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レーヴァルト戦記 ~最弱のコピー能力が別の魔法に化けるので、恩人の領主を守るために戦います~  作者: 深夜のトースト
第4章 灰色の城の囚われ人

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プロローグ 鍵の音

――チャリ、チャリ、チャリ。


その音が聞こえると、牢の空気が変わる。


石の床に横たわっていた者が、身を起こす。

壁にもたれて眠っていた者が、目を開ける。

独り言を呟き続けていた者が、口を噤む。


誰も、何も言わない。


ただ、廊下の向こうの暗がりから、ゆっくりと近づいてくるその音に、牢という牢の囚人たちが、一斉に耳を澄ませる。


チャリ、チャリ、チャリ。


錆びた鉄と鉄が、擦れ合う音。


鍵束の、音だった。


*


エルザは、牢の奥の壁際で、膝を抱えていた。


藁を詰めた粗末な寝床。木の椀が一つ。水差しが一つ。

壁の高いところに、拳一つ分ほどの細い明かり取りの穴が開いている。そこから差し込む光は、一日のうち、ほんの短い間だけ、床の上に細長い白い線を描く。


それが、エルザの知っている、外の全てだった。


八年前、九つの時にこの牢に入れられてから――ずっと。


*


チャリ、チャリ。


音が、止まった。


エルザの牢の、鉄格子の前で。


廊下の暗がりの中に、老人が一人、立っていた。


背が、高い。

腰は少し曲がっているが、それでも、鉄格子の上の横木に頭がつきそうなほどだった。白く長い髪を、首の後ろで一つに束ねている。灰色の外套。深い皺に埋もれた、落ち窪んだ目。


腰に、鍵束を下げていた。


大小、数十本。どれも、赤茶けた錆に覆われている。


ゲルト・フォルクマー。


このグラウエンブルクの、典獄長。


三十年、この要塞の主であり続けている男。囚人たちは、陰でこう呼んでいた――「錆びた鍵束」と。


*


「――七十三番」


低く、嗄れた声だった。


エルザは、膝を抱えたまま、顔を上げた。


「はい」


「今朝の配膳、二十一番の牢に、椀を二つ置いたな」


「……はい」


「二十一番の分は、一つだ」


老人の落ち窪んだ目が、エルザをじっと見下ろしていた。


怒っているのでは、なかった。

責めているのでも、なかった。


ただ、帳簿の数字が合わない。それを、確かめに来ただけの目だった。


「二十一番は、熱を出しています。昨日から、何も食べていません。……私の分を、少し分けただけです」


「お前の分は、お前の分だ」


「私は、平気です」


「帳簿に、そうは書いていない」


老人は、それだけ言うと、鍵束を、チャリ、と鳴らした。


「次は、ない」


チャリ、チャリ、チャリ。


音が、遠ざかっていく。


エルザは、その背中が廊下の角に消えるまで、膝を抱えたまま、動かなかった。


*


「――また、怒られたね」


向かいの牢から、穏やかな声がした。


鉄格子の向こう、廊下を挟んだ、すぐ正面の牢。


その奥の暗がりに、痩せた男が一人、壁にもたれて座っていた。


頬は削げ、髭は伸び放題。囚人服の袖から覗く手首は、骨の形が浮き出るほどに細い。


けれど――その目だけは、穏やかだった。


この要塞の、他の誰とも違う目。

何年ここにいても、少しも濁らない目だった。


「怒られてはいません。数字を、直されただけです」


「同じことだよ」


男――ヨアヒム・ガルトナーは、喉の奥で小さく笑った。


笑うと、咳が出た。

ごほ、ごほ、と、痩せた肩を丸めて、しばらく咳き込む。


エルザは、思わず、鉄格子に手をかけていた。


「……ヨアヒム先生」


「大丈夫。いつものことだ」


咳が収まると、ヨアヒムは、壁にもたれ直して、エルザに微笑みかけた。


「さて。昨日の続きをしようか」


*


授業は、いつも、鍵束の音が遠ざかった後に始まった。


紙も、ペンも、ここにはない。


ヨアヒムは、牢の床の埃の上に、指で文字を書いた。エルザは、向かいの牢の床に、同じ文字を書き写した。廊下の松明の灯りが、ちょうど二人の牢の床を、ぼんやりと照らしていた。


