第3話 新月の布告
報せは、帰都から六日目の昼に届いた。
執務室に呼ばれた時、雷夕は、工房でロゼリアの手伝いをしていた。中庭の若草を刈って、乾かして、細かく刻んで、瓶に詰める――「芽吹きの草が、刈った後も何か性質を残してるかどうか」を確かめるための作業だった。
迎えに来たのは、ケインだった。
工房の扉を開けたケインの顔を見て、雷夕は、刻みかけの草を作業台に置いた。
いつもの、真っ直ぐな顔だった。
けれど、その目の奥に、何か硬いものがあった。
「――リヴァール殿も、もう呼ばれています」
それだけで、何の話か、分かった。
*
執務室には、アリシアとオズワルドと、見慣れない男が一人いた。
商人だった。
毛皮の縁取りのついた分厚い外套。日に焼けた、四角い顔。両手の指の節が、寒さでひび割れている。
壁際に、リヴァールが立っていた。
腕を組んでいた。
いつもと同じ姿勢だった。だが、その指が、組んだ腕の上で、ほんの僅かに、外套の布地を握りしめていた。
「――揃ったわね」
アリシアが、机の上に、一枚の紙を置いた。
「こちらは、北の毛皮を扱っている商人の方。帝国の北の町まで、毎年、買い付けに行っている。――この方が、北の町の広場に貼り出されていた布告を、写して持ってきてくださったの」
*
雷夕は、机の上の紙を覗き込んだ。
粗い紙に、急いで書き写したらしい、乱れた文字。
『――帝都の命により、布告す。
和平派と内通し、帝国の秩序を乱さんとした者ども、グラウエンブルクにて収監中のところ、次の新月の朝、刑を執行する。
以下、その名を記し、帝国に弓引く者の末路を、広く知らしめるものなり』
その下に、名前が、七つ並んでいた。
雷夕の目が、上から、一つずつ、名前をなぞっていく。
四つ目で、止まった。
『ヨアヒム・ガルトナー』
*
「グラウエンブルク、と書いてある」
商人が、低い声で言った。
「北の連中は、その名前を口にするのも嫌がる。帝国の一番北の、山の上の、灰色の石の要塞だ。強硬派のお偉方が、目障りな奴を放り込む場所だと」
「――次の新月は」
雷夕は、顔を上げた。
「いつだ」
「二十と二日後」
答えたのは、リヴァールだった。
壁際で、腕を組んだまま。
「布告が貼り出されたのは、十日ほど前だそうだ。――この方が、急いで山を下りてきてくださった」
商人が、肩をすくめた。
「領主様に、北で何か聞いたら知らせてくれと頼まれてたもんでね。こいつは、ただ事じゃないと思った」
*
アリシアが、商人に深く頭を下げて、礼を言った。
オズワルドが、商人を扉の外まで送っていく。
扉が閉まる。
執務室に、四人と、アリシアだけが残った。
沈黙。
最初に口を開いたのは、リヴァールだった。
「――領主殿」
壁から背を離して、机の前に進み出る。
「暇を、もらいたい」
*
アリシアは、リヴァールの顔を、まっすぐに見上げた。
「どこへ」
「北だ」
「一人で?」
「一人で」
リヴァールは、淡々と言った。
「地図はある。道は分かっている。二十二日あれば、間に合う。――間に合わせる」
「間に合って、どうするの」
「中に入る」
「どうやって」
「……考える」
アリシアの眉が、ぴくりと動いた。
「考えていないのね」
「考えながら行く」
「――リヴァール」
アリシアの声が、低くなった。
「それは、助けに行く、とは言わないわ。死にに行く、と言うの」
*
リヴァールは、何も言わなかった。
言い返せなかったのではないと、雷夕には分かった。
言い返す必要が、ないと思っているのだ。
死にに行く。それでも、行く。
それが、この男の、もう決めてしまった答えだった。
(――ふざけんなよ)
雷夕は、一歩、前に出た。
「――リヴァール」
