第5話 関所の朱
イヴァルキアの北の国境を越えたのは、王都を発って四日目の昼だった。
越えた、と言っても、そこに何か線が引かれているわけではない。
なだらかな丘の連なり。
その谷間を縫って北へ延びる、一本の街道。
両脇の林の木々が、少しずつ、背の高い針葉樹に変わっていく。
ただ――街道の先に、それが見えた時。
雷夕は、ここから先が、もう帝国なのだと知った。
*
関所だった。
街道を真横に塞ぐように、石造りの低い砦が建っていた。
両脇の崖に食い込むように積まれた石垣。その真ん中に、鉄の格子を嵌めた門が一つ。門の上の櫓には、黒地に金の紋章の旗が、風を孕んで重たげに揺れている。
門の前に、荷馬車が三台、列を作っていた。
その脇に、帝国の兵が四人。槍を持ち、荷を一つずつ検めている。
「――嵌めろ」
リヴァールが、振り返らずに言った。
雷夕は、馬の上で、両手首に手枷を嵌めた。
カチャン。
冷たい鉄の輪の重さが、手首にずしりと沈む。
(――二回押して、一回引く)
頭の中で、もう一度だけ、唱えた。
*
列が、一台ずつ、門をくぐっていく。
荷を検めていた兵の一人が、四人の方を見た。
帝国の士官の外套。
二人の兵。
手枷を嵌めた男。
兵の目が、僅かに細まった。
「――護送隊、か」
近づいてくる。
若い兵だった。頬にそばかすの残る、まだ二十にもならない顔。
それでも、槍を持つ手は、慣れていた。
リヴァールが、馬から降りた。
それから、懐から、羊皮紙を一枚、取り出した。
ディートリヒ・ヴァイスの印が押された、護送命令書。
ロゼリアが、二日かけて、日付と人数を書き換えたもの。
*
若い兵は、命令書を受け取った。
目を走らせる。
その目が、紙の下の方――朱の印の上で、止まった。
「……ヴァイス閣下の、印」
「そうだ」
「南の、カランド方面の部隊の」
「そうだ」
若い兵は、顔を上げて、リヴァールを見た。
「なぜ、カランド方面の護送隊が、西の街道から?」
雷夕の背筋が、ひやりとした。
リヴァールは、表情一つ変えなかった。
「カランドの残党が一人、西へ逃げていた。イヴァルキアとの国境の近くで捕らえた。――カランドまで戻ってから北へ上るより、ここから北へ上る方が、十日早い」
「……なるほど」
若い兵は、もう一度、命令書に目を落とした。
それから、首を傾げた。
「念のため、上に確認を――」
*
「――ヴァイス閣下は」
リヴァールの声が、僅かに、低くなった。
「確認に時間を取られるのが、お嫌いな方だ」
若い兵の手が、ぴくりと止まった。
「囚人の引き渡しが一日遅れれば、それだけ閣下の機嫌が悪くなる。機嫌が悪くなった閣下が何をなさるか、南の方の噂くらいは、ここにも届いているだろう」
若い兵の喉が、ごくりと鳴った。
カランドの町を一つ、降伏の後に焼いた将。
その噂は――どうやら、こんな西の果ての関所にまで、届いていたらしい。
「確認したいなら、すればいい。止めはしない。――だが、その時は、お前の名前を、閣下にお伝えすることになる」
*
沈黙。
雷夕は、手枷の嵌まった手首を、膝の上で握りしめていた。
(――脅してる)
リヴァールの声は、平らだった。
脅している、という響きは、どこにもない。
ただ、事実を淡々と述べているだけの声。
それが、かえって、恐ろしかった。
若い兵の目が、泳いだ。
それから――命令書を、そっと、リヴァールの手に返した。
「……失礼、いたしました」
*
「囚人の顔を、検めさせていただいても」
それでも、若い兵は、それだけは言った。
職務なのだろう。
リヴァールは、黙って頷いた。
若い兵が、雷夕の馬の脇に来た。
見上げる。
雷夕は、俯いた。
伸びた前髪の隙間から、そばかすの残る顔が見えた。
「――顔を上げろ」
雷夕は、ゆっくりと顔を上げた。
目が、合った。
若い兵は、しばらく、雷夕の顔をじっと見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「……カランドの人間か」
雷夕は、黙っていた。
答え方を、決めていなかった。
*
「――口を利くな」
ケインの声が、横から飛んだ。
低く、硬く、有無を言わせない声。
雷夕の馬の手綱を、ぐいと引く。
手枷の鎖が、ちゃり、と鳴った。
「囚人と言葉を交わすのは、規則違反だ」
ケインは、若い兵を、真っ直ぐに見下ろした。
敬礼の時と同じ、一分の歪みもない背筋。
若い兵が、慌てて、一歩下がった。
「は、はい! 失礼しました!」
*
門が、開いた。
鉄の格子が、軋みを上げて、ゆっくりと引き上げられていく。
四頭の馬が、その下をくぐった。
雷夕は、俯いたまま、手枷の重さを感じていた。
門をくぐる瞬間。
若い兵の声が、背中に、小さく聞こえた。
「……カランドも、大変だったらしいな」
独り言のようだった。
誰に聞かせるでもない。
