プロローグ 鍵の音
――チャリ、チャリ、チャリ。
その音が聞こえると、牢の空気が変わる。
石の床に横たわっていた者が、身を起こす。
壁にもたれて眠っていた者が、目を開ける。
独り言を呟き続けていた者が、口を噤む。
誰も、何も言わない。
ただ、廊下の向こうの暗がりから、ゆっくりと近づいてくるその音に、牢という牢の囚人たちが、一斉に耳を澄ませる。
チャリ、チャリ、チャリ。
錆びた鉄と鉄が、擦れ合う音。
鍵束の、音だった。
*
エルザは、牢の奥の壁際で、膝を抱えていた。
藁を詰めた粗末な寝床。木の椀が一つ。水差しが一つ。
壁の高いところに、拳一つ分ほどの細い明かり取りの穴が開いている。そこから差し込む光は、一日のうち、ほんの短い間だけ、床の上に細長い白い線を描く。
それが、エルザの知っている、外の全てだった。
八年前、九つの時にこの牢に入れられてから――ずっと。
*
チャリ、チャリ。
音が、止まった。
エルザの牢の、鉄格子の前で。
廊下の暗がりの中に、老人が一人、立っていた。
背が、高い。
腰は少し曲がっているが、それでも、鉄格子の上の横木に頭がつきそうなほどだった。白く長い髪を、首の後ろで一つに束ねている。灰色の外套。深い皺に埋もれた、落ち窪んだ目。
腰に、鍵束を下げていた。
大小、数十本。どれも、赤茶けた錆に覆われている。
ゲルト・フォルクマー。
このグラウエンブルクの、典獄長。
三十年、この要塞の主であり続けている男。囚人たちは、陰でこう呼んでいた――「錆びた鍵束」と。
*
「――七十三番」
低く、嗄れた声だった。
エルザは、膝を抱えたまま、顔を上げた。
「はい」
「今朝の配膳、二十一番の牢に、椀を二つ置いたな」
「……はい」
「二十一番の分は、一つだ」
老人の落ち窪んだ目が、エルザをじっと見下ろしていた。
怒っているのでは、なかった。
責めているのでも、なかった。
ただ、帳簿の数字が合わない。それを、確かめに来ただけの目だった。
「二十一番は、熱を出しています。昨日から、何も食べていません。……私の分を、少し分けただけです」
「お前の分は、お前の分だ」
「私は、平気です」
「帳簿に、そうは書いていない」
老人は、それだけ言うと、鍵束を、チャリ、と鳴らした。
「次は、ない」
チャリ、チャリ、チャリ。
音が、遠ざかっていく。
エルザは、その背中が廊下の角に消えるまで、膝を抱えたまま、動かなかった。
*
「――また、怒られたね」
向かいの牢から、穏やかな声がした。
鉄格子の向こう、廊下を挟んだ、すぐ正面の牢。
その奥の暗がりに、痩せた男が一人、壁にもたれて座っていた。
頬は削げ、髭は伸び放題。囚人服の袖から覗く手首は、骨の形が浮き出るほどに細い。
けれど――その目だけは、穏やかだった。
この要塞の、他の誰とも違う目。
何年ここにいても、少しも濁らない目だった。
「怒られてはいません。数字を、直されただけです」
「同じことだよ」
男――ヨアヒム・ガルトナーは、喉の奥で小さく笑った。
笑うと、咳が出た。
ごほ、ごほ、と、痩せた肩を丸めて、しばらく咳き込む。
エルザは、思わず、鉄格子に手をかけていた。
「……ヨアヒム先生」
「大丈夫。いつものことだ」
咳が収まると、ヨアヒムは、壁にもたれ直して、エルザに微笑みかけた。
「さて。昨日の続きをしようか」
*
授業は、いつも、鍵束の音が遠ざかった後に始まった。
紙も、ペンも、ここにはない。
ヨアヒムは、牢の床の埃の上に、指で文字を書いた。エルザは、向かいの牢の床に、同じ文字を書き写した。廊下の松明の灯りが、ちょうど二人の牢の床を、ぼんやりと照らしていた。
五年前。
ヨアヒムがこの牢に入れられた日から、ずっと、そうしてきた。
最初は、文字の形から。
次に、言葉。
それから、ヨアヒムの頭の中にある、何冊もの本の話。
「――昨日は、どこまで話したかな」
「南の海の話です。塩の味がする水が、見渡す限り、どこまでも広がっている、って」
「ああ、そうだった」
ヨアヒムは、目を細めた。
「海はね、エルザ。波があるんだ。風が吹くと、水の表面が、山みたいに盛り上がって、こちらへ押し寄せてくる。浜辺に打ち寄せると、白く砕けて、ざあっと音を立てて、また引いていく」
「ざあっと」
「そう。何度も、何度も。一日中、休まずに」
エルザは、目を閉じた。
想像してみる。
見渡す限りの水。山のように盛り上がる波。白く砕ける音。
――上手く、想像できなかった。
エルザが知っている「水」は、水差しの中の、冷たく濁った水だけだった。
エルザが知っている「音」は、鍵束の音と、誰かの咳と、誰かの泣き声と、壁の向こうで吹く風の唸りだけだった。
*
「……先生」
「うん?」
「海の音って、鍵の音より、大きいですか」
ヨアヒムは、一瞬、言葉に詰まった。
それから、静かに、笑った。
「――ずっと、大きいよ」
痩せた指が、床の埃の上に、一つの言葉を書いた。
『うみ』
「いつか、聞きに行こう。君が、ここを出たら」
エルザは、向かいの床の文字を、じっと見つめた。
それから、自分の牢の床に、同じ文字を、丁寧に書き写した。
『うみ』
ここを出たら。
その言葉を、ヨアヒムは、五年間、何度も口にしてきた。
