第15話 槍を捨てて、こっちへ
夜明け前の坂道は、水の匂いがした。
北門の跡から、町の中へ続く石畳の坂。
その一面が、黒く濡れて光っていた。
夜通し、町の人間が総出で、貯水槽から水を運んだ。桶で、樽で、鍋で。石畳の継ぎ目という継ぎ目に、水と泥を流し込み、箒で掃き込み、また水を流した。
坂の両脇の家々の壁にも、水が撒かれていた。
軒下の干し草は、全部取り払われていた。窓という窓に、濡らした布が掛けられていた。
雷夕は、坂の途中に積み上げられた樽の陰で、剣の柄を握っていた。
指先が、冷たかった。
水の冷たさなのか、それとも、別の何かなのか。
自分でも、よく分からなかった。
*
北門の跡の、すぐ内側。
荷馬車が、六台、並んでいた。
トマスの隊商の荷馬車だった。幌を外し、荷台を空にして、門の跡の両脇の壁際に、三台ずつ寄せてある。車輪の楔を一本抜けば、すぐに門の跡の真ん中へ押し出せるように。
その荷馬車の陰に、自警団の若い連中が、身を伏せていた。
荷馬車の一台の上に、フェリクスが立っていた。
父親の緑の上着の上に、ロゼリアの燃えにくい灰色の布を、外套のように羽織っている。その脇に、ケインが、大盾を構えて控えていた。
少年の顔は、白かった。
けれど、目は、北を向いていた。
*
「――来るわよ」
雷夕の隣で、ロゼリアが、低く言った。
樽の陰に、素焼きの瓶の詰まった木箱を三つ並べている。霧の瓶。滑る油の瓶。それぞれの木箱の蓋に、読みにくい字で、何かが書きつけてある。
北の草地の向こうから、足音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、ザッ、と。
不揃いで、重たくて、引きずるような足音。
一昨日と、同じだった。
その後ろから、もう一つの足音。
ザッ、ザッ、ザッ、と。
こちらは、揃っていた。
一分の乱れもなく、規則正しく。帝国の正規兵の、足音だった。
*
城壁の上の見張り台から、ボリスの声が降ってきた。
「――征用兵、およそ三百! その後ろに、正規兵、千……いや、もっといる!」
一拍。
「真ん中に、黒い馬! ――あいつだ!」
雷夕の指が、剣の柄を、ぎりと握りしめた。
*
征用兵の列が、北門の跡の前、百歩ほどのところで止まった。
明け始めた薄明かりの中で、その顔が見えた。
一昨日よりも、さらに疲れ切った顔だった。
一昨日よりも、さらに怯えた顔だった。
列の後ろで、帝国の正規兵が、槍衾を作っている。その穂先は、やはり、征用兵の背中に向けられていた。
そして、その槍衾の真ん中に、黒い軍馬が一頭。
ディートリヒ・ヴァイスは、鞍の上で、濡れて光る北門の坂を、楽しげに眺めていた。
「――ほう」
よく通る声が、朝の空気を渡ってきた。
「水か。……考えたね。考えたが、無駄だよ」
ひらりと、鞍から降りる。
征用兵の列の後ろ。
正規兵の槍衾の、ほんの少しだけ前。
征用兵を、盾にしたまま。
「では――」
右の足が、地面を、踏んだ。
*
ダンッ――!!
ゴォォォッ――!
炎の筋が、走り出した。
征用兵たちの足元を、縫うように。
悲鳴が上がった。征用兵たちが、自分たちの足の間を走り抜けていく炎に、飛び上がって身を捩る。炎は彼らを避けて――避けて、というより、彼らなど目に入っていないかのように――北門の跡へ、一直線に駆けていく。
十本。二十本。三十本。
門の跡の、焼け焦げた石の上を越えて。
濡れた坂へ。
――じゅうううううううッ!!
白い湯気が、爆発するように立ち上った。
炎の筋が、濡れた石畳に触れた瞬間、悲鳴のような音を立てて、勢いを失う。継ぎ目に詰められた泥と水が、炎の行く手を塞いでいた。
止まりは、しなかった。
それでも――遅い。
一昨日、一瞬で門を舐め上げた炎が、濡れた坂の上を、這うように、のろのろと進んでいく。
*
「――今よ!」
ロゼリアが、霧の瓶を、坂の上へ投げた。
パリンッ――ブワッ!
