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レーヴァルト戦記 ~最弱のコピー能力が別の魔法に化けるので、恩人の領主を守るために戦います~  作者: 深夜のトースト
第3章 焦土に芽吹く

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第15話 槍を捨てて、こっちへ

夜明け前の坂道は、水の匂いがした。


北門の跡から、町の中へ続く石畳の坂。

その一面が、黒く濡れて光っていた。


夜通し、町の人間が総出で、貯水槽から水を運んだ。桶で、樽で、鍋で。石畳の継ぎ目という継ぎ目に、水と泥を流し込み、箒で掃き込み、また水を流した。


坂の両脇の家々の壁にも、水が撒かれていた。

軒下の干し草は、全部取り払われていた。窓という窓に、濡らした布が掛けられていた。


雷夕は、坂の途中に積み上げられた樽の陰で、剣の柄を握っていた。


指先が、冷たかった。


水の冷たさなのか、それとも、別の何かなのか。

自分でも、よく分からなかった。


*


北門の跡の、すぐ内側。


荷馬車が、六台、並んでいた。


トマスの隊商の荷馬車だった。幌を外し、荷台を空にして、門の跡の両脇の壁際に、三台ずつ寄せてある。車輪の楔を一本抜けば、すぐに門の跡の真ん中へ押し出せるように。


その荷馬車の陰に、自警団の若い連中が、身を伏せていた。


荷馬車の一台の上に、フェリクスが立っていた。


父親の緑の上着の上に、ロゼリアの燃えにくい灰色の布を、外套のように羽織っている。その脇に、ケインが、大盾を構えて控えていた。


少年の顔は、白かった。

けれど、目は、北を向いていた。


*


「――来るわよ」


雷夕の隣で、ロゼリアが、低く言った。


樽の陰に、素焼きの瓶の詰まった木箱を三つ並べている。霧の瓶。滑る油の瓶。それぞれの木箱の蓋に、読みにくい字で、何かが書きつけてある。


北の草地の向こうから、足音が聞こえてきた。


ザッ、ザッ、ザッ、と。


不揃いで、重たくて、引きずるような足音。


一昨日と、同じだった。


その後ろから、もう一つの足音。


ザッ、ザッ、ザッ、と。


こちらは、揃っていた。


一分の乱れもなく、規則正しく。帝国の正規兵の、足音だった。


*


城壁の上の見張り台から、ボリスの声が降ってきた。


「――征用兵、およそ三百! その後ろに、正規兵、千……いや、もっといる!」


一拍。


「真ん中に、黒い馬! ――あいつだ!」


雷夕の指が、剣の柄を、ぎりと握りしめた。


*


征用兵の列が、北門の跡の前、百歩ほどのところで止まった。


明け始めた薄明かりの中で、その顔が見えた。


一昨日よりも、さらに疲れ切った顔だった。

一昨日よりも、さらに怯えた顔だった。


列の後ろで、帝国の正規兵が、槍衾を作っている。その穂先は、やはり、征用兵の背中に向けられていた。


そして、その槍衾の真ん中に、黒い軍馬が一頭。


ディートリヒ・ヴァイスは、鞍の上で、濡れて光る北門の坂を、楽しげに眺めていた。


「――ほう」


よく通る声が、朝の空気を渡ってきた。


「水か。……考えたね。考えたが、無駄だよ」


ひらりと、鞍から降りる。


征用兵の列の後ろ。

正規兵の槍衾の、ほんの少しだけ前。


征用兵を、盾にしたまま。


「では――」


右の足が、地面を、踏んだ。


*


ダンッ――!!


ゴォォォッ――!


炎の筋が、走り出した。


征用兵たちの足元を、縫うように。


悲鳴が上がった。征用兵たちが、自分たちの足の間を走り抜けていく炎に、飛び上がって身を捩る。炎は彼らを避けて――避けて、というより、彼らなど目に入っていないかのように――北門の跡へ、一直線に駆けていく。


十本。二十本。三十本。


門の跡の、焼け焦げた石の上を越えて。


濡れた坂へ。


――じゅうううううううッ!!


白い湯気が、爆発するように立ち上った。


炎の筋が、濡れた石畳に触れた瞬間、悲鳴のような音を立てて、勢いを失う。継ぎ目に詰められた泥と水が、炎の行く手を塞いでいた。


止まりは、しなかった。


それでも――遅い。


一昨日、一瞬で門を舐め上げた炎が、濡れた坂の上を、這うように、のろのろと進んでいく。


*


「――今よ!」


ロゼリアが、霧の瓶を、坂の上へ投げた。


パリンッ――ブワッ!


