第4話 帝国式の作法
「――遅い」
工房の裏手の空き地に、リヴァールの低い声が響いた。
「敬礼は、右の拳を左の胸に。肘は水平。指の付け根で、鎧の胸板を一度だけ打つ。音が鳴らなければ、やり直しだ」
「……鎧、着てないんだけど」
「着ているつもりで打て」
雷夕は、言われた通りに、右の拳を左の胸に当てた。
ぽす、と。
情けない音がした。
「やり直し」
「音、鳴っただろ今!」
「今のは、拳で胸を撫でた音だ。打った音ではない」
*
準備に使える日数は、二日だけだった。
二日後の夜明けに、四人は王都を発つ。
北の要塞まで、馬を替えながら急いで、十七日。新月まで、残りは三日。その三日で、中に入って、出てくる。
その二日のうちに――雷夕たちは、「帝国の護送隊」にならなければならなかった。
「――そもそもさ」
雷夕は、胸を押さえながら言った。
「俺、囚人役なんだろ。敬礼なんか要るのか」
「要らん」
「じゃあ、なんでやらされてんだよ」
「ケイン殿とロゼリア殿がやっているのに、お前だけ見ているのは、不公平だと思った」
「……お前、意外とそういうとこ気にするよな」
*
空き地の反対側では、ケインが、黙々と敬礼を繰り返していた。
右の拳が、左の胸を打つ。
ドン、と、鎧もないのに、腹に響くような音。
肘は水平。指の付け根。背筋は一分の歪みもなく、真っ直ぐに伸びている。
完璧だった。
「――ケイン殿は、問題ない」
リヴァールが、ケインの敬礼を一瞥して、短く言った。
「元から、帝国の兵よりも姿勢がいい」
「恐縮です」
ケインは、敬礼の姿勢のまま、真顔で答えた。
それから、少しだけ、首を傾げた。
「……ですが、リヴァール殿。帝国の兵は、上官に対して、もう少し肩の力を抜いているものでは」
「なぜ、そう思う」
「レイフ砦で、帝国兵の捕虜を何人か見ました。皆、イヴァルキアの兵よりも、どこか、だらりとしていた」
リヴァールが、僅かに眉を上げた。
「――よく見ている。前線の兵は、そうだ。だが、護送隊は、違う。帝都直轄の、規律にうるさい部隊だ。――ケイン殿は、そのままでいい」
「承知しました」
*
問題は、ロゼリアだった。
「――ロゼリア殿」
「なによ」
「その、腰の袋は」
ロゼリアの腰には、いつもの工具袋が、ずっしりとぶら下がっていた。
帝国の兵の外套を羽織っているのに、その下から、拡大鏡の紐やら、小さな鑢の柄やら、得体の知れない瓶の首やらが、にょきにょきと覗いている。
「工具よ」
「護送の兵は、工具など持たん」
「持ってる兵もいるかもしれないでしょう」
「いない」
「いるわよ、きっと。帝国だって広いんだから」
「――いない」
リヴァールの声が、ほんの僅かに、硬くなった。
ロゼリアは、むっとした顔で、工具袋を両手で抱え込んだ。
「これがないと、何もできないのよ、私。要塞の中で何かあった時、どうするの」
「何かあった時のために、目立って、門で止められたらどうする」
*
二人の間に、火花が散った。
雷夕は、胸を押さえたまま、二人を見比べていた。
(――これ、どっちも正しいやつだ)
しばらく睨み合った後、ロゼリアが、ふっと、表情を変えた。
「……分かった」
「分かったか」
「工具袋は、置いていく」
「それでいい」
「その代わり」
ロゼリアは、帝国の外套の前を、ばさりと開いた。
外套の裏地に、小さなポケットが、びっしりと縫い付けられていた。
十。二十。三十。
その一つ一つに、鑢や、細い棒や、小さな瓶や、丸めた布や、何かの部品が、ぎっしりと詰め込まれている。
「――全部、裏に縫い込んだわ。昨日の夜、徹夜で」
リヴァールが、黙った。
ケインが、敬礼の姿勢のまま、小さく噴き出した。
*
「……外套を脱げと言われたら、どうする」
「言われないようにして」
「重くないのか、それ」
「重いわよ。でも、慣れる」
リヴァールは、しばらく、外套の裏地を見下ろしていた。
それから――ふっと、口の端を、僅かに持ち上げた。
「……分かった。それでいい」
「でしょう?」
ロゼリアは、得意げに、外套の前を閉じた。
チャリ、と。
裏地の中で、何かの部品が、小さく鳴った。
「――あと、音が鳴らないように、布を詰めておけ」
「……はい」
*
昼過ぎ。
工房の作業台の上に、手枷が置かれていた。
鉄の輪が二つ、短い鎖で繋がれている。
帝国の護送隊が使う、標準的な形のものだと、リヴァールが言った。
雷夕は、その手枷を、じっと見下ろしていた。
「――はい、両手出して」
ロゼリアが、拡大鏡を額に押し上げて、にこやかに言った。
「……なんで、そんなに嬉しそうなんだよ」
「嬉しくないって言ってるでしょう。ほら、早く」
雷夕は、観念して、両手を差し出した。
カチャン。
