第16話 逃げる者は、後ろから
ディートリヒの右足が、上がった。
ゆっくりと。
まるで、虫を踏み潰す前の子供のように。
門の跡の外の草地には、まだ、数十人の征用兵が取り残されていた。
足に矢を受けて、這うことしかできない者。恐怖で腰が抜けて、座り込んだまま動けない者。仲間を担ごうとして、その重さに膝をついた者。
その全員が、ディートリヒの方を、振り返っていた。
――やめろ。
雷夕の喉から、声にならない声が漏れた。
――やめろ、やめろ、やめろ。
ダンッ――!!
*
炎が、走った。
今度は、門の方へではなかった。
ディートリヒの足元から、放射状に――取り残された征用兵たちの、足元へ。
「――あ」
座り込んでいた若い男が、自分の方へ走ってくる赤い線を見て、小さく声を漏らした。
それが、最後の声になった。
ゴォォォォォッ――!!
炎が、噴き上がった。
一人。
二人。
五人。
悲鳴が、草地に響き渡った。
人の形をした炎が、のたうち、転がり、そして――動かなくなっていく。
*
荷馬車の壁の内側で、誰かが、絶叫した。
駆け込んできた征用兵の一人だった。
壁の隙間から、燃えていく仲間を見て、荷馬車にしがみついて叫んでいた。
「ヴィリー! ヴィリーッ! ――あああああッ!!」
カスパーが、両手で顔を覆って、その場に崩れ落ちた。
ヤンが、母親の腕の中で、目を見開いたまま、凍りついていた。
雷夕は――。
気づいた時には、荷馬車の荷台の上に、足をかけていた。
*
「――雷夕!」
ロゼリアの声。
聞こえていた。
聞こえていたが、足は止まらなかった。
荷台を蹴る。
荷馬車の壁の外側へ、飛び降りる。
足元は、油だった。
着地した瞬間、靴底が、つるりと滑った。
「――っ!」
膝をつく。手をつく。手のひらが、ぬらりと油に濡れる。
それでも、這うように、前へ。
油の溜まりの縁を越える。
乾いた草地に、足が届く。
立ち上がる。
走った。
*
燃えている男が、いた。
まだ、動いていた。
草の上を転げ回りながら、炎を消そうと、自分の体を叩いている。
雷夕は、腰の袋から、ロゼリアに持たされていた霧の瓶を掴み出した。
叩きつける。
パリンッ――ブワッ!
白い霧が、男の体を包んだ。
炎が、じゅうっと音を立てて、細くなる。
雷夕は、外套を脱いで、男の体に被せた。
上から、叩く。叩く。叩く。
炎が、消えた。
男は、外套の下で、ひゅう、ひゅう、と浅い息をしていた。
――生きていた。
*
「――坊主ッ! 一人で出るんじゃねえッ!」
背後から、ガストンの怒号。
振り返ると、荷馬車の壁を、ガストンが乗り越えてくるところだった。
吊っていた左腕の布を引き千切り、右手一本で大斧を担いで。
その後ろから、リヴァールが。
ケインが。
ロゼリアが、霧の瓶の詰まった木箱を抱えて。
「――ケイン殿! 倒れてる奴を、壁の中へ!」
リヴァールが叫ぶ。
ケインが、雷夕の外套に包まれた男を、肩に担ぎ上げた。
ロゼリアが、燃えている征用兵たちの方へ、霧の瓶を投げていく。
パリンッ、パリンッ、パリンッ――。
*
「――いいね」
声がした。
軽く、明るい声。
けれど、その声には、もう、愉しげな響きはなかった。
「実に、いい。わざわざ、壁の外へ出てきてくれた」
ディートリヒ・ヴァイスが、草地の向こうに立っていた。
その後ろで、帝国の正規兵の槍衾が、ようやく隊列を立て直しつつある。
ディートリヒは、煤けた籠手で、額に落ちた前髪を払った。
「劣化の傭兵。――霧島雷夕、だったね」
雷夕は、剣を握り直した。
「……ああ」
「会いたかったよ」
ディートリヒは、にこりと笑った。
その目は、笑っていなかった。
*
「――なんで、燃やした」
雷夕の声は、自分でも驚くほど、低かった。
「あいつら、お前の兵だろ。お前が、槍持たせて、前に立たせた兵だろ。――なんで、燃やした」
「逃げたからだよ」
ディートリヒは、事もなげに言った。
「逃げる者は、後ろから焼く。最初に、そう言っておいた。言ったことは、守らなければね。――でないと、次の征用兵が、言うことを聞かなくなる」
「……次の」
「そう。次の町の、次の征用兵だ」
ディートリヒは、草地の上で燻っている、黒い塊を、顎でしゃくった。
「今日、ここで燃えた連中は、教訓になる。次の町の征用兵は、逃げたらこうなると知る。だから、逃げない。逃げないから、戦が早く終わる。早く終わるから、人が死なない」
本気で、そう言っているのだと分かった。
だからこそ。
雷夕の中で、何かが、ぶつりと切れた。
*
「――お前の言う"人が死なない"の中に」
雷夕は、一歩、踏み出した。
「今、燃えた奴らは、入ってねえのかよ」
ディートリヒは、首を傾げた。
「入っていないね」
あっさりと。
「彼らは、数に入らない。教訓だから」
*
「――話は、終わりだ」
リヴァールの声が、雷夕の隣で響いた。
剣を抜いている。
その反対側に、ガストンが、大斧を構えて立っていた。
「強硬派の将と、言葉で分かり合う気はない。――騎士団にいた頃から、そう決めている」
ディートリヒの目が、リヴァールに向いた。
「……ほう。君、帝国の人間か」
「元、だ」
「離反者か。なら、なおさら、燃やし甲斐がある」
ディートリヒの右足が、上がった。
*
「――散れッ!」
リヴァールの声と同時に、三人は、左右に跳んだ。
ダンッ――!!
