第18話 麦粥と、鉄の箱
目を覚ますと、天井の梁に、干した玉葱の束が吊るされていた。
(――どこだ、ここ)
見覚えがあった。
北門の詰所の、隣の小屋だ。
三年前、ガストン傭兵団が町に戻るたびに、雷夕が寝泊まりしていた、物置同然の部屋。
窓から、昼の光が差し込んでいた。
体が、重かった。
けれど、砦の時ほどではなかった。指を一本ずつ、握って、開いてみる。ちゃんと動いた。
「――起きたか」
寝台の脇で、声がした。
リヴァールだった。
右腕に、包帯がぐるぐると巻かれている。左手で、器用に剣の手入れをしていた。
「……どれくらい、寝てた」
「丸一日だ」
「一日」
雷夕は、ほっと息を吐いた。
「砦の時より、短いな」
「ロゼリア殿に言わせると、蓄魔石が砕けた時に、流れ込んでいた魔力が、全部地面に抜けていったからだそうだ。――お前の器の底は、今回は抜けていない」
「……よく分かんねえけど、助かった」
「俺にも分からん」
リヴァールは、平然と言った。
「ロゼリア殿の説明は、三回聞いて、三回とも分からなかった」
*
小屋の戸が、勢いよく開いた。
「――起きたって!?」
ロゼリアだった。
両腕に、帳面と、紙の束と、何やら土のついた草の束を抱えている。
目の下には、くっきりと隈。その目は、獲物を見つけた猫のように、らんらんと光っていた。
(――砦と、同じだ)
雷夕は、思わず噴き出しかけた。
「よし、起きたなら聞くわよ。焦土を写したのよね? 今回は、狙った? 狙ってない? 手を地面についたのはなんで? 芽が出たのは、手をついた場所から? それとも炎の跡から? 根が足に絡んだのは、あんたが絡めようと思ったから? それとも――」
「待て待て待て、一個ずつ」
「一個ずつ聞いてたら、日が暮れる!」
「病人だぞ、俺!」
「だから今聞いてるの! ――って、このやり取り、前にもやったわね」
ロゼリアは、自分で言って、噴き出した。
それから、寝台の脇の椅子に、どすんと腰を下ろした。
「……生きててよかったわ、本当に」
小さな声だった。
雷夕は、何も言わずに、頷いた。
*
それから、ロゼリアは、帳面を広げて、聞き取りを始めた。
雷夕は、覚えている限りのことを話した。
狙わなかったこと。
目を閉じて、何も考えないようにしたこと。
瞼の裏に浮かんだもの――焦げた旗、並べられた石、燃えていく町、それから、麦の匂い。
手のひらを、ただ、地面に置いたこと。
ロゼリアは、黙って、それを書き留めていった。
「――焦土の劣化、三回目ね」
ペンを止めて、帳面の頁を見下ろす。
「一回目、城壁で。狙って写して、薄く広い霜。二回目、草地で。狙って写して、熱のない閃光。三回目、蓄魔石で。狙わずに写して――芽吹き」
ロゼリアは、帳面を、とん、と指で叩いた。
「同じ相手の、同じスキルを写して、三回とも、全部違う物に化けた。……やっぱり、あんたの劣化は、狙うと外れて、狙わないと化ける。グレンタの時も、シュタイン村の時も、そうだった」
「……それ、褒めてんのか」
「呆れてるのよ」
ロゼリアは、肩をすくめた。
「でも――」
抱えてきた、土のついた草の束を、雷夕の目の前に差し出す。
細い葉。柔らかい茎。根に、まだ焼けた土がこびりついている。
「北門の外の草地、今、一面こうなってるわ。あんたが倒れた後も、半刻くらい、ずっと伸び続けてた。――町の人が、見物に来てるわよ」
*
北門の外の草地は、緑だった。
雷夕は、ロゼリアとリヴァールに両脇を支えられて、門の跡まで歩いていった。
一昨日まで、黒く焼け焦げていた草地。
炎の筋が、爪痕のように何本も走っていた地面。
