第17話 焦土に、芽吹く
カチリ、と。
乳白色の歪んだ球が、腕輪の留め具に、嵌まった。
その瞬間。
――ドクンッ。
心臓が、一つ、大きく跳ねた。
腕輪から、何かが流れ込んでくる。
熱くはない。冷たくもない。ただ、自分のものではない何かが、空っぽになった器の底に、とくとくと注がれていく。
(――ロゼリアの、魔力)
砦の時と、同じ感覚だった。
器に、他人の酒を注ぐようなもの。
量は足りる。味は、保証しない。
*
「――何だい、それは」
ディートリヒが、足を止めた。
ケインの大盾の向こうで、目を細めている。
「石? 魔道具か。……イヴァルキアの玩具だね」
煤けた籠手を、軽く振る。
「何を出す気か知らないが――出る前に、燃やせばいい」
右足が、上がった。
*
雷夕は、目を、ディートリヒの足元に向けた。
炎の海。
燃える草。
地面の隙間という隙間を、蛇のように這い回る、赤い線。
(――写せ)
――いや。
違う。
砦で、蓄魔石を最後に使った時。
狙って写したリヴァールの重撃は、重さが消えて、体が浮きかけた。
制御を超えて、暴れた。
一昨日は、狙って写した焦土が、薄い霜に化けた。
さっきは、熱のない光に化けた。
狙えば、外れる。
狙った形には、ならない。
――だったら。
(狙うな)
*
グレンタと戦った夜。
ケインがズタボロにされて、肩を斬られて、勝てる目が一つも見えなかった、あの夜。
何も考えずに、ただ、体が勝手に動いた。
シュタイン村の、魔物との死闘。
剣を捨てて、狙うことすら放棄した、あの瞬間。
劣化が一番強く牙を剥くのは、いつだって――狙うのを、やめた時だった。
(考えるな)
雷夕は、目を閉じた。
*
――瞼の裏に、浮かんだものがあった。
炎ではなかった。
焦げた旗だった。
青地に、白い紋章の端。トマスが、遠くの国の人に伝えてくれと託された、あの布。
広場の天幕の前に並んでいた、小さな石だった。
一日に一個ずつ。もうすぐ、三十個。
母親の手から、こぼれ落ちた石だった。
濡れた石畳の上で、からん、と跳ねた、最後の一個。
燃えていく町だった。
見たことのない、カランドの国境の町。粉屋の麦藁。鍛冶屋の炭の山。戸口の鉢植え。
それから――。
焚き火の上で、湯気を立てる、大きな鍋。
麦の匂い。
(――麦)
ベルリアの旗に縫い取られた、金の麦の穂。
ガストンの傭兵団の野営地で、毎朝、毎晩、炊き続けた麦粥。
三年前、酒場の裏で拾われた夜に、初めて食わされた、あの一杯。
燃やされるために、育つものなんか、一つもない。
*
ダンッ――!!
ディートリヒの足が、地面を踏み抜いた。
炎の筋が、雷夕へ向かって、一直線に走ってくる。
ケインの大盾の、脇をすり抜けて。
地面の隙間を、這うように。
雷夕は、目を閉じたまま――。
ただ、手のひらを、地面についた。
狙わなかった。
何も、考えなかった。
ただ、焼けた土に、手のひらを、そっと置いた。
*
――トクン。
土の下で、何かが、脈打った。
*
最初に気づいたのは、ケインだった。
大盾の脇をすり抜けてきた炎の筋が――雷夕の手のひらの、ほんの一歩手前で、止まった。
いや。
止まったのではない。
炎の筋が走ってきた、その地面の隙間から――。
緑色の、何かが。
ぷつり、と。
顔を、出していた。
*
芽、だった。
小さな、小さな、双葉の芽。
焼けた土の隙間から、ぷつり、ぷつりと、次々に顔を出していく。
一つ。
二つ。
十。
百。
――ザワッ。
音がした。
草が、伸びる音だった。
ザワザワザワザワザワッ――!!