ゴォォッ!
さっきまで三人が立っていた場所を、炎の筋が、三本、駆け抜けていく。
雷夕は、草地の上を転がって、立ち上がった。
(――速え!)
一昨日、城壁の上から見ていた時とは、まるで違う。
近い。熱い。炎の筋が、目の前を、蛇のように這い回っている。
ガストンが、大斧を振りかぶって、真っ直ぐに突っ込んでいた。
「――うおおおおおッ!!」
ディートリヒが、左足で、地面を踏む。
ダンッ!
ガストンの目の前の地面から、炎の壁が、噴き上がった。
「――ちッ!」
ガストンが、斧を盾にして、炎の壁に突っ込む。
焼けただれた左腕に、また、炎が燃え移った。
それでも、止まらなかった。
炎の壁を、突き抜けた。
*
大斧が、振り下ろされた。
ブォンッ――!
ディートリヒが、後ろへ跳ぶ。
刃が、鼻先を掠めた。
赤い前髪が、数本、宙に舞った。
「――おっと」
ディートリヒは、着地しざまに、右足で地面を踏んだ。
ダンッ!
ガストンの足元から、炎の筋が噴き上がる。
ガストンが、横へ転がる。
転がった先の草が、燃え上がる。
その隙に――。
リヴァールが、ディートリヒの背後へ、回り込んでいた。
*
剣が、振るわれた。
速さは、普通だった。
その一太刀が、ディートリヒの背中へ――。
届く、直前。
ディートリヒが、振り返りもせずに、踵で、地面を打った。
ダンッ!
リヴァールとディートリヒの間に、炎の壁が噴き上がる。
剣が、炎の壁に叩き込まれた。
――ドゴォォッ!!
重撃。
見えない鉄槌の一撃が、炎の壁を、真っ二つに叩き割った。
炎が、左右に吹き飛ぶ。
その向こうに、ディートリヒの、驚いたような顔があった。
*
「――へえ」
ディートリヒが、後ろへ跳んで、距離を取った。
その籠手の甲に、薄く、焦げとは違う傷が走っていた。
重撃の余波が、掠めたのだ。
「炎を、叩き割るのか。面白い」
ディートリヒは、籠手の甲の傷を、ぺろりと舐めた。
「――だが」
両足で、同時に、地面を踏んだ。
ダダンッ――!!
*
地面が、燃えた。
ディートリヒの周り、半径十歩ほどの地面が、一斉に、炎を噴き上げた。
炎の筋ではない。
炎の、海だった。
草地が、真っ赤に燃え上がる。熱風が、顔面を叩く。息を吸うと、喉が焼けるように痛い。
リヴァールが、炎の海に呑まれかけて、後ろへ跳んだ。
外套の裾が、燃えていた。
ガストンが、炎の海の縁で、膝をついていた。
左腕の火傷が、さらに広がっている。大斧を地面に突き立てて、それに縋るようにして、どうにか体を支えていた。
「――近づけねえ……!」
*
炎の海の真ん中で、ディートリヒが、笑っていた。
また、あの、軽く、明るい笑い方に戻っていた。
「さあ、どうする? 斧の男は、もう腕が一本しかない。剣の男は、炎を叩き割れても、炎の海は割れない」
煤けた籠手を、ひらひらと振る。
「――劣化の傭兵。君は、何もしないのかい?」
雷夕は、炎の海の縁で、剣を握りしめていた。
(――写せ)
あの炎を。
『焦土』を。
一昨日は、薄く広い霜に化けて、何の役にも立たなかった。
今度は、どう化けるか分からない。
(――分からなくても、やるしかねえだろ!)