白い霧が、炎の筋の上に、覆い被さる。
湯気と霧が混じり合い、坂の上が、真っ白に煙った。
炎の筋が、その中で、さらに細くなる。一本、また一本と、ちりちりと燻って、消えていく。
全部ではない。
霧の外れを、何本かの炎の筋が、すり抜けてくる。
それを、自警団の若い連中が、濡らした布で、叩いて潰していく。
「――消える! 消えるぞ!」
「布で叩け、叩けばいける!」
(――効いてる)
雷夕は、樽の陰から身を乗り出した。
湯気の向こう。
ディートリヒの顔から、ほんの一瞬だけ、笑みが消えるのが見えた。
*
「――フェリクス殿!」
リヴァールの声が、坂の上に響いた。
「今だ!」
荷馬車の上で、少年が、大きく息を吸った。
ケインが、大盾を掲げて、少年の前に立つ。
フェリクスは、ケインの盾の陰から、身を乗り出した。
そして、叫んだ。
「――カランドの皆さんッ!!」
*
少年の声は、細かった。
掠れていた。
それでも、朝の空気を裂いて、北門の跡の向こうまで、確かに届いた。
征用兵たちが、顔を上げた。
「私は、ベルリア領主、フェリクスです! ――聞いてくださいッ!!」
帝国の正規兵の列が、ざわめいた。
「槍を捨てて、この門をくぐった者は、誰であれ、敵として扱いません! ベルリアの民として、匿います! 帝国が何を言ってきても、決して、引き渡しませんッ!!」
征用兵たちの列が、揺れた。
隣の者と、顔を見合わせる者。
後ろの槍衾を、怯えたように振り返る者。
「あなた方の家族は、ここにいますッ! お母さんも、妹さんも、ここで待っていますッ!!」
*
――ヒュンッ!
矢が、飛んできた。
帝国の正規兵の列から。少年を、狙って。
ガンッ――!
ケインの大盾が、それを弾いた。
二本目。三本目。
ガンッ、ガンッ!
ケインは、一歩も退かなかった。
盾の陰で、少年の体を、自分の体で覆うようにして。
「――続けてください、フェリクス様!」
フェリクスは、盾の縁から、また身を乗り出した。
「槍を捨てて、こっちへ――ッ!!」
*
征用兵たちは、動かなかった。
動けなかった。
後ろには、槍衾がある。
逃げようとした者が、背中から射られるのを、彼らは一昨日、目の前で見ていた。
列の中で、一人の若い男が、震えていた。
槍を、握りしめたまま。
――その時だった。
門の跡の内側から、別の声が、上がった。
*
「――ヤンッ!!」
女の声だった。
荷馬車の陰から、一人の女が、飛び出していた。
ケインの制止も、自警団の連中の手も振り切って。
門の跡の、焼け焦げた石の上に、立っていた。
エマの、母親だった。
「ヤン! ヤン、いるんでしょう!? お母さんよ! ここにいるわよッ!!」
煤けた頬を、涙で濡らしながら。
片手に、小さな石を、握りしめて。
「エマも無事よ! 南の村に逃げたの! ――だから、帰ってきて! 槍なんか捨てて、帰ってきなさいッ!!」
*
征用兵の列の中で、一人の若い男の手から、槍が落ちた。
カラン、と。
乾いた音が、朝の草地に響いた。
男は、門の跡に立つ女を、呆然と見つめていた。
「……母、さん……?」
ヤンだった。
煤と泥にまみれた顔。
縄の痕が残る手首。
二十日以上、毎日、毎日、壁になれと叩き込まれ続けてきた若者が――震える足で、一歩、前へ踏み出した。
「――母さんッ!!」
駆け出した。
*
「逃げるな! 戻れッ!」
帝国の正規兵の怒号。
弓が、引き絞られる。
駆け出したヤンの背中へ。
「――させるかよッ!」
雷夕は、樽の陰から飛び出していた。
坂を駆け下りる。濡れた石畳に、足が滑りかける。踏ん張る。門の跡を越える。
ヤンの背中へ向かって飛んでくる、矢。
剣を、振った。
キィンッ――!
一本、叩き落とした。
二本目。
キィンッ――!
三本目は、間に合わなかった。
――ドゴォッ!
横から割り込んできた何かが、矢ごと、空気を薙ぎ払った。
リヴァールの剣だった。
重撃の一閃が、矢を、その先の空気ごと、叩き潰していた。
「――走れ!」
リヴァールが、ヤンに向かって、短く叫んだ。
*
ヤンが、門の跡を、駆け抜けた。
母親が、両腕を広げて、待っていた。
二人が、ぶつかるように抱き合った。
母親が、何かを叫んでいた。
ヤンも、何かを叫んでいた。
言葉には、なっていなかった。
母親の手から、小さな石が、こぼれ落ちた。
濡れた石畳の上で、からん、と小さく跳ねた。
――それが、合図になった。
*
征用兵の列が、崩れた。
一人が、槍を捨てた。
二人目が、捨てた。
三人目、四人目、十人目――。
カラン、カラン、カランカランカランッ――!