冷たい鉄の輪が、手首に嵌まった。
重かった。
思っていたよりも、ずっと。
「――どう?」
「……重い」
「でしょう。本物と同じ重さにしてあるもの」
ロゼリアは、手枷の鍵穴を、指先でとんとんと叩いた。
「でもね、ここ。鍵穴の中に、細工してあるの。――内側の、この小さな出っ張りを、爪で二回押して、一回引くと」
ロゼリアが、雷夕の手首の内側で、何かを操作した。
カチッ。
手枷が、ひとりでに、開いた。
*
雷夕は、目を丸くした。
「……おお」
「鍵なしで、自分で外せる手枷。外からは、普通の手枷にしか見えない」
ロゼリアは、得意げに胸を張った。
「魔法も魔道具も使ってない、ただの仕掛けよ。歯車と、ばねと、爪で押す出っ張りだけ。――魔法を封じられる場所に行くんでしょう? なら、魔法を使わない道具じゃないと」
雷夕は、外れた手枷を、まじまじと見下ろした。
(――ロゼリアの師匠の言葉、か)
力の差は埋まらなくても、工夫の差は誰にでも埋められる。
「……すげえな、お前」
「知ってるわよ」
ロゼリアは、照れ隠しのように、そっぽを向いた。
「二回押して、一回引く。――覚えた?」
「二回押して、一回引く」
「間違えて、一回押して二回引いたら、どうなると思う?」
「……どうなるんだよ」
「余計に締まるわ」
「なんでそんな仕掛けにしたんだよ!」
「囚人が適当に弄って外れたら、怪しまれるでしょう!」
*
夕方。
城の中庭の楡の木の下で、オズワルドが、四人を待っていた。
楡の根元の若草は、また少し伸びていた。
ロゼリアが毎朝刈っているのに、追いつかないらしい。
「――アリシア様からだ」
オズワルドは、それぞれの手に、小さな包みを一つずつ載せていった。
干した果物と、堅焼きの菓子。
それから、一人一人に、別々の小さな品。
ロゼリアには、新しい拡大鏡のレンズ。
ケインには、革の手袋。
リヴァールには、砥石。
最後に、雷夕の手に載せられたのは――。
小さな、木の札だった。
*
手のひらに収まるほどの、薄い木の札。
表面に、細い字で、何かが刻まれている。
『――無事な帰りを、待っています』
前に、レイフ砦に届いた手紙と、同じ言葉だった。
ただ、今度は、紙ではなく、木に刻まれていた。
「紙は、濡れれば破れる。燃えれば灰になる。――木なら、少しは保つだろう、と」
オズワルドが、しかめ面のまま言った。
「アリシア様が、昨夜、ご自分で彫られた。……指を、三箇所ほど切られていた」
雷夕は、木の札を見下ろしていた。
刻まれた字は、少しだけ、震えていた。
ところどころ、刃が滑ったのだろう、細い傷が、字の脇に走っている。
「……アリシアは」
「公務だ」
オズワルドは、ふい、と目を逸らした。
「見送りには、来られん。――来れば、引き留めたくなるから、と」
*
雷夕は、木の札を、懐にしまった。
焦げた旗と、手紙と、杓子と、小石の、隣に。
懐が、また少し、重くなった。
「――オズワルドさん」
「何だ」
「伝えてくれ。……ちゃんと、持っていくって」
「自分で伝えろ」
オズワルドは、ぶっきらぼうに言った。
「帰ってきてからな」
*
二日後の、夜明け前。
城の裏門から、四頭の馬が、ひっそりと出ていった。
先頭を行くのは、帝国の士官の外套を羽織った、リヴァール。
その後ろに、帝国の兵の外套の、ケインとロゼリア。
最後尾の馬の上で、雷夕は、両手首に、ずしりと重い鉄の輪を嵌めていた。
まだ、王都の中だ。
本当は、まだ嵌める必要はない。
けれど、リヴァールが言ったのだ。
――慣れておけ。重さに。
「……なあ、リヴァール」
「何だ」
「これ、十七日間、ずっと嵌めてるのか」
「関所の前ではな。それ以外は、外していい」
「よかった……」
「ただし、二回押して、一回引くのを、間違えるなよ」
「――お前まで言うな!」
ロゼリアが、前の馬の上で、肩を震わせていた。
*
裏門を出て、城下を抜ける。
まだ眠っている町並み。
軒先の魔道具の街灯が、一つ、また一つと、自ら灯を落としていく。
城壁の上を、雷夕は、振り返った。
東の塔の上の、城壁の歩廊。
――人影が、あった。
胸壁に、両肘を預けて。
銀の髪が、夜明け前の風に、細く長く流れていた。
見送りには、来られない。来れば、引き留めたくなるから。
オズワルドは、そう言っていた。
だから、たぶん――あれは、見送りではないのだ。
ただ、朝は、いつもあそこにいる。
それだけのことなのだ。
雷夕は、手枷の嵌まった両手を、高く上げた。
鎖が、ちゃり、と鳴った。
城壁の上の人影が、小さく、手を上げ返した気がした。
*
四頭の馬は、北へ向かう街道を、まっすぐに駆けていった。
懐の中で、木の札が、胸に当たって、こつんと鳴った。