エルザは、一度も、信じたことがなかった。
それでも、聞くたびに、胸の奥の、どこか冷たく固まったところが、ほんの少しだけ、温かくなる気がした。
*
その日の夕方。
要塞の門の方角から、蹄の音と、車輪の軋む音が聞こえてきた。
新しい囚人が、来たのだ。
牢の囚人たちが、ざわめいた。
鉄格子に顔を押しつけて、廊下の先を覗こうとする者。耳を塞いで、寝床に潜り込む者。
エルザは、膝を抱えたまま、目を閉じた。
――来る。
もうすぐ、あの感覚が来る。
チャリ、チャリ、チャリ。
鍵束の音が、要塞の奥の、地下へ続く階段の方へ、遠ざかっていく。
新しい囚人を迎える部屋。
囚人たちが「鍵の間」と呼んでいる、窓のない石の部屋。
そこで、典獄長は、新しく来た者に、「鍵を掛ける」。
*
しばらくして。
――ふっ、と。
それは、来た。
エルザの胸の奥で、何かが、ほんの一瞬だけ、身じろぎした。
眠っていた何かが。
八年間、ずっと、冷たい石の下に押し込められていた何かが。
ほんの一瞬だけ、息を吹き返して――。
そして、また、押し潰された。
(――今の)
エルザは、目を開けて、自分の手のひらを見下ろした。
何も、変わっていない。
細い指。汚れた爪。ささくれた指先。
けれど、確かに、感じた。
九つの時まで、この手の中にあったもの。
触れた人の力を、大きくするもの。
『増幅』。
ここに入れられてから、一度も使えなかった、自分の力。
それが――典獄長が新しい囚人に鍵を掛ける、その一瞬だけ。
ほんの、瞬き一つほどの間だけ。
戻ってくる。
*
そのことに気づいたのは、三年前だった。
最初は、気のせいだと思った。
二度目も、三度目も、気のせいだと思おうとした。
けれど、新しい囚人が来るたびに――必ず、それは来た。
誰にも、言っていない。
ヨアヒムにさえ。
言ったところで、どうなるというのだろう。
瞬き一つほどの間、力が戻ったところで。壁の外に出られるわけでもない。鉄格子が開くわけでもない。
ただ――。
(まだ、ここに、ある)
自分の中に、まだ、それがある。
そう確かめられる、一瞬だった。
エルザは、その一瞬のために、新しい囚人が来る日を、ほんの少しだけ、待つようになっていた。
そんな自分が、少し、嫌だった。
*
数日後の朝。
鍵束の音が、いつもより、長く廊下に留まっていた。
チャリ、チャリ、チャリ。
一つの牢の前で止まり、何かを読み上げ、また次の牢へ。
囚人たちが、息を潜めていた。
やがて、音が、エルザの牢の前まで来た。
止まった。
けれど、老人は、エルザの方を見ていなかった。
向かいの牢を――ヨアヒムの牢を、見ていた。
手に、一枚の羊皮紙を持っている。
黒い蝋の封が、既に切られていた。
*
「――十八番」
ゲルト・フォルクマーが、嗄れた声で、読み上げた。
「ヨアヒム・ガルトナー。罪状、和平派との内通」
牢の暗がりの中で、ヨアヒムが、ゆっくりと顔を上げた。
「帝都より、通達である。和平派内通の罪にて当要塞に収監中の者、計七名。――次の新月の朝、中庭にて、刑を執行する」
廊下が、凍りついた。
エルザの耳の奥で、何かが、きいんと鳴った。
刑を、執行する。
その言葉の意味が、すぐには、頭に入ってこなかった。
*
ゲルトは、羊皮紙を畳むと、鍵束を、チャリ、と鳴らした。
「以上だ」
それだけ言って、背を向ける。
チャリ、チャリ、チャリ。
音が、廊下の先へ、遠ざかっていく。
次の牢の前で止まり、また、同じ言葉を読み上げる。
次の新月の朝。中庭にて。
エルザは、鉄格子を、両手で握りしめていた。
指が、白くなるほどに。
「――先生」
声が、震えた。
「先生、今の――」
「聞こえたよ」
ヨアヒムの声は、穏やかだった。
いつもと、何も変わらない。床の埃に文字を書きながら、海の話をする時と、同じ声だった。
「次の新月か。……あと、ひと月と少しだね」
*
「どうして」
エルザは、鉄格子に額を押しつけた。
「どうして、そんなに、落ち着いていられるんですか」
ヨアヒムは、しばらく、黙っていた。
それから、痩せた体を、ゆっくりと起こした。
鉄格子の前まで、這うようにして近づいてくる。
松明の灯りが、削げた頬を照らした。
「――エルザ」
「……はい」
「昨日、どこまで話したかな」
エルザは、顔を上げた。
ヨアヒムは、微笑んでいた。
「海の話だったね。波の話。……続きを、しようか」
痩せた指が、床の埃の上に、文字を書き始めた。
ゆっくりと。
一文字ずつ。
いつもと、何も変わらない手つきで。
エルザは、涙で滲む目で、その指の動きを、追いかけた。
*
その夜。
明かり取りの細い穴から、月の光が、ほんの少しだけ差し込んでいた。
まだ、細い月だった。
これから少しずつ満ちて、それから欠けて――そして、消える。
新月の夜に。
エルザは、牢の床に書かれた、二つの文字を見下ろしていた。
『うみ』
その文字の上に、そっと、指を置く。
(――聞きに、行くんでしょう)
声に出さずに、問いかけた。
(ここを出たら、一緒に、って)
答えは、なかった。
向かいの牢から、ヨアヒムの浅い寝息だけが、聞こえていた。
壁の向こうで、北の風が、唸っていた。