槍が、次々と、草地の上に投げ捨てられていく。
征用兵たちが、一斉に、門の跡へ向かって駆け出した。
悲鳴を上げながら。泣きながら。名前を叫びながら。
「――母ちゃん!」
「帰る! 帰るんだ!」
「ベルリアへ――!」
*
「戻れ! 戻れェッ!!」
帝国の正規兵が、弓を引く。
だが、三百人が、一斉に駆け出したのだ。
狙いが、定まらない。
矢が、何本か、征用兵の背中に突き立った。倒れる者がいた。
倒れた者を、隣の者が担いで、また走った。
「――霧を!」
ロゼリアが、坂の上から、霧の瓶を、門の跡の外へ向かって次々と投げた。
パリンッ、パリンッ、パリンッ――ブワワワッ!
白い霧が、門の跡の前に、壁のように立ち込める。
帝国の弓兵の視界が、霧に呑まれた。
その霧の中を、征用兵たちが、次々と門の跡へ駆け込んでくる。
*
雷夕は、門の跡の脇に立って、駆け込んでくる征用兵たちを、内側へ押し込んでいた。
「中へ! 坂の上まで走れ! 止まるな!」
カスパーの姿が、坂の上に見えた。
自警団の連中と一緒に、駆け込んできた征用兵たちを、坂の上へ誘導している。同じ町の、知った顔を見つけるたびに、名前を叫んでいる。
ボリスが、城壁の上から、弓を下ろして、それを見ていた。
欠けた前歯を噛みしめて。
(――撃たなくて、いいんだ)
そう思っているのが、表情で分かった。
*
最後の一団が、門の跡を駆け抜けた。
二百人。
いや、もっとだ。二百五十は、いる。
門の跡の外の草地に、取り残された征用兵が、まだ何十人か残っていた。
負傷して走れない者。恐怖で、足が竦んで動けない者。帝国の正規兵に、腕を掴まれて引き戻された者。
(――全員は、無理か)
雷夕は、奥歯を噛んだ。
「――塞げぇッ!!」
ガストンの怒号が、坂の上から轟いた。
*
ガゴンッ――!
荷馬車の車輪の楔が、一斉に引き抜かれた。
自警団の連中が、荷馬車の後ろに肩を当てて、押し出す。
ゴロゴロゴロゴロッ――!
六台の荷馬車が、門の跡の両脇から、真ん中へ向かって転がり出た。
ガシャアンッ!!
荷台と荷台が、門の跡の真ん中で、ぶつかり合って止まる。
即席の、壁だった。
「――油!」
ロゼリアが、灰色の瓶を、荷馬車の壁の外側へ、次々と投げ落とした。
パリンッ、パリンッ――。
ぬらぬらと光る液体が、門の跡の外の地面に、一面に広がっていく。
霧の中から、帝国の正規兵が、荷馬車の壁へ向かって突進してきた。
その足が、一斉に、滑った。
「――うわっ!?」
「何だ、これ、足が――!」
ずるり、ずるりと。
鎧を着込んだ重い体が、てらてらと光る地面の上で、次々と転倒していく。
*
霧が、少しずつ、晴れていった。
門の跡の外の草地が、見えてきた。
捨てられた槍が、何百本も、草の上に散らばっている。
油に足を取られて、転がった帝国兵たち。
その後ろで、隊列を立て直そうとする、正規兵の槍衾。
そして――。
その槍衾の、真ん中。
ディートリヒ・ヴァイスが、一人で、立っていた。
*
笑っていなかった。
あの、軽く、明るく、ほとんど愉しげですらあった顔から――笑みが、すっかり消えていた。
煤けた籠手が、だらりと下がっている。
その目が、荷馬車の壁を見ていた。
壁の向こうで、母親と抱き合って泣いている、征用兵たちを見ていた。
それから、ゆっくりと――。
まだ、門の外の草地に取り残されている、数十人の征用兵の方へ、向いた。
雷夕の背筋を、冷たいものが、駆け上がった。
(――あいつ、まさか)
ディートリヒの唇が、動いた。
声は、聞こえなかった。
けれど、その唇の形は、確かに、こう言っていた。
――逃げる者は、後ろから焼く。