その全部が、若草に覆われていた。
膝の高さほどの、瑞々しい草。その間から、細い蔓が這い、ところどころに、名前も知らない小さな白い花が、ぽつぽつと咲いている。
風が、吹いた。
草が、さわさわと揺れる。
波のように、草地の端から端まで、緑が揺れていく。
青臭い、草の匂いがした。
「……すげえな」
自分でやったことなのに、そんな言葉しか出てこなかった。
*
草地のあちこちに、人がいた。
ベルリアの人々。
カランドの人々。
草の上に、しゃがみ込んでいる者がいた。手のひらで、そっと草を撫でている。
草地の真ん中あたりに、人が集まっている一角があった。
そこだけ、草が、こんもりと盛り上がっていた。
人の背丈ほどの、細長い盛り上がりが、いくつも、いくつも並んでいる。
(――あれは)
雷夕は、足を止めた。
ロゼリアが、小さく言った。
「燃やされた征用兵たちよ。――草が、覆い被さったまま、伸びたの。町の人たちが、そのままにしておこうって。掘り起こさずに、ここで眠らせてあげようって」
盛り上がった草の前に、カスパーが、膝をついていた。
その隣に、ヤンが立っていた。
二人とも、何も言わずに、草の盛り上がりを、じっと見つめていた。
*
雷夕は、二人の方へ、ゆっくりと歩いていった。
ヤンが、振り返った。
煤と泥は、もう洗い流されていた。
痩せた頬。窪んだ目。けれど、その目には、もう、恐怖の色はなかった。
「……あんたが、劣化の」
「霧島雷夕だ」
ヤンは、雷夕の顔を、しばらく見つめていた。
それから、草の盛り上がりに、目を戻した。
「――ヴィリーっていうんだ。ここで眠ってる奴の、一人」
「……ああ」
「粉屋の息子でさ。町が燃えた夜、俺の隣で、ずっと黙って、燃えてく町を見てた。――最後の最後で、足が竦んで、走れなかったんだ」
ヤンの声が、少しだけ、震えた。
「俺は、走れた。母さんの声が聞こえたから。――ヴィリーには、聞こえなかったのかな」
*
雷夕は、何も言えなかった。
ヤンは、しばらく黙っていた。
それから、懐から、何かを取り出した。
小さな石だった。
「母さんが、門のとこで落とした石。……エマが、明日の分って、母さんに預けてたやつ」
ヤンは、草の盛り上がりの前に、しゃがみ込んだ。
石を、そっと、草の上に置いた。
「――これで、終わりにしてくれ、ってさ」
石は、若草の葉の上に、ちょこんと載っていた。
風が吹いて、草が揺れた。
石は、落ちなかった。
*
その日の夕方。
南の道の村に逃がしていた人々が、トマスの隊の者に連れられて、町へ戻ってきた。
南門の前で、雷夕は、その列を見ていた。
列の中から、小さな影が、転がるように駆け出してきた。
大きすぎる上着の袖を、何重にも折り返して。
「――お兄ちゃああああんッ!!」
エマだった。
南門の脇で待っていたヤンに、真正面から飛びついていく。
ヤンが、それを受け止めて、よろけて、尻餅をついた。
それでも、離さなかった。
妹を抱きしめたまま、草の上で、声を上げて泣いていた。
その二人を、母親が、後ろから、両腕で包み込んでいた。
*
雷夕は、そっと、その場を離れた。
隣を歩いていたロゼリアが、鼻を啜った。
「……泣いてないわよ」
「何も言ってねえよ」
「顔が言ってたわ」
「言ってねえよ」
ロゼリアは、雷夕の脇腹を、肘で小突いた。
いつもより、少しだけ、力が弱かった。
*
――北門の詰所に戻ると、リヴァールが、卓の上に、何かを広げていた。
鉄の箱だった。
錠前が、叩き壊されている。蓋の縁が、ひしゃげていた。
その中から取り出されたらしい羊皮紙の束が、卓の上に、何枚も並べられている。