ただ、手枷を嵌めた男の背中に向かって、ぽつりと零れただけの声。
雷夕は、振り返らなかった。
振り返れなかった。
*
関所が、見えなくなるまで。
誰も、口を開かなかった。
針葉樹の林の中を、街道が、北へうねっていく。
馬の蹄の音と、手枷の鎖の音だけが、静かな林に響いていた。
やがて、街道が大きく曲がって、関所の櫓が木々の向こうに隠れた。
そこで、ようやく。
ロゼリアが、馬の上で、大きく息を吐いた。
「――っはあああああ……」
両手で顔を覆って、馬の首に突っ伏す。
「死ぬかと思った。心臓、口から出るかと思った」
「……出てないぞ」
「出てたわよ! 半分くらい!」
*
雷夕は、手枷の内側の出っ張りを、爪で探った。
二回押して。
一回引く。
カチッ。
手枷が、外れた。
手首に、赤い痕が残っていた。
(――重かったな)
鉄の重さ、だけではなかった。
「……ケイン、さっきの、助かった」
「いえ」
ケインは、前を向いたまま、短く答えた。
それから、少しだけ、声の調子を落とした。
「――あの若い兵は、あなたを、気の毒に思っていたように見えました」
「……ああ」
「帝国の兵にも、ああいう者がいるのですね」
雷夕は、何も答えなかった。
ただ、外した手枷を、鞍の脇に吊るした。
ちゃり、と鎖が鳴った。
*
その夜。
街道を外れた林の中で、四人は野営をした。
火は、小さく焚いた。
帝国の領内だ。目立つわけには、いかない。
ぱち、ぱち、と。
小さな炎が、四人の顔を、ぼんやりと照らしていた。
「――リヴァール」
雷夕は、焚き火越しに、リヴァールを見た。
「関所で言ってたやつ。ヴァイス閣下は確認に時間を取られるのがお嫌いだ、っての。――あれ、本当なのか」
「知らん」
「……は?」
「会ったこともない男だ。どういう男か、知るわけがない」
リヴァールは、砥石で、剣の刃を研ぎながら言った。
アリシアから渡された、新しい砥石だった。
「ただ、ああいう男なら、そうだろうと思っただけだ。――あの兵も、同じことを思ったから、通した」
*
雷夕は、しばらく黙っていた。
それから、焚き火に、小枝を一本くべた。
「……お前さ」
「何だ」
「騎士団にいた頃も、ああいうこと、やってたのか」
研ぎ石の音が、止まった。
リヴァールは、刃の上の砥石を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
「――やっていた」
ぽつりと、言った。
「強硬派の将の名を出して、関所を通る。村の長を黙らせる。兵を動かす。……騎士団では、そういうやり方を、最初に教わる」
「……」
「ヨアヒム殿は、それを嫌った」
*
焚き火の炎が、揺れた。
リヴァールは、砥石を膝の上に置いて、炎を見つめていた。
「新兵の頃、ある村で、税の取り立てがあった。村の長が、払えないと言った。冬の蓄えを全部出せば、子供が飢える、と」
雷夕も、ロゼリアも、ケインも、黙って聞いていた。
「俺は、先輩の騎士に教わった通りに、強硬派の将の名を出した。払わなければ、閣下に伝える、と。――村の長は、真っ青になって、蓄えを全部出した」
研ぎ石を、握る。
「その夜、ヨアヒム殿に、呼び出された」
「……怒られたのか」
「いや」
リヴァールは、首を横に振った。
「何も言われなかった。ただ、村の蓄えを、半分、荷車に積んで、村へ返しに行けと言われた。――俺一人で。夜のうちに」
*
「返しに、行ったのか」
「行った」
リヴァールは、炎を見つめたまま、続けた。
「村の長は、俺の顔を見て、また真っ青になった。もっと取りに来たと思ったんだろう。――荷車を置いて、帰ろうとした時、村の子供が、俺の外套の裾を掴んだ」
「……」
「何も言わなかった。ただ、掴んで、俺の顔を見上げていた。……あの時の顔は、今でも、覚えている」
雷夕は、関所の若い兵の顔を、思い出していた。
カランドも、大変だったらしいな。
手枷を嵌めた男の背中に、ぽつりと零れた、あの声。
「次の朝、ヨアヒム殿は、俺に一言だけ言った」
リヴァールは、砥石を、また刃に当てた。
しゃり、と。
「――剣の振り方より先に、剣を振らずに済ませる方法を考えろ、と」
*
しゃり、しゃり、と。
研ぎ石の音が、夜の林に、規則正しく響いていた。
誰も、それ以上、何も言わなかった。
ロゼリアが、外套の裏のポケットから、干した果物を一つ取り出して、黙ってリヴァールの膝の上に置いた。
リヴァールは、研ぎ石の手を止めずに、それを見下ろした。
「……何だ」
「アリシア様の果物。――食べなさいよ。あんた、昨日から何も食べてないでしょう」
リヴァールは、しばらく、膝の上の果物を見ていた。
それから、研ぎ石を置いて、果物を手に取った。
一口、齧る。
「――甘い」
「でしょう」
ロゼリアは、満足げに頷いた。
焚き火の炎が、ぱちりと爆ぜた。




