第1話 夜更けの執務室
王都の南門をくぐったのは、夜も更けた頃だった。
予定より、半日遅れていた。
最後の峠の手前で、荷馬車の車軸が一本、また歪んだのだ。ベルリアの鍛冶屋が夜通し打ち直してくれた、あの車軸だった。
「――打ち直した所とは、別の所が歪みましたな」
トマスが、のんびりとそう言って、隊の者たちと一緒に、街道の脇で半日かけて車軸を直した。
結果、凱旋の群衆も、ハンナの平手打ちも、なかった。
南門の門番が、松明を掲げて、眠そうな目で四人の顔を確かめただけだった。
「……あ、劣化の」
「ああ」
「お、お帰りなさい」
「ただいま」
それで、おしまいだった。
(――静かな帰りってのも、悪くないな)
雷夕は、夜の石畳に響く蹄の音を聞きながら、小さく欠伸をした。
*
城の中庭は、真っ暗だった。
楡の木の影が、篝火の灯りの中で、ゆらゆらと揺れている。
衛兵が二人、門の脇で、槍に寄りかかってうつらうつらしていた。
雷夕たちが馬を降りると、一人がはっと目を覚まして、慌てて背筋を伸ばした。
「――お、お帰りなさいませ! す、すぐにお嬢様に――いえ、領主様に――」
「いい、いい。もう遅いだろ。報告は明日の朝に――」
「いえ、それが」
衛兵は、城の上の方を、ちらりと見上げた。
雷夕も、つられて見上げた。
城の二階の、一番奥の窓。
そこだけ、灯りが点いていた。
*
「……まだ、起きてるのか」
「このところ、毎晩です」
衛兵が、声を落とした。
「トマス殿の隊商が、南の道のどこかで足止めを食っているらしい、という報せが昼に入りまして。それから、ずっと」
雷夕は、黙って、その窓を見上げていた。
隣で、ロゼリアが、小さく溜め息をついた。
「――行ってきなさいよ」
「は?」
「親書の返事、預かってるのはあんたでしょう。使者の仕事は、親書を届けるまで、よ。まだ終わってないわ」
「明日でいいだろ」
「明日まで、あの窓の灯りを点けさせとくつもり?」
ぐうの音も出なかった。
ケインが、無言で、雷夕の馬の手綱を受け取った。
リヴァールは、もう、厩の方へ歩き出していた。
*
執務室の扉の前で、雷夕は、一度だけ深呼吸をした。
叩く。
コン、コン。
一拍。
「――入って」
扉の向こうから、声がした。
眠そうな声ではなかった。
*
執務室は、ランプ一つの灯りで、薄暗かった。
机の上に、書類の山。
その向こうで、アリシアが、羽根ペンを持ったまま、顔を上げていた。
上質な衣装ではなかった。
生成りの簡素な上衣に、肩から薄手の外套を一枚。銀の髪は、寝る前に梳かしたのか、背中で緩く一つに編まれている。
目の下に、うっすらと、隈があった。
「――雷夕」
羽根ペンが、机の上に、ことりと置かれた。
*
「夜分に、悪い」
雷夕は、懐から、一通の書簡を取り出した。
金の麦の穂の封蝋。
机の前まで歩み寄り、両手で差し出す。
「ベルリア領主、フェリクス殿より。――イヴァルキアとの同盟を、謹んでお受けする、と」
アリシアは、しばらく、その書簡を見下ろしていた。
それから、両手で、受け取った。
封蝋の金の麦の穂を、指の腹で、そっと撫でる。
レーヴァルト家の紋章を受け取ったフェリクスが、同じように撫でていたのを、雷夕は思い出した。
「……確かに」
アリシアは、書簡を、机の上に置いた。
それから、立ち上がった。
*
机を回り込んで、雷夕の前に立つ。
ランプの灯りの中で、アリシアの目が、雷夕の顔を、上から下まで、ゆっくりとなぞっていった。
頬の、薄くなりかけた火傷の痕。
少し伸びた髪。
旅の埃をかぶった外套。
「――怪我は」
「ない。……いや、ちょっと焦げたくらい」
「焦げた」
「焦げた。かすっただけ」
「かすっただけで、焦げるの?」
「焦げるんだよ、相手が相手だったから」
アリシアは、じっと、雷夕の頬の火傷の痕を見つめていた。
それから――ふっと、息を吐いた。
「……前にも、こういう会話をした気がするわ」
「した。中庭で」
「そうね」
アリシアは、小さく笑った。
目の下の隈が、笑うと、少しだけ薄くなったように見えた。
*
「――座って」
アリシアに促されて、雷夕は、机の前の椅子に腰を下ろした。
アリシアも、自分の椅子に戻る。
けれど、羽根ペンには、手を伸ばさなかった。
「全部、聞かせて。――明日の朝、改めて皆で報告してもらうけど。その前に、あなたの口から」
雷夕は、少し迷った。
全部、と言われても、どこから話せばいいのか。
「……長くなるぞ」
「構わないわ。どうせ、今夜はもう眠れないもの」
*
雷夕は、話した。
トマスの隊商での十日の旅。
峠から見下ろしたベルリア。
城門で、飯炊きの坊主と呼ばれたこと。
詰所の扉の前で、ガストンに「生きてるか」と言われたこと。
十七歳の領主。
降伏を迫る重臣たち。