「――あいつの陣の、天幕にあった」
リヴァールが、顔を上げずに言った。
「帝国軍は、将が倒れた後、陣を捨てて、カランドの方へ逃げた。ガストン殿の自警団が、昨日のうちに、捨てられた陣を調べに行った。――天幕の隅に、これが転がっていた」
「錠前、どうやって開けたんだ」
「叩いた」
「……重撃でか」
「軽く、だ」
リヴァールは、一枚の羊皮紙を、指で押さえた。
*
地図だった。
帝国の北方を描いた、細かな地図。
山脈。川。いくつかの町の名前。
その北の端に、小さな印が一つ、赤いインクで記されていた。
その印へ向かって、カランドの方から、細い線が、ずっと北へ伸びている。途中に、いくつかの小さな丸印。宿場か、関所か。
地図の端に、走り書きがあった。
『護送路――例の場所へ。カランド議員五名、移送のこと』
雷夕は、地図を見下ろした。
それから、リヴァールの顔を見た。
「……これ」
「強硬派が、政敵を北へ送る時に使う道だ」
リヴァールの声は、平らだった。
けれど、地図を押さえる左手の指が、ほんの僅かに、震えていた。
「――北の要塞の場所が、分かった」
*
詰所の中が、静まり返った。
ケインが、扉の脇で、息を呑んだ。
ロゼリアが、帳面を胸に抱えたまま、リヴァールを見つめていた。
「名前は、どこにも書いていない。『例の場所』とだけだ。――だが、道は分かった。どこを通って、どこへ向かうのか。どこに関所があって、どこで馬を替えるのか」
リヴァールは、地図を、丁寧に畳んだ。
それから、懐の、あの焼け焦げた紙の束の隣に、しまった。
「……すぐには、行かん」
「分かってる」
雷夕は、言った。
「連携が乱れるから、だろ」
リヴァールが、顔を上げた。
一拍。
それから――ほんの僅かに、口の端を、持ち上げた。
「……六回目か」
「今のは、俺が言ったから、ノーカンだ」
「数え方が、雑だな」
*
その夜。
館の広間で、宴が開かれた。
宴、と呼べるほどのものではなかった。
大卓の上に並んだのは、市場から掻き集めてきた、ありったけの食べ物。干した魚。固いパン。酢漬けの野菜。南の村から戻ってきた人々が、礼にと持ってきた、少しばかりの果物。
広間には、人が溢れていた。
ベルリアの重臣たち。正規兵の隊長。自警団の連中。ボリスが、欠けた前歯を剥き出しにして、酒を呷っている。
カランドの人々も、いた。
ヤンとエマと、その母親。カスパーと、その母親。他にも、何人も。
壁の五枚の肖像画が、その光景を、静かに見下ろしていた。
*
雷夕は、広間の隅の暖炉の前で、大鍋をかき回していた。
麦粥だった。
「――おい、坊主」
ガストンが、左腕を吊ったまま、のしのしと歩いてきた。
焼けただれた腕には、ロゼリアが調合した薬が、たっぷりと塗られている。顔色は、まだ少し悪い。それでも、その髭面には、いつもの豪快な笑みが戻っていた。
「宴の席で、麦粥炊いてんのか、お前は」
「おっさんが言ったんだろ。俺の麦粥で、あの子の腹を満たしてやれって」
ガストンの太い眉が、ぴくりと動いた。
「……覚えてやがったか」
「覚えてるよ。おっさんの言ったことは、大体」
雷夕は、鍋の底から、具の多いところをすくって、木の椀に注いだ。
湯気が、ふわりと立ち上る。
イヴァルキアの香草の匂い。麦の匂い。
*
広間の奥の壇の上で、フェリクスが、椅子に座っていた。
父親の緑の上着。大きすぎる金の指輪。
目の下の隈は、まだ消えていなかった。
けれど、その顔は、もう、細い糸の上に乗っているようには見えなかった。
雷夕は、椀を持って、壇の前に立った。
「――領主様」
フェリクスが、顔を上げた。
雷夕は、椀を、差し出した。