五年前。


ヨアヒムがこの牢に入れられた日から、ずっと、そうしてきた。


最初は、文字の形から。

次に、言葉。

それから、ヨアヒムの頭の中にある、何冊もの本の話。


「――昨日は、どこまで話したかな」


「南の海の話です。塩の味がする水が、見渡す限り、どこまでも広がっている、って」


「ああ、そうだった」


ヨアヒムは、目を細めた。


「海はね、エルザ。波があるんだ。風が吹くと、水の表面が、山みたいに盛り上がって、こちらへ押し寄せてくる。浜辺に打ち寄せると、白く砕けて、ざあっと音を立てて、また引いていく」


「ざあっと」


「そう。何度も、何度も。一日中、休まずに」


エルザは、目を閉じた。


想像してみる。


見渡す限りの水。山のように盛り上がる波。白く砕ける音。


――上手く、想像できなかった。


エルザが知っている「水」は、水差しの中の、冷たく濁った水だけだった。

エルザが知っている「音」は、鍵束の音と、誰かの咳と、誰かの泣き声と、壁の向こうで吹く風の唸りだけだった。


*


「……先生」


「うん?」


「海の音って、鍵の音より、大きいですか」


ヨアヒムは、一瞬、言葉に詰まった。


それから、静かに、笑った。


「――ずっと、大きいよ」


痩せた指が、床の埃の上に、一つの言葉を書いた。


『うみ』


「いつか、聞きに行こう。君が、ここを出たら」


エルザは、向かいの床の文字を、じっと見つめた。


それから、自分の牢の床に、同じ文字を、丁寧に書き写した。


『うみ』


ここを出たら。


その言葉を、ヨアヒムは、五年間、何度も口にしてきた。


エルザは、一度も、信じたことがなかった。


それでも、聞くたびに、胸の奥の、どこか冷たく固まったところが、ほんの少しだけ、温かくなる気がした。


*


その日の夕方。


要塞の門の方角から、蹄の音と、車輪の軋む音が聞こえてきた。


新しい囚人が、来たのだ。


牢の囚人たちが、ざわめいた。

鉄格子に顔を押しつけて、廊下の先を覗こうとする者。耳を塞いで、寝床に潜り込む者。


エルザは、膝を抱えたまま、目を閉じた。


――来る。


もうすぐ、あの感覚が来る。


チャリ、チャリ、チャリ。


鍵束の音が、要塞の奥の、地下へ続く階段の方へ、遠ざかっていく。


新しい囚人を迎える部屋。

囚人たちが「鍵の間」と呼んでいる、窓のない石の部屋。


そこで、典獄長は、新しく来た者に、「鍵を掛ける」。


*


しばらくして。


――ふっ、と。


それは、来た。


エルザの胸の奥で、何かが、ほんの一瞬だけ、身じろぎした。


眠っていた何かが。

八年間、ずっと、冷たい石の下に押し込められていた何かが。


ほんの一瞬だけ、息を吹き返して――。


そして、また、押し潰された。


(――今の)


エルザは、目を開けて、自分の手のひらを見下ろした。


何も、変わっていない。

細い指。汚れた爪。ささくれた指先。


けれど、確かに、感じた。


九つの時まで、この手の中にあったもの。

触れた人の力を、大きくするもの。


『増幅』。


ここに入れられてから、一度も使えなかった、自分の力。


それが――典獄長が新しい囚人に鍵を掛ける、その一瞬だけ。


ほんの、瞬き一つほどの間だけ。


戻ってくる。


*


そのことに気づいたのは、三年前だった。


最初は、気のせいだと思った。

二度目も、三度目も、気のせいだと思おうとした。


けれど、新しい囚人が来るたびに――必ず、それは来た。


誰にも、言っていない。


ヨアヒムにさえ。


言ったところで、どうなるというのだろう。

瞬き一つほどの間、力が戻ったところで。壁の外に出られるわけでもない。鉄格子が開くわけでもない。


ただ――。


(まだ、ここに、ある)