リヴァールが、横目で雷夕を見た。
「俺も、行く」
「断る」
「断られても、行く」
「俺一人の用件だ。お前を巻き込む理由がない」
「理由ならある」
雷夕は、リヴァールの目を、まっすぐに見返した。
「お前が一人で行ったら、連携が乱れる」
*
執務室の空気が、一瞬、止まった。
リヴァールの目が、ほんの僅かに、見開かれた。
「……それは、俺の台詞だ」
「知ってる。六回目」
「数え方が、雑だと言っただろう」
「今のは、俺が言ったから、ノーカンじゃない。お前の台詞を、俺が使った。――だから、カウントする」
リヴァールは、しばらく、雷夕の顔を見つめていた。
それから、ゆっくりと、ロゼリアの方を見た。
ロゼリアは、腰に手を当てて、呆れたように溜め息をついた。
「――一人で灰色の石の要塞に乗り込むって、どういう道具を持っていくつもりだったの? 剣一本? 馬鹿じゃないの」
リヴァールの目が、今度は、ケインの方を向いた。
ケインは、背筋を伸ばしたまま、アリシアの方を見ていた。
「お嬢様のお許しがあれば、私も」
*
リヴァールは、長い間、黙っていた。
組んでいた腕を、ほどく。
その手が、外套の上から、懐を押さえた。焼け焦げた紙の束と、畳んだ地図のある場所を。
「……お前たちは」
声が、少しだけ、掠れていた。
「俺の上官のことなど、何も知らんだろう。会ったこともない男のために、帝国の奥まで行く理由が、どこにある」
「あるよ」
雷夕は、言った。
「剣の振り方より先に、剣を振らずに済ませる方法を考えろ、って言う人なんだろ。――会ってみたいだろ、そんな人。帝国の騎士団に」
リヴァールは、何も言わなかった。
ただ、目を伏せた。
*
「――アリシア」
雷夕は、机の向こうのアリシアに向き直った。
アリシアは、両手を机の上で組んだまま、四人の顔を、順番に見ていた。
その目は、領主の目だった。
「イヴァルキアとして、兵は出せないわ」
最初に、そう言った。
「北の要塞は、帝国の奥。ベルリアの時とは違う。使者の護衛という名目も立たない。イヴァルキアの人間が、帝国の監獄を破ったと知られれば――それは、そのまま、戦の口実になる」
「分かってる」
「だから」
アリシアは、一度、目を閉じた。
開いた。
「――今から言うことは、イヴァルキア領主としてではなく、聞いて」
*
アリシアは、机の引き出しを開けた。
中から、小さな革袋を取り出す。
机の上に置くと、中で、硬貨が擦れ合う音がした。
「これは、私個人のお金。……レーヴァルト家の公の金庫からではなく、私が、自分の衣装を仕立てるために貯めていたもの」
ロゼリアが、小さく息を呑んだ。
「四人に、休暇を与えます。期間は、ひと月半。行き先は、聞かない。何をしに行くのかも、聞かない。――もし、何かあっても、イヴァルキアは、何も知らない」
アリシアの声は、平らだった。
平らで、静かで――一言一言に、ひどく重いものが乗っていた。
「それが、私にできる、精一杯よ」
*
リヴァールが、机の上の革袋を見下ろしていた。
「……領主殿」
「アリシアでいいと、言ったでしょう」
「――アリシア殿」
リヴァールは、机の前で、膝をついた。
右手を、胸に当てる。
頭を、深く、深く垂れる。
ベルリアへ発つ前、この執務室で見たのと同じ、騎士の礼だった。
「必ず、返す」
「返さなくていいわ」
「返す。――全員、生きて連れて帰ることで」
アリシアは、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、唇を噛んだ。
*
扉が開いて、オズワルドが戻ってきた。
執務室の空気と、机の上の革袋と、膝をついたリヴァールとを見て――老人は、全てを察したようだった。