「腹、減ってないですか」
*
フェリクスは、目の前の椀を、きょとんとして見下ろしていた。
それから――はっとしたように、目を見開いた。
「……これ」
「麦粥です。飯炊きの」
少年は、両手で、椀を受け取った。
湯気が、少年の顔を、ふわりと包む。
匙を取る。
一口、すくう。
口に運ぶ。
――しばらく、少年は、何も言わなかった。
椀を両手で包み込んだまま、俯いていた。
その肩が、小さく、震え始めた。
「……父上が」
掠れた声だった。
「父上が、言っていた通りです。――美味しい」
*
広間が、静かになっていた。
いつの間にか、誰もが、壇の上の少年を見ていた。
フェリクスは、俯いたまま、もう一口、麦粥をすくった。
もう一口。
もう一口。
涙が、椀の中に、ぽたりと落ちた。
それでも、少年は、食べるのをやめなかった。
壇の脇で、バルトロメウスが、白い顎髭を震わせて、顔を背けていた。
ガストンが、雷夕の隣で、ぼそりと言った。
「――な。言ったろ」
「……何をだよ」
「さあな」
ガストンは、雷夕の頭に、ぽんと手を置いた。
それから、空の椀を、雷夕の胸に押しつけた。
「俺にも、大盛りだ」
「自分で注げよ!」
広間に、どっと、笑い声が上がった。
*
宴が、たけなわになった頃。
フェリクスが、壇の上で立ち上がった。
広間が、静まる。
少年の手に、一通の書簡があった。
封蝋には、金の麦の穂の紋章。
「――霧島殿」
雷夕は、暖炉の前から、壇の方へ歩み出た。
「イヴァルキア領主、アリシア・クレイン・レーヴァルト殿への、返書です」
フェリクスは、書簡を、両手で差し出した。
「ベルリアは、イヴァルキアとの同盟を、謹んでお受けします。――そう、お伝えください」
雷夕は、両手で、それを受け取った。
イヴァルキアの親書を受け取った時と、同じくらい――いや、それ以上に、重かった。
「確かに」
*
フェリクスは、雷夕の顔を、まっすぐに見た。
「それと、もう一つ。……これは、書簡には書けなかったので、口で」
少年は、少しだけ、照れたように笑った。
「――アリシア殿に、お会いしてみたいです。いつか。国を空にして飛び出すのは、例外にしなければいけないそうなので――いつか、ちゃんと、使者を立てて」
雷夕は、笑った。
「伝えます。……たぶん、喜びますよ。あの人も」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「たぶん、です」
フェリクスは、くすりと笑った。
年相応の、少年の笑顔だった。
*
広間の隅で、バルトロメウスが、雷夕の前に立っていた。
白い顎髭。固く結ばれた唇。
老人は、雷夕に向かって、深く、深く頭を下げた。
「――イヴァルキアの使者殿」
「……いや、あの」
「あなた方を、帝国に差し出せと申し上げたのは、この老骨です」
バルトロメウスは、頭を下げたまま、続けた。
「一生かけて詫びると、申しました。――ですが、詫びる前に、礼を申し上げねばなりませぬ」
顔を上げる。
その目が、少しだけ、赤かった。
「ベルリアを、守っていただき――そして、我が主を、領主にしていただき。……ありがとう、ございました」
雷夕は、首を横に振った。
「領主にしたのは、俺じゃないです」
暖炉の前で、ガストンが、ボリスと肩を組んで、調子外れの歌を歌っていた。
その向こうで、フェリクスが、エマに袖を引かれて、困ったように笑っていた。
「――あの子が、自分でなったんです」
バルトロメウスは、しばらく、雷夕の顔を見つめていた。
それから、ふっと、白い顎髭の奥で、口元を緩めた。
「……左様ですな」




