エピローグ 芽吹いた土の上で
出立の朝、北門の外の草地は、朝露でしっとりと濡れていた。
膝の高さまで伸びた若草が、一本一本、小さな水の粒を抱えている。
風が吹くたびに、それがきらきらと揺れて、草地の端から端まで、細かな光の波が走っていった。
雷夕は、草地の縁に立って、その景色を眺めていた。
あれから、五日。
緑は、まだ、少しずつ伸び続けていた。
ロゼリアが毎日測りに来ては、帳面に数字を書き込んでいる。「止まらないわね」「止まらないな」「あんたのせいよ」「俺のせいかよ」――それが、ここ数日の、朝の挨拶になっていた。
草地の真ん中の、こんもりと盛り上がった一角には、小さな木の札が、いくつも立てられていた。
ヤンとカスパーが、二人で削って、名前を刻んだ札だった。
その一番端の札の前に、小さな石が一つ、載っていた。
*
「――坊主」
背後から、野太い声がした。
振り返ると、ガストンが、のしのしと草地を踏んで歩いてくるところだった。
左腕の吊り布は、まだ取れていない。
それでも、顔色は、だいぶ良くなっていた。髭の奥の頬に、赤みが戻っている。
右手に、大斧を担いでいた。
その刃の真ん中に、拳ほどの大きさの欠けが、くっきりと残っていた。
「……直さないのか、それ」
「直さねえよ」
ガストンは、大斧を草の上に突き立てて、その柄に、右腕をもたせかけた。
「鍛冶屋に持ってったら、打ち直せば元通りになるって言われたがな。――断った」
「なんで」
「これは、あの野郎を叩き割った欠けだ。カランドの連中の分と、ハンスたちの分と、――坊主の麦粥の分だ」
ガストンは、欠けた刃を、太い指で、こつんと叩いた。
「残しといた方が、いいだろ」
*
二人は、しばらく、黙って草地を眺めていた。
朝露が、若草の先から、ぽたりと落ちる。
遠くで、雲雀が鳴いていた。
「……なあ、おっさん」
「何だ」
「イヴァルキアに、来ないか」
ガストンが、横目で雷夕を見た。
「ロゼリアの工房、腕の立つ奴はいつでも欲しがってるし。城の兵だって、おっさんくらいの古強者がいたら、助かると思う。――アリシアなら、たぶん、二つ返事で」
「行かねえよ」
即答だった。
「……だよな」
「分かってて聞くな」
ガストンは、髭の奥で、にやりと笑った。
「俺は、ここで自警団の頭をやってる。坊ちゃん――いや、領主様が、正規の兵を立て直すまでは、俺がいねえと回らねえ。それに」
草地の向こう、丘の上の町を、顎でしゃくる。
石の城壁。赤茶けた屋根の連なり。丘の頂の館の屋根の上で、緑の旗が、朝の風に揺れていた。
「――ここが、俺の町だ」
*
雷夕は、頷いた。
分かっていた。
聞く前から、分かっていた。
「……そっか」
「そういうお前はどうなんだ」
「俺?」
「ベルリアに、戻ってくる気はねえのか。――飯炊きの席なら、いつでも空いてるぞ」
雷夕は、少しだけ考えた。
それから、首を横に振った。
「まだ、恩を返しきれてないんだ。――向こうに」
「恩、ね」
ガストンは、ふん、と鼻を鳴らした。
「あの銀髪の領主様にか」
「……なんで知ってんだよ」
「麦粥の宴の時に、お前、坊ちゃんに散々喋ってただろうが。国境の街道で庇われたとか、腕から血を流しながら退かなかったとか、例外だったとか。――隣で聞いてりゃ、嫌でも分かる」
雷夕の顔が、熱くなった。
「……そんなに喋ってたか、俺」
「喋ってた。三回くらい」
「三回!?」
「酔ってたからな、お前」
ガストンは、がっはっは、と笑った。
草地の上の雲雀が、驚いて、ぱっと飛び立った。
*
「――ほらよ」
笑いが収まると、ガストンは、腰の袋から、何かを取り出して、雷夕の胸に押しつけた。
木の杓子だった。
柄が長く、使い込まれて、黒光りしている。
先端の丸い部分の縁が、少しだけ欠けていた。
雷夕は、それを見下ろして、目を見開いた。
「……これ」
「団の、鍋の杓子だ」
ガストンは、そっぽを向いていた。
「団を畳んだ時に、鍋は売っ払ったがな。そいつだけは、なんとなく、捨てられなかった。――三年間、お前が毎朝毎晩、握ってた杓子だ」
雷夕は、杓子の柄を、ぎゅっと握った。
手のひらに、馴染んだ感触があった。
三年間、毎朝、毎晩。
湯気の向こうで、仲間たちが、椀を突き出して待っていた。
「……おっさん」
「何だ」
「これ、鍋がないと、意味ないだろ」
「向こうで買え。鍋くらい」
「……ああ」
雷夕は、杓子を、懐にしまった。
焦げた旗と、アリシアの手紙の、すぐ隣に。
*
南門の前には、トマスの隊商が、荷馬車を連ねて待っていた。
六台のうち、二台は、門を塞いだ時に車軸が歪んでしまったらしい。町の鍛冶屋が、夜通し打ち直してくれたのだと、トマスが嬉しそうに話していた。
荷台には、ベルリアの品が積まれていた。
干した魚。南の果物の砂糖漬け。カランドの人々が、礼にと織った布。
それから、金の麦の穂の封蝋を押した、一通の書簡。
門の前に、人が集まっていた。
フェリクスがいた。
