第2話 鍋を買う
翌朝、中庭で、オズワルドが仁王立ちしていた。
楡の木の根元。
そこに、昨日までなかったものが、生えていた。
若草だった。
膝の高さほどの、瑞々しい緑の草が、楡の根元をぐるりと取り囲むように、こんもりと茂っている。その間から、細い蔓が這い出し、小さな白い花が、ぽつぽつと咲いていた。
――一晩で、だった。
「……誰だ」
オズワルドの声が、地の底から響くように低かった。
「誰が、中庭を掘った」
*
中庭の隅で、ロゼリアが、そっと柱の陰に隠れようとしていた。
その腕を、雷夕が掴んだ。
「――お前だろ」
「しっ! 声が大きい!」
「昨日の夜、見てたぞ。窓から」
「見てたなら止めなさいよ!」
「止めても植えるだろ、お前」
「植えるわよ!」
「――ガルシア殿」
背後から、氷のような声がした。
二人が、ぎぎぎ、と首を回すと、オズワルドが、すぐ後ろに立っていた。
しかめ面。鋭い目。腕を組んだまま、ロゼリアを見下ろしている。
「……おはようございます、オズワルド様」
「おはよう。――あれは、何だ」
*
ロゼリアは、観念したように、肩を落とした。
「ベルリアで、雷夕の劣化が化けた草です。焦土っていう固有スキルを写したら、芽吹きになって。その草が、イヴァルキアの土でも育つかどうか、確かめたくて」
「工房の前ではなく、中庭に植えた理由は」
「……工房の前の土が、硬すぎて」
「中庭の土は、先代が南から取り寄せた、上等な土だ」
「知ってます。だから、植えました」
オズワルドの眉間の皺が、一本、増えた。
それから、楡の根元の若草を、もう一度見た。
一晩で、膝の高さまで伸びた草。
朝露を抱えて、きらきらと光っている。
白い花が、一輪、風に揺れた。
「……一晩で、これか」
「はい」
「――止まるのか」
「分かりません」
ロゼリアは、正直に答えた。
「ベルリアでは、五日経っても、まだ少しずつ伸びてました」
*
オズワルドは、しばらく黙っていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「楡の根を、絞め殺さんようにしておけ。――あの木は、アリシア様が幼い頃、寝台の窓から毎日眺めておられた木だ」
「……はい」
「毎朝、測れ。伸びすぎたら、刈れ。刈った分は、工房へ持っていけ」
「――はい!」
ロゼリアの顔が、ぱっと明るくなった。
オズワルドは、踵を返して、城の中へ歩いていった。
その背中に、雷夕は、思わず声をかけた。
「……いいのか、オズワルドさん」
老人は、振り返らずに答えた。
「劣化の記念碑なのだろう。――傭兵殿が、ベルリアで何を守ってきたのか、毎朝目に入る場所にあって、悪いことはない」
それだけ言って、扉の向こうへ消えた。
ロゼリアが、雷夕の脇腹を、肘で小突いた。
「……記念碑って、言っちゃった」
「お前が言いふらしたんだろ!」
*
午前中は、執務室での報告だった。
四人揃って、アリシアとオズワルドの前に並んだ。
雷夕が昨夜話したことを、今度は四人で、順番に、もう一度。
ロゼリアの帳面が、何度も開かれた。ケインの報告は、簡潔で正確だった。リヴァールは、最後に、懐からあの地図を取り出した。
広げられた地図の上の、北の端の、赤い印。
アリシアとオズワルドは、長い間、それを見つめていた。
「――この話は、もう少し、時間をちょうだい」
アリシアは、地図から目を上げて、リヴァールに言った。
「あなたが、すぐには行かないつもりなのは、分かってる。でも、行く時が来たら、その時は――」
「その時は、俺一人の用件だ」
「その時に、決めるわ」
アリシアは、きっぱりと言った。
リヴァールは、何か言い返そうとして――口を閉じた。
それから、小さく、頭を下げた。
*
昼過ぎ。
雷夕は、一人で、市場に出かけた。
用事は、一つだった。
(――鍋、買わなきゃな)
懐の中の、使い込まれた木の杓子。
ガストンに渡された、傭兵団の鍋の杓子。
鍋がないと、意味がない。
*
イヴァルキアの市場は、相変わらず賑やかだった。
石畳の通りの両脇に、ずらりと並ぶ露店と店舗。
農具を扱う店。装身具を扱う店。子供の玩具を並べた店。薬草と薬瓶を山と積んだ店。
その一角に、厨房道具を扱う店が、何軒か軒を連ねていた。
雷夕は、一番手前の店の前で、足を止めた。
軒先に、大小さまざまな鍋が、ずらりと吊るされていた。
銅の鍋。鉄の鍋。素焼きの土鍋。
片手で持てる小さなものから、子供が一人すっぽり入りそうな大きなものまで。
その中に――妙なものが、混じっていた。
鍋の底に、細かな紋様が刻まれている。
取っ手の付け根に、小さな水晶が嵌め込まれている。
(――魔道具の、鍋?)
