
ゲルトは、もう背を向けていた。
「帳簿の数が合わんのは、好かん。毛布が一枚、余っている。それだけだ」
チャリ、チャリ、チャリ。
鍵束の音が、廊下の先へ、遠ざかっていった。
*
――向かいの牢で、ヨアヒムが、目を開けていた。
寝息を立てていたのは、ふりだったのだろう。
鍵束の音が、角の向こうに消えるのを待ってから、ヨアヒムは、小さく笑った。
「……相変わらずだね、あの人は」
エルザは、膝の上の毛布を、両手で握りしめていた。
古い毛布だった。
ところどころ擦り切れて、薄くなっている。それでも、エルザが今使っている毛布より、ずっと厚かった。
「――先生」
「うん」
「典獄長は、悪い人ですか」
ヨアヒムは、しばらく、答えなかった。
それから、壁にもたれ直して、天井を見上げた。
「……帳簿の数が、合っている人だよ」
*
「三十年、この要塞で、帳簿の数を合わせ続けてきた人だ。囚人が一人増えれば、椀を一つ増やす。一人減れば、椀を一つ減らす。毛布が一枚余れば、寒がっている者に回す」
ヨアヒムの声は、穏やかだった。
「囚人が刑に処されれば――帳簿の、出た日の欄を埋めて、小さな十字を添える。それも、同じ手つきでね」
エルザは、毛布を握りしめたまま、ヨアヒムを見つめていた。
「あの人は、悪い人じゃない。……良い人でもない。ただ、帳簿の数を合わせることを、三十年、やり続けてきた人だ。帝都が決めた数を、一つも違えずに」
ヨアヒムは、咳き込んだ。
ごほ、ごほ、と。
痩せた肩が、丸くなる。
「――だから、怖いんだよ。ああいう人が、一番」
*
その夜。
典獄長室の燭台は、遅くまで灯っていた。
ゲルトは、帳簿の頁の余白に書き添えた一行を、もう一度見下ろしていた。
『――数が、合わない』
ヴァイス閣下の印。
十日前には予定になかった、追加の護送。
カランドの残党が、なぜ、西で捕まる。
それから――。
新月の三日前に、帝都から来る、刑の立会人。
ゲルトは、羽根ペンを取って、もう一行、書き足した。
『護送隊、到着次第、囚人に鍵を掛ける。士官は、わしが検める』
インクが、乾くのを待つ。
腰の鍵束を、指先で、一本ずつ撫でた。
大小、数十本。
三十年分の、錆。
「――数は、合わせる」
誰もいない部屋で、老人は、静かにそう呟いた。
燭台の炎が、窓のない石の壁に、彼の影を、大きく揺らしていた。