何も言わずに、机の脇の自分の椅子に座る。
それから、懐から、もう一つの革袋を取り出して、アリシアの革袋の隣に、どさりと置いた。
アリシアの革袋より、少し大きかった。
「――オズワルド?」
「わしの、酒代だ」
老人は、しかめ面のまま、腕を組んだ。
「どうせ、次の宴まで飲む機会もない。――宴を開くなら、全員揃っている方がよかろう」
雷夕は、思わず笑いそうになって、堪えた。
ロゼリアが、横を向いて、鼻を啜っていた。
*
「――それで、中にはどうやって入るの」
ロゼリアが、気を取り直したように、机の上に身を乗り出した。
「剣一本で正面からっていうのは、却下よ」
リヴァールが、膝をついたまま、顔を上げた。
その目に、ようやく、いつもの平らな光が戻っていた。
「……一つ、考えがある」
懐から、紙の束を取り出す。
焼け焦げた束ではなかった。
ベルリアで、ディートリヒの天幕の鉄の箱から持ち出した、羊皮紙の束。
その中の一枚を、机の上に広げた。
帝国の紋章。ディートリヒ・ヴァイスの印。
『護送命令書』。
「あの将は、カランドの議員を北へ送る時に、この書面を使った。――同じ書面で、もう一度、囚人を北へ送る」
*
雷夕は、命令書を覗き込んだ。
「……誰を」
リヴァールが、雷夕を見た。
ロゼリアが、雷夕を見た。
ケインが、雷夕を見た。
アリシアまでもが、雷夕を見た。
一拍。
「――俺かよ」
「お前だ」
リヴァールは、平然と言った。
「俺が護送隊の隊長。ケイン殿とロゼリア殿が護送の兵。お前が、護送される囚人。――帝国の護送隊になりすまして、正面から、門をくぐる」
*
「待て待て待て」
雷夕は、両手を上げた。
「俺、劣化の傭兵って、帝国でも知られてるんだろ。バルトレンが通達回したって、アルブレヒトのとこの兵も知ってたし」
「顔までは知られていない。名前も、書面には書かん。カランドの残党の一人、とでも書いておく」
「でも、ディートリヒはもう死んでるだろ。その印の書面なんか――」
「北には、まだ届いていない」
リヴァールは、地図の上の、北の端の赤い印を指で叩いた。
「ベルリアから、北の要塞まで。帝国の早馬でも、ひと月はかかる。ましてや、強硬派の将が辺境で死んだという報せを、帝都がわざわざ北の監獄にまで回すとは思えん。――あの印は、まだ、生きている」
*
ロゼリアが、命令書を手に取って、拡大鏡を額から下ろした。
紙を、灯りに透かす。
印の朱の滲み。紙の繊維。インクの色。
「……日付と、囚人の人数のところだけ、書き換えればいいわね。インクは、近い色を作れる。紙の擦れは、少し汚して誤魔化す」
「できるか」
「できるわよ。誰に聞いてるの」
ロゼリアは、にやりと笑った。
それから、雷夕の方を向いて、さらに深く、にやりと笑った。
「――囚人さん。手枷の寸法、測らせてもらうわね」
「……なんで嬉しそうなんだよ」
「嬉しくないわよ。全然」
「顔が嬉しそうだって言ってんだよ!」
*
その夜。
執務室の扉が閉まって、四人が出ていった後。
アリシアは、一人、机に向かっていた。
机の上には、もう、何もなかった。
革袋も、命令書も、布告の写しも。
ランプの灯りだけが、静かに揺れていた。
アリシアは、両手を、机の上で組んだ。
その指が、少しずつ、白くなっていく。
――ひと月半。
帝国の、一番奥。
灰色の石の要塞。
何かあっても、イヴァルキアは、何も知らない。
自分で、そう言った。
(……雷夕)
組んだ指に、額を押しつける。
「――囚人役なんて」
誰もいない執務室で、小さく、呟いた。
「本当に、捕まったら、どうするのよ」
ランプの芯が、じじ、と鳴った。
答える者は、誰もいなかった。