父親の緑の上着。大きすぎる金の指輪。その横に、バルトロメウス。
ボリスがいた。欠けた前歯を剥き出しにして、大きく手を振っている。
ヤンと、エマと、その母親がいた。
カスパーと、その母親がいた。
*
「――霧島殿」
フェリクスが、一歩前に出た。
「アリシア殿に、よろしくお伝えください。それから――」
少年は、少しだけ迷ってから、続けた。
「いつか、イヴァルキアにも、麦粥を食べに行きます。……使者を立てて、ちゃんと」
雷夕は、笑った。
「待ってます。――鍋、買っときますから」
「鍋?」
「こっちの話です」
フェリクスは、きょとんとしていた。
その横で、ガストンが、髭の奥で、くつくつと笑っていた。
*
エマが、母親の手を離れて、雷夕の前に駆けてきた。
大きすぎる上着の袖は、もう、折り返していなかった。
母親が、袖を詰め直してくれたらしい。
「――西から来たおじさん」
「おじさんはやめてくれって」
「はい、これ」
小さな手が、雷夕の手のひらに、何かを載せた。
石だった。
丸くて、すべすべした、白い小石。
草地のどこかで拾ってきたのだろう。土の匂いが、少しだけ残っていた。
「お守り。――お兄ちゃんの分の石は、もう要らないから。だから、今度は、おじさんの分」
雷夕は、手のひらの上の石を、見下ろした。
「……俺の分?」
「おじさんが、ちゃんとおうちに帰れるように。一日一個じゃなくて、一個だけ」
エマは、にっこりと笑った。
「一個で、帰れるでしょ?」
*
雷夕は、しばらく、何も言えなかった。
それから、しゃがみ込んで、エマの頭を、そっと撫でた。
「……ああ。帰れる」
石を、握りしめる。
「ありがとな」
エマの後ろで、ヤンが、深く頭を下げていた。
その隣で、母親も。
カスパーが、鼻を啜りながら、袖で目元を拭っていた。
*
「――雷夕、そろそろよ!」
荷馬車の上から、ロゼリアの声が飛んできた。
帳面を胸に抱えている。その横に、若草の束が、根っこごと、布に包まれて積まれていた。
「……何持って帰ってんだ、お前」
「研究材料よ! イヴァルキアの土で育つかどうか、確かめるの!」
「育ったらどうすんだよ」
「工房の前に植えるわ。あんたの劣化の記念碑」
「やめろ!」
その隣の荷馬車で、ケインが、真顔で手綱を握っていた。
胴には、相変わらず、布紐が襷掛けにされている。
いや――よく見ると、一本、増えていた。
「……ケイン、それ」
「草地で、征用兵を担いだ件で、ロゼリア殿に。――安静を三度破ったと」
「四度目は?」
「宴の夜に、皿を運びました」
「……律儀だな、相変わらず」
最後尾の馬の上で、リヴァールが、北の空を、じっと見上げていた。
懐に、焼け焦げた紙の束と、畳んだ地図。
雷夕が馬に跨ると、リヴァールは、北の空から目を外して、こちらを見た。
それから、何も言わずに、小さく頷いた。
*
隊商が、動き出した。
荷馬車の車輪が、轍を噛んで、ごとん、と揺れる。
雷夕は、馬上で、一度だけ振り返った。
南門の前で、人々が手を振っていた。
フェリクスが。
バルトロメウスが。
ボリスが。
ヤンとエマと、その母親が。
カスパーと、その母親が。
その一番後ろに、ガストンが立っていた。
大斧を肩に担いで。
左腕を、吊ったまま。
手は、振っていなかった。
ただ、髭の奥で、にやりと笑って――大きな声で、叫んだ。
「――坊主ッ!!」
雷夕は、手綱を引いた。
「――生きてろよッ!!」
*
三年前は、「生きてるか」だった。
酒場の裏で、残飯を漁っていた自分に、初めて掛けられた言葉。
五日前は、「生きてるか」だった。
詰所の扉の前で、三年ぶりに掛けられた言葉。
今度は、違った。
「生きてろよ」。
問いではなかった。
雷夕は、喉の奥が、ぎゅっと詰まるのを感じた。
それでも、精一杯、声を張り上げた。
「――おっさんこそッ!!」
ガストンが、がっはっは、と笑った。
その馬鹿でかい笑い声は、隊商が丘を下りきるまで、ずっと、背中に届いていた。
*
丘を下り、街道に出て、最初の峠を越える頃。
雷夕は、懐に手を入れた。
指先に触れるものが、増えていた。
焦げた旗。
アリシアの手紙。
使い込まれた、木の杓子。
すべすべした、白い小石。
それから――金の麦の穂の封蝋を押した、一通の書簡。
(――十日、か)
南回りの道で、十日。
十日経てば、あの城の中庭に着く。
楡の木の下で、銀の髪の領主が、両手を体の前で重ねて、待っているだろう。
指先で、衣装の布地を、皺が寄るほど握りしめて。
それから、領主の声で「よく戻りました」と言って。
報告書がどうの、怪我がどうのと、一通り叱って。
最後に、年相応の娘の顔で――。
雷夕は、一人で、小さく笑った。
「……鍋、買わなきゃな」
隣で馬を並べていたロゼリアが、怪訝そうにこちらを見た。
「何よ、急に」
「いや、こっちの話」
雷夕は、手綱を握り直した。
西へ向かう街道の上を、朝の風が、若草の匂いを運んで、吹き抜けていった。
――第3章 了