自分の中に、まだ、それがある。


そう確かめられる、一瞬だった。


エルザは、その一瞬のために、新しい囚人が来る日を、ほんの少しだけ、待つようになっていた。


そんな自分が、少し、嫌だった。


*


数日後の朝。


鍵束の音が、いつもより、長く廊下に留まっていた。


チャリ、チャリ、チャリ。


一つの牢の前で止まり、何かを読み上げ、また次の牢へ。


囚人たちが、息を潜めていた。


やがて、音が、エルザの牢の前まで来た。


止まった。


けれど、老人は、エルザの方を見ていなかった。


向かいの牢を――ヨアヒムの牢を、見ていた。


手に、一枚の羊皮紙を持っている。


黒い蝋の封が、既に切られていた。


*


「――十八番」


ゲルト・フォルクマーが、嗄れた声で、読み上げた。


「ヨアヒム・ガルトナー。罪状、和平派との内通」


牢の暗がりの中で、ヨアヒムが、ゆっくりと顔を上げた。


「帝都より、通達である。和平派内通の罪にて当要塞に収監中の者、計七名。――次の新月の朝、中庭にて、刑を執行する」


廊下が、凍りついた。


エルザの耳の奥で、何かが、きいんと鳴った。


刑を、執行する。


その言葉の意味が、すぐには、頭に入ってこなかった。


*


ゲルトは、羊皮紙を畳むと、鍵束を、チャリ、と鳴らした。


「以上だ」


それだけ言って、背を向ける。


チャリ、チャリ、チャリ。


音が、廊下の先へ、遠ざかっていく。


次の牢の前で止まり、また、同じ言葉を読み上げる。


次の新月の朝。中庭にて。


エルザは、鉄格子を、両手で握りしめていた。


指が、白くなるほどに。


「――先生」


声が、震えた。


「先生、今の――」


「聞こえたよ」


ヨアヒムの声は、穏やかだった。


いつもと、何も変わらない。床の埃に文字を書きながら、海の話をする時と、同じ声だった。


「次の新月か。……あと、ひと月と少しだね」


*


「どうして」


エルザは、鉄格子に額を押しつけた。


「どうして、そんなに、落ち着いていられるんですか」


ヨアヒムは、しばらく、黙っていた。


それから、痩せた体を、ゆっくりと起こした。


鉄格子の前まで、這うようにして近づいてくる。


松明の灯りが、削げた頬を照らした。


「――エルザ」


「……はい」


「昨日、どこまで話したかな」


エルザは、顔を上げた。


ヨアヒムは、微笑んでいた。


「海の話だったね。波の話。……続きを、しようか」


痩せた指が、床の埃の上に、文字を書き始めた。


ゆっくりと。

一文字ずつ。

いつもと、何も変わらない手つきで。


エルザは、涙で滲む目で、その指の動きを、追いかけた。


*


その夜。


明かり取りの細い穴から、月の光が、ほんの少しだけ差し込んでいた。


まだ、細い月だった。

これから少しずつ満ちて、それから欠けて――そして、消える。


新月の夜に。


エルザは、牢の床に書かれた、二つの文字を見下ろしていた。


『うみ』


その文字の上に、そっと、指を置く。


(――聞きに、行くんでしょう)


声に出さずに、問いかけた。


(ここを出たら、一緒に、って)


答えは、なかった。


向かいの牢から、ヨアヒムの浅い寝息だけが、聞こえていた。


壁の向こうで、北の風が、唸っていた。

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