*
「――お目が高い」
店の奥から、声がした。
小柄な老婆が、前掛けで手を拭きながら、のそのそと出てきた。
白髪を手拭いで包み、腰には、大きな木の匙を何本も、刀のように差している。
「そいつは、焦げ付かずの鍋だよ。底に、熱を均す紋様が刻んである。水晶に指を当てりゃ、火加減が勝手に一定になる」
「……焦げ付かない?」
「焦げ付かない。どんな下手くそが炊いてもね」
老婆は、にやりと笑った。
「粥でも、煮込みでも。底にこびりつかないから、鍋を洗うのも楽ちんさ」
雷夕は、その鍋を、まじまじと見つめた。
三年間、毎朝、毎晩。
焚き火の上で、焦げ付かないように、杓子で鍋の底を必死に掻き回し続けた日々。
それが――指一本で、要らなくなる。
(――イヴァルキア、すげえな)
この国に来て、もう、ずいぶん経つ。
魔道具には、とっくに驚かなくなったつもりだった。
それでも、これには、素直に感心した。
*
雷夕は、焦げ付かずの鍋を、手に取った。
取っ手を握る。
ずしりと、程よい重さ。
それから――少し考えて、その鍋を、元の場所に戻した。
老婆が、片眉を上げた。
「おや。買わないのかい」
「いや、買う」
雷夕は、その隣に吊るされていた、何の変哲もない、鉄の大鍋を指差した。
紋様も、水晶も、何もない。
ただの、黒い鉄の鍋。ベルリアの傭兵団の野営地で使っていたのと、ほとんど同じ形の。
「――こっちを」
*
老婆は、怪訝そうに、雷夕と鉄の鍋とを見比べた。
「焦げ付くよ、それは」
「知ってる」
「底を、ずっと掻き回してなきゃならないよ」
「知ってる」
雷夕は、懐から、木の杓子を取り出した。
使い込まれて、黒光りする柄。
先端の丸い部分の、少しだけ欠けた縁。
「こいつで、掻き回すんだ。――焦げ付かない鍋じゃ、こいつの出番がなくなるだろ」
老婆は、しばらく、杓子を見つめていた。
それから、顔中の皺を寄せて、笑った。
「――なるほどねえ。そいつの相棒を探してたのかい」
「そういうこと」
「なら、売ってやるよ。そいつに似合うのを」
老婆は、鉄の大鍋を、軒先から外してくれた。
*
両腕に大鍋を抱えて、市場の通りを歩く。
重い。
けれど、悪くない重さだった。
ハンナの店の前を通りかかると、店先で、リタが大きな樽を転がしていた。
「――あっ、雷夕さん! お帰りなさーい!」
樽を放り出して、手を振ってくる。
樽が、坂道を、ごろごろと転がり始めた。
「リタ、樽!」
「えっ? ――あーっ!」
リタが、慌てて樽を追いかけていく。
その背中に、店の奥から、ハンナの怒鳴り声が飛んだ。
「リタ! また粗相か!」
「すみませーん!」
(――帰ってきたなあ)
雷夕は、大鍋を抱えたまま、一人で、笑った。
*
その夜。
ハンナの店の厨房を、少しだけ借りた。
新しい鉄の大鍋に、麦と、干し肉の切れ端と、イヴァルキアの香草を。
それから、ベルリアの南の村の人たちが礼にとくれた、干した魚を、少しだけ。
杓子で、底を掻き回す。
焦げ付かないように。
ゆっくりと、ずっと。
湯気が、立ち上った。
麦の匂い。香草の匂い。それから、ほんの少しだけ、海の匂い。
*
店の長卓に、いつもの顔が揃っていた。
ロゼリア。ケイン。リヴァール。
ハンナと、リタと、ミラと、ネルバと、フィオナ。
それから――。
「……なぜ、私まで」
オズワルドが、卓の端で、しかめ面をしていた。
「アリシア様に、言われたのだ。傭兵殿が麦粥を炊くから、味見をしてこい、と」
「アリシアは?」
「公務だ。――後で、感想を報告しろとのことだ」
雷夕は、笑いを噛み殺して、オズワルドの椀に、一番具の多いところをすくってやった。
*
全員の椀に、麦粥が行き渡った。
ロゼリアが、一口すすって、目を丸くした。
「――あ、美味しい」
「だろ」
「魚、入れたの?」
「ベルリアの南の村の人たちに、もらった」
ケインが、無言で、二口目、三口目と匙を運んでいる。
リヴァールは、黙って椀を傾けていた。その椀は、気づけば、もう空になっていた。
フィオナが、丁寧な口調で、悪戯っぽく微笑んだ。
「霧島様は、お料理もなさるのですね。存じ上げませんでした」
「飯炊きだったんだ、昔」
「まあ。では、うちの厨房に雇われては? リタより、よほど粗相が少なそうです」
「フィオナさん、ひどいー!」
店中に、笑い声が上がった。
*
オズワルドは、黙って、麦粥を啜っていた。
一口。二口。
やがて、椀を卓の上に置いて、ぼそりと言った。
「――アリシア様に、何と報告すればいい」
「美味かった、でいいだろ」
「わしは、そういう軽々しい言葉は使わん」
「じゃあ、何て言うんだよ」
オズワルドは、しばらく、空になった椀を見下ろしていた。
それから、咳払いを一つ落とした。
「……及第点、と」
雷夕は、吹き出した。
「またそれかよ!」
「最大級だ。文句を言うな」
ロゼリアが、隣で、腹を抱えて笑っていた。
*
鍋の底が見えた頃、雷夕は、木の杓子を、鍋の縁にかけた。
ふと、懐に手を入れる。
焦げた旗。
アリシアの手紙。
すべすべした、白い小石。
一個で、帰れるでしょ――と、エマは言った。
(――帰ってきたよ、ちゃんと)
雷夕は、白い小石を、指先でそっと撫でた。
それから、空になった鍋に、水を張った。
鍋は、少しだけ、底が焦げ付いていた。
それでいい、と思った。