*
目を、ディートリヒの足元に向けた。
炎の海。
その源の、両足。
腕輪の留め具が、手首の上で、熱を帯びる。
「――『劣化』ッ!!」
手のひらに、魔力が渦を巻いた。
写し取った。
――ズン、と。
体の底から、何かを持っていかれる感覚。
雷夕は、手のひらを、炎の海へ向けて突き出した。
――パァァッ!
光、だった。
手のひらから、白い光が、閃光のように弾けた。
熱は、なかった。
炎の色も、なかった。
ただ、眩しかった。
真っ白な光が、炎の海の上を、一瞬だけ覆い尽くした。
「――ッ!?」
ディートリヒが、腕で目を庇った。
*
(――今だ!)
「リヴァールッ!」
叫ぶより早く、リヴァールが、動いていた。
炎の海の縁を、蹴る。
目を庇ったディートリヒの、懐へ。
剣が、振るわれた。
――その瞬間。
ディートリヒが、目を庇ったまま、右足で、地面を踏み抜いた。
ダンッ――!!
リヴァールの足元から、炎が、噴き上がった。
「――ぐッ!」
リヴァールの体が、炎の柱に弾き飛ばされた。
草地の上を、二度、三度と転がって、止まる。
剣を握った右腕の袖が、燃えていた。
*
「――見えなくても、ね」
ディートリヒが、目を庇っていた腕を、ゆっくりと下ろした。
まだ、少し目を細めている。
それでも、その口元は、笑っていた。
「地面を伝ってくる足音で、どこに誰がいるかくらいは、分かるんだよ。――何年、この力と付き合っていると思う?」
雷夕は、膝をついていた。
視界が、ぐらぐらと揺れている。
(――持っていかれた)
閃光は、炎の海全体を覆った。
範囲だけが、また、広かった。
その分だけ、魔力が、ごっそりと抜けていた。
もう、自分の器には、ほとんど何も残っていない。
*
「――雷夕ッ!」
ケインが、駆けてきた。
大盾を構えて、雷夕の前に立つ。
ディートリヒが、楽しげに首を傾げた。
「護衛か。健気だね」
右足が、上がる。
ダンッ――!
炎の筋が、ケインの大盾へ向かって、真っ直ぐに走った。
ケインが、盾を、地面に叩きつけるように構える。
ゴォッ!
炎が、盾にぶつかって、左右に裂けた。
裂けた炎が、ケインの両脇を舐めていく。
盾の縁から、熱が伝わって、ケインの籠手が、じゅうっと音を立てた。
ケインは、退かなかった。
歯を食いしばって、盾を構えたまま、一歩も。
*
「――一つ、教えてあげよう」
ディートリヒが、ゆっくりと歩いてきた。
炎の海が、彼の足元で、波のように揺れている。
「君たちは、甘い。征用兵を斬らずに引き込んだ。逃げてきた兵を、壁の内側へ匿った。燃えている兵を、わざわざ壁の外へ出てきて、助けようとした」
一歩。
「その甘さが、君たちを、壁の外へ引きずり出した。――壁の内側にいれば、まだ、もう少し粘れたのにね」
一歩。
「リンデンの爺さんも、甘かった。だから、負けた。――甘い者は、いつだって、甘さのせいで負けるんだよ」
*
雷夕は、ケインの背中越しに、ディートリヒを見上げていた。
炎の海。
燃える草。
黒く焦げた、征用兵たちの――。
(――甘い、か)
ガストンが、炎の海の縁で、大斧に縋って、膝をついている。
リヴァールが、草地の上で、燃える袖を叩き消しながら、立ち上がろうとしている。
ロゼリアが、荷馬車の壁の手前で、最後の霧の瓶を握りしめて、こちらを見ている。
荷馬車の壁の向こうで、母親と抱き合ったまま、ヤンが、こちらを見ている。
カスパーが、見ている。
フェリクスが、荷馬車の上で、見ている。
(――甘くて、悪いかよ)
雷夕は、懐に、手を入れた。
指先が、小さな木箱に触れた。
乳白色の、歪んだ球。
細い溝が、幾筋も走っている。
ロゼリアの魔力が詰まった、たった一つの――。
*
「――ロゼリアッ!!」
雷夕は、叫んだ。
荷馬車の壁の手前で、ロゼリアが、びくりと肩を震わせた。
「使うぞッ!!」
一拍。
ロゼリアの目が、見開かれた。
それから――彼女は、霧の瓶を握りしめたまま、叫び返した。
「――使いなさいッ!! どう化けても、全部、見ててあげるからッ!!」
雷夕は、木箱の蓋を、親指で弾き開けた。