*
緑が、走った。
雷夕の手のひらを中心に、放射状に。
焼けた草地を、炎の筋が這った跡を、地面の隙間という隙間を――ディートリヒの炎が走ったのと、そっくり同じ道筋を辿って。
ただし、赤ではなく、緑で。
炎ではなく、芽吹きで。
焦げた土の隙間から、草が噴き出す。
石の継ぎ目から、蔓が這い上がる。
轍の溝から、根が、ぐねぐねと地表を突き破って、盛り上がっていく。
炎の筋の上を、緑が、塗り潰していった。
じゅうっ――と。
炎が、瑞々しい若草に触れて、湯気を立てて消えていく。
樹液をたっぷりと孕んだ若い茎は、燃えなかった。燃えようとした炎を、その水気で、逆に呑み込んでいった。
*
「――な」
ディートリヒの声が、初めて、上擦った。
「何だ、これは――!」
足元を、見下ろす。
炎の海が、消えていた。
いや、消えていくのが、見えていた。
彼の周り、半径十歩の、燃え盛っていた地面。その縁から、緑の波が、ザワザワと音を立てて押し寄せてくる。燃える草の根元から、新しい草が噴き出し、燃える草ごと、炎を、緑の中に呑み込んでいく。
「――燃えろ!」
ディートリヒが、地面を踏んだ。
ダンッ!
炎の筋が、噴き出す。
噴き出した、その瞬間に――炎が走ろうとした地面の隙間から、根が、噴き出した。
隙間が、ない。
炎が這うための隙間を、根が、全部、塞いでいた。
行き場を失った炎が、ディートリヒの足元で、ぶすぶすと燻って、消えた。
*
(――隙間を、塞いでる)
雷夕は、目を開けていた。
地面についた手のひらの下から、温かい何かが、脈打ちながら、どこまでも広がっていくのを感じていた。
ロゼリアの言葉が、頭の奥で蘇った。
――あの炎はね、地面の隙間を伝ってる。
炎は、隙間を伝う。
なら、隙間が、全部、根で埋まっていたら。
(――これ、俺が狙ったわけじゃねえからな)
笑いそうになった。
狙ってない。
考えてもいない。
ただ、焼けた土に、手を置いただけだ。
それなのに――劣化は、焼き尽くす力を、芽吹かせる力に、変えていた。
*
「――燃えろ、燃えろ、燃えろォッ!!」
ディートリヒが、狂ったように、地面を踏み続けていた。
ダンッ! ダンッ! ダダンッ!
そのたびに、足元から、ぶすぶすと、白い煙が上がるだけだった。
炎は、走らなかった。
走るはずの道が、緑に、塞がれていた。
そして――。
ディートリヒの足首に、何かが、絡みついた。
*
根だった。
地面から噴き出した、太い根。
それが、彼の足首に、ぐるりと巻きついていた。
「――ッ!?」
足を、引き抜こうとする。
抜けない。
根が、締まる。
もう一本。もう一本。
脛へ。膝へ。
地面を踏み鳴らすたびに、その振動に応えるように、新しい根が噴き出して、彼の足に絡みついていく。
「離せ――離せッ! 何だ、これは!! 私の、私の炎が――!」
*
「――お前の炎だよ」
雷夕は、地面に手をついたまま、言った。
声が、掠れていた。
蓄魔石から流れ込んでくる魔力が、手のひらから、とめどなく地面へ流れ出していく。止められない。止め方も、分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「お前の焦土を写して、劣化させた。――劣化すると、どうなるか、俺にも分かんねえんだよ。だから」
雷夕は、ディートリヒを見上げた。
「焼き尽くす力が、劣化したら――育てる力になった。ただ、それだけだ」
*
ディートリヒの顔が、歪んだ。
初めて見る顔だった。
軽くも、明るくも、愉しげでもない。
ただ、理解できないものを前にした、子供のような顔だった。
「……そんな、馬鹿な」
根が、腰まで這い上がっていた。
「焦土が、草に……? 私の、炎が……そんな、馬鹿な、ことが……!」
両の籠手で、絡みつく根を、引き千切ろうとする。
煤けた籠手が、根を掴む。
――その籠手の指の間からも、ぷつり、と。
小さな、双葉の芽が、顔を出した。
*
「――坊主」
声が、した。
炎の海の縁――今は、緑の草地の縁で。
ガストンが、立ち上がっていた。
左腕は、だらりと垂れ下がっている。袖は焼け落ち、その下の皮膚は、赤黒く焼けただれている。
右手一本で、大斧を、肩に担いでいた。
「――品切れじゃ、なくなったなあ」
髭の奥で、にやりと笑っていた。
*
ガストンが、歩き出した。
緑の草地を、一歩、一歩。
その足元で、草が、さわさわと揺れる。
燃え残りの煙が、緑の中で、細く立ち上っている。
ディートリヒが、ガストンに気づいた。
根に絡め取られたまま、顔を上げる。
「――待て」
その声が、震えていた。
「待て。降伏する。降伏しよう。私は帝国の将だ。捕虜にすれば、身代金が――ヴォルフガング様に掛け合えば、いくらでも――」
ガストンは、足を止めなかった。
「――カランドの連中もな」
低い声だった。
「降伏の鐘を、鳴らしたそうだぜ」
*
ディートリヒの顔から、血の気が引いた。
根が絡みついた右足を、渾身の力で、地面に叩きつける。
ダンッ――!!