白い霧が、炎の筋の上に、覆い被さる。


湯気と霧が混じり合い、坂の上が、真っ白に煙った。

炎の筋が、その中で、さらに細くなる。一本、また一本と、ちりちりと燻って、消えていく。


全部ではない。


霧の外れを、何本かの炎の筋が、すり抜けてくる。


それを、自警団の若い連中が、濡らした布で、叩いて潰していく。


「――消える! 消えるぞ!」

「布で叩け、叩けばいける!」


(――効いてる)


雷夕は、樽の陰から身を乗り出した。


湯気の向こう。


ディートリヒの顔から、ほんの一瞬だけ、笑みが消えるのが見えた。


*


「――フェリクス殿!」


リヴァールの声が、坂の上に響いた。


「今だ!」


荷馬車の上で、少年が、大きく息を吸った。


ケインが、大盾を掲げて、少年の前に立つ。


フェリクスは、ケインの盾の陰から、身を乗り出した。


そして、叫んだ。


「――カランドの皆さんッ!!」


*


少年の声は、細かった。


掠れていた。


それでも、朝の空気を裂いて、北門の跡の向こうまで、確かに届いた。


征用兵たちが、顔を上げた。


「私は、ベルリア領主、フェリクスです! ――聞いてくださいッ!!」


帝国の正規兵の列が、ざわめいた。


「槍を捨てて、この門をくぐった者は、誰であれ、敵として扱いません! ベルリアの民として、匿います! 帝国が何を言ってきても、決して、引き渡しませんッ!!」


征用兵たちの列が、揺れた。


隣の者と、顔を見合わせる者。

後ろの槍衾を、怯えたように振り返る者。


「あなた方の家族は、ここにいますッ! お母さんも、妹さんも、ここで待っていますッ!!」


*


――ヒュンッ!


矢が、飛んできた。


帝国の正規兵の列から。少年を、狙って。


ガンッ――!


ケインの大盾が、それを弾いた。


二本目。三本目。


ガンッ、ガンッ!


ケインは、一歩も退かなかった。

盾の陰で、少年の体を、自分の体で覆うようにして。


「――続けてください、フェリクス様!」


フェリクスは、盾の縁から、また身を乗り出した。


「槍を捨てて、こっちへ――ッ!!」


*


征用兵たちは、動かなかった。


動けなかった。


後ろには、槍衾がある。

逃げようとした者が、背中から射られるのを、彼らは一昨日、目の前で見ていた。


列の中で、一人の若い男が、震えていた。


槍を、握りしめたまま。


――その時だった。


門の跡の内側から、別の声が、上がった。


*


「――ヤンッ!!」


女の声だった。


荷馬車の陰から、一人の女が、飛び出していた。


ケインの制止も、自警団の連中の手も振り切って。

門の跡の、焼け焦げた石の上に、立っていた。


エマの、母親だった。


「ヤン! ヤン、いるんでしょう!? お母さんよ! ここにいるわよッ!!」


煤けた頬を、涙で濡らしながら。

片手に、小さな石を、握りしめて。


「エマも無事よ! 南の村に逃げたの! ――だから、帰ってきて! 槍なんか捨てて、帰ってきなさいッ!!」


*


征用兵の列の中で、一人の若い男の手から、槍が落ちた。


カラン、と。


乾いた音が、朝の草地に響いた。


男は、門の跡に立つ女を、呆然と見つめていた。


「……母、さん……?」


ヤンだった。


煤と泥にまみれた顔。

縄の痕が残る手首。


二十日以上、毎日、毎日、壁になれと叩き込まれ続けてきた若者が――震える足で、一歩、前へ踏み出した。


「――母さんッ!!」


駆け出した。


*


「逃げるな! 戻れッ!」


帝国の正規兵の怒号。


弓が、引き絞られる。


駆け出したヤンの背中へ。


「――させるかよッ!」


雷夕は、樽の陰から飛び出していた。


坂を駆け下りる。濡れた石畳に、足が滑りかける。踏ん張る。門の跡を越える。


ヤンの背中へ向かって飛んでくる、矢。


剣を、振った。


キィンッ――!


一本、叩き落とした。


二本目。


キィンッ――!


三本目は、間に合わなかった。


――ドゴォッ!