難民の天幕の前に並べられた、小さな石。
北門を舐め上げた炎。
城壁の上で燃えた、四人の自警団。
荷馬車の上で叫んだ、少年の声。
母親の声に、槍を捨てて駆けてきた若者。
それから――焼けた土に、手を置いたこと。
アリシアは、一度も、口を挟まなかった。
ただ、ランプの灯りの中で、じっと、雷夕の顔を見つめていた。
*
「――芽吹いた?」
最後の話を聞いて、アリシアが、ようやく口を開いた。
「焦土が、草に?」
「ああ。……俺も、よく分かってない。狙ってないから」
「ロゼリアは、何て」
「呆れてた。あと、草を根っこごと持って帰ってきた。工房の前に植えるって」
「植えるの?」
「劣化の記念碑だってさ」
アリシアが、ぷっ、と噴き出した。
口元を手で押さえて、肩を震わせる。
「……ご、ごめんなさい。でも、記念碑って」
「笑うなよ。俺、止めたんだからな」
「止まらなかったのね」
「止まるわけないだろ、ロゼリアだぞ」
アリシアは、しばらく笑っていた。
それから、目尻を指で拭って、ふう、と息を吐いた。
「――よかった」
小さな声だった。
「無事に、帰ってきてくれて」
*
雷夕は、何と返せばいいか分からなくて、頭を掻いた。
「……あ、そうだ。伝言がある」
「伝言?」
「フェリクス殿から。書簡には書けなかったからって、口で」
雷夕は、少しだけ、背筋を伸ばした。
「いつか、アリシア殿にお会いしてみたいです。国を空にして飛び出すのは、例外にしなければいけないそうなので――いつか、ちゃんと、使者を立てて。……だってさ」
アリシアの目が、丸くなった。
「――国を空にして飛び出すのは、例外」
「ああ」
「……雷夕。あなた、その話、フェリクス殿にしたの?」
「した」
「どこまで」
雷夕は、目を逸らした。
「……国境の街道で、帝国の幹部の魔法から、銀の髪の女の人に庇われた、とか。腕から血を流しながら退かなかった、とか。あれは例外だったって後で聞いた、とか」
アリシアの頬が、ランプの灯りの中で、見る間に赤くなっていった。
「――なんで、そんな話を」
「聞かれたんだよ。なんで他国のために戦えるのかって。……それに答えたら、そうなった」
「…………」
「あと、ガストンのおっさんにも、宴の時に三回くらい話したらしい。酔ってて覚えてないけど」
「三回!?」
アリシアが、両手で顔を覆った。
*
しばらく、執務室に、沈黙が落ちた。
ランプの芯が、じじ、と小さく鳴る。
アリシアは、両手で顔を覆ったまま、指の隙間から、くぐもった声を漏らした。
「……ベルリアで、私、どういう人だと思われてるの」
「たぶん、すごい人」
「すごい人」
「見ず知らずの傭兵のために、帝国の幹部の前に飛び出した、すごい領主様」
「――やめて」
「あと、フェリクス殿は、たぶん、ちょっと憧れてる」
「やめてってば!」
アリシアが、机の上の羽根ペンを、雷夕に向かって投げつけた。
羽根ペンは、ひらひらと宙を舞って、雷夕の膝の上に、ぽとりと落ちた。
雷夕は、それを拾い上げて、堪えきれずに笑った。
*
「――それと、もう一つ」
笑いが収まってから、雷夕は、少しだけ声を落とした。
アリシアも、顔から手を下ろした。
雷夕の声の調子が変わったのに、気づいたのだろう。
「リヴァールが、向こうで手に入れたものがある。……明日、本人から話すと思うけど」
「何を」
「地図だ。帝国の強硬派が、政敵を北へ送る時に使う道の。――北の要塞の場所が、分かった」
アリシアの目が、すっと細まった。
領主の目だった。
「……そう」
それだけ言って、しばらく、ランプの炎を見つめていた。
「明日、聞くわ。リヴァールから、直接」
「ああ」
*
雷夕は、立ち上がった。
「じゃあ、俺はこれで。――あ、羽根ペン」
膝の上に乗せたままだった羽根ペンを、机の上に戻す。
アリシアは、それを受け取らなかった。
代わりに、雷夕の顔を、見上げた。
「雷夕」
「ん」
一拍。
アリシアは、何かを言いかけて――少しだけ、迷うように、唇を結んだ。
それから、ほどいた。
「――おかえりなさい」
前と、同じ言葉だった。
けれど、前よりも、少しだけ、声が柔らかかった。
「……ただいま」
雷夕も、前と同じ言葉で返した。
*
扉を閉めて、廊下に出る。
振り返ると、扉の下の隙間から、まだ、ランプの灯りが漏れていた。
(――寝ろよ、早く)
心の中でそう呟いてから、雷夕は、自分の部屋へ向かって歩き出した。
廊下の窓から、中庭の楡の木が見えた。
その木の下に、何か、小さな影が動いていた。
目を凝らすと、ロゼリアだった。
月明かりの下で、しゃがみ込んで、地面を掘っている。
傍らに、布に包まれた、若草の束。
(――もう植えてんのかよ)
雷夕は、窓枠に額をつけて、声を殺して笑った。