最後の炎が、噴き上がった。
ガストンの目の前に。
炎の壁が、立ち上がる――。
――ドゴォォォッ!!
炎の壁が、横から、真っ二つに叩き割られた。
リヴァールだった。
焼け焦げた右腕で、剣を振り抜いた姿勢のまま、草地の上に、片膝をついていた。
「――行け」
短く、言った。
*
ガストンが、炎の壁の裂け目を、くぐった。
右手一本で、大斧を、高く振りかぶる。
ディートリヒの目が、見開かれた。
根に絡め取られた体は、もう、一歩も動かない。
「――やめ」
ブォンッ――!!
大斧が、振り下ろされた。
*
――静かだった。
ディートリヒ・ヴァイスの体が、緑の草の上に、崩れ落ちていた。
煤けた籠手が、草の中に、投げ出されている。
その指の間から顔を出した、小さな双葉の芽が。
朝の風に、そよそよと揺れていた。
ガストンは、大斧を地面に突き立てて、それに縋るように、立っていた。
荒い息を、吐いている。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ぼそりと呟いた。
「――斧の刃が、欠けちまった」
*
雷夕は、まだ、地面に手をついていた。
手のひらの下から、温かい何かが、まだ流れ出していた。
止まらない。
緑が、広がっていく。
ディートリヒが倒れた場所を越えて。
帝国の正規兵の槍衾の足元まで。
燃え残っていた草地が、次々と、若草に塗り替えられていく。焼け焦げた征用兵たちの――黒い塊の上にも、草が、そっと覆い被さっていく。
まるで、毛布を掛けるように。
(――止まらねえ)
腕輪の留め具が、軋んだ。
ピシッ――。
蓄魔石に、罅が入る音がした。
ピシピシッ、ピシピシピシッ――!
*
「――雷夕!!」
ロゼリアが、草地を駆けてくる。
雷夕は、顔を上げようとした。
上がらなかった。
視界の端が、ぐらぐらと揺れていた。
草の緑と、空の青と、誰かの影が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
――パキンッ。
腕輪の上で、蓄魔石が、砕けた。
手のひらの下の脈動が、ふっと、途切れた。
*
体が、傾いた。
草の上に、倒れ込む。
柔らかかった。
焼けた土の上に倒れたはずなのに、頬に触れたのは、若草の、ひんやりとした柔らかさだった。
青臭い、草の匂いがした。
(――ああ)
遠くで、誰かが、叫んでいた。
帝国の兵の声だった。
「閣下が――!」「退け、退け!」と、ばらばらに叫ぶ声。整然としていた足音が、乱れ、崩れ、遠ざかっていく。
荷馬車の壁の向こうから、歓声が上がっていた。
ボリスの声。カスパーの声。
それから――ヤンの母親の、泣き声。
(――勝った、のか)
分からなかった。
確かめる前に、瞼が、重くなった。
*
最後に見えたのは、ロゼリアの顔だった。
雷夕の顔を覗き込んで、煤だらけの顔で、何かを怒鳴っている。
たぶん、「生きてる!?」とか、「返事!」とか、そういうことだ。
それから、たぶん――。
「何をどう写したの。全部、見てたけど、全部、意味が分からなかった」とか。
(――今、それ、聞くか)
雷夕は、笑おうとした。
笑う前に、意識が、すとんと落ちた。
若草の匂いの中で。