横から割り込んできた何かが、矢ごと、空気を薙ぎ払った。


リヴァールの剣だった。

重撃の一閃が、矢を、その先の空気ごと、叩き潰していた。


「――走れ!」


リヴァールが、ヤンに向かって、短く叫んだ。


*


ヤンが、門の跡を、駆け抜けた。


母親が、両腕を広げて、待っていた。


二人が、ぶつかるように抱き合った。


母親が、何かを叫んでいた。

ヤンも、何かを叫んでいた。


言葉には、なっていなかった。


母親の手から、小さな石が、こぼれ落ちた。

濡れた石畳の上で、からん、と小さく跳ねた。


――それが、合図になった。


*


征用兵の列が、崩れた。


一人が、槍を捨てた。


二人目が、捨てた。


三人目、四人目、十人目――。


カラン、カラン、カランカランカランッ――!


槍が、次々と、草地の上に投げ捨てられていく。


征用兵たちが、一斉に、門の跡へ向かって駆け出した。


悲鳴を上げながら。泣きながら。名前を叫びながら。


「――母ちゃん!」

「帰る! 帰るんだ!」

「ベルリアへ――!」


*


「戻れ! 戻れェッ!!」


帝国の正規兵が、弓を引く。


だが、三百人が、一斉に駆け出したのだ。


狙いが、定まらない。


矢が、何本か、征用兵の背中に突き立った。倒れる者がいた。

倒れた者を、隣の者が担いで、また走った。


「――霧を!」


ロゼリアが、坂の上から、霧の瓶を、門の跡の外へ向かって次々と投げた。


パリンッ、パリンッ、パリンッ――ブワワワッ!


白い霧が、門の跡の前に、壁のように立ち込める。


帝国の弓兵の視界が、霧に呑まれた。


その霧の中を、征用兵たちが、次々と門の跡へ駆け込んでくる。


*


雷夕は、門の跡の脇に立って、駆け込んでくる征用兵たちを、内側へ押し込んでいた。


「中へ! 坂の上まで走れ! 止まるな!」


カスパーの姿が、坂の上に見えた。


自警団の連中と一緒に、駆け込んできた征用兵たちを、坂の上へ誘導している。同じ町の、知った顔を見つけるたびに、名前を叫んでいる。


ボリスが、城壁の上から、弓を下ろして、それを見ていた。


欠けた前歯を噛みしめて。


(――撃たなくて、いいんだ)


そう思っているのが、表情で分かった。


*


最後の一団が、門の跡を駆け抜けた。


二百人。

いや、もっとだ。二百五十は、いる。


門の跡の外の草地に、取り残された征用兵が、まだ何十人か残っていた。

負傷して走れない者。恐怖で、足が竦んで動けない者。帝国の正規兵に、腕を掴まれて引き戻された者。


(――全員は、無理か)


雷夕は、奥歯を噛んだ。


「――塞げぇッ!!」


ガストンの怒号が、坂の上から轟いた。


*


ガゴンッ――!


荷馬車の車輪の楔が、一斉に引き抜かれた。


自警団の連中が、荷馬車の後ろに肩を当てて、押し出す。


ゴロゴロゴロゴロッ――!


六台の荷馬車が、門の跡の両脇から、真ん中へ向かって転がり出た。


ガシャアンッ!!


荷台と荷台が、門の跡の真ん中で、ぶつかり合って止まる。


即席の、壁だった。


「――油!」


ロゼリアが、灰色の瓶を、荷馬車の壁の外側へ、次々と投げ落とした。


パリンッ、パリンッ――。


ぬらぬらと光る液体が、門の跡の外の地面に、一面に広がっていく。


霧の中から、帝国の正規兵が、荷馬車の壁へ向かって突進してきた。


その足が、一斉に、滑った。


「――うわっ!?」

「何だ、これ、足が――!」


ずるり、ずるりと。

鎧を着込んだ重い体が、てらてらと光る地面の上で、次々と転倒していく。


*


霧が、少しずつ、晴れていった。


門の跡の外の草地が、見えてきた。


捨てられた槍が、何百本も、草の上に散らばっている。

油に足を取られて、転がった帝国兵たち。

その後ろで、隊列を立て直そうとする、正規兵の槍衾。


そして――。


その槍衾の、真ん中。


ディートリヒ・ヴァイスが、一人で、立っていた。


*


笑っていなかった。


あの、軽く、明るく、ほとんど愉しげですらあった顔から――笑みが、すっかり消えていた。


煤けた籠手が、だらりと下がっている。


その目が、荷馬車の壁を見ていた。

壁の向こうで、母親と抱き合って泣いている、征用兵たちを見ていた。


それから、ゆっくりと――。


まだ、門の外の草地に取り残されている、数十人の征用兵の方へ、向いた。


雷夕の背筋を、冷たいものが、駆け上がった。


(――あいつ、まさか)


ディートリヒの唇が、動いた。


声は、聞こえなかった。


けれど、その唇の形は、確かに、こう言っていた。


――逃げる者は、後ろから焼く。


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