第14話 壁を、壁から剥がす
館の広間の大卓の上に、ベルリアの見取り図が広げられていた。
昨日まで、この広間では、降伏の話しかされていなかった。
今日は、違った。
大卓を囲んでいたのは、フェリクス、バルトロメウス、ベルリアの正規兵を預かる隊長――口髭を蓄えた、無口な中年の男――、ガストン、それに、雷夕たち四人だった。
トマスも、壁際の椅子に、遠慮がちに腰掛けていた。
「――まず、敵の動き方だ」
リヴァールが、見取り図の上に、指を置いた。
北門。
焼け落ちた門の跡と、その内側の坂の通り。
「強硬派の将の戦い方は、だいたい決まっている。征用兵を、一番前に並べる。その後ろに、正規兵が槍衾を作る。槍の穂先は、前ではなく、征用兵の背中に向ける」
「……一昨日の、あれか」
ガストンが、低く唸った。
「そうだ。征用兵は、壁だ。こちらの矢を受け、剣を受け、足を止めさせるための。――そして、壁の後ろから、将が炎を撃ち込む」
*
リヴァールの指が、北門から、町の中へ向かって、すっと滑った。
「門は、もうない。明日は、昨日のように門を燃やす手間もかからん。あの将は、門の跡から、町の中へ、直接炎を走らせるつもりだろう」
「石畳の継ぎ目を伝って、だったな」
ロゼリアが、見取り図の上に身を乗り出した。
拡大鏡を額に押し上げ、北門の内側の通りを、指先でなぞる。
「――昨日、焼け跡を調べたわ。炎の筋の跡が残ってる場所を、全部」
腰の帳面を、卓の上に広げた。
びっしりと書き込まれた走り書き。炎の筋の跡を写し取ったらしい、うねうねとした線の図。
「あの炎はね、地面の"隙間"を伝ってる。石畳の継ぎ目。轍の溝。土のひび割れ。――隙間があるところを、選んで走ってるの。逆に、隙間のない、平らで、湿った場所は、走りにくいみたい」
「湿った場所?」
「水を撒いた井戸の周りだけ、炎の筋が避けて通ってた。焦げ跡が、ぐるっと迂回してたの」
*
ロゼリアは、見取り図の上の、北門の内側の坂道を、指でとんとんと叩いた。
「だから、この坂を、水浸しにする」
広間が、一瞬、静まり返った。
「……水浸し?」
「町の貯水槽の水を、全部ここに流すのよ。石畳の継ぎ目に、泥と水を詰める。隙間を、水で塞ぐの」
ロゼリアは、帳面の頁をめくった。
「それでも、完全には止められない。あの炎は、たぶん、湿った地面でも、少しは走る。――でも、遅くはなる。勢いは、殺せる。そこに、霧の瓶を重ねれば」
「時間が、稼げる」
雷夕が、言葉を継いだ。
ロゼリアは、頷いた。
「霧の瓶は、残り四十と少し。燃えにくい布は、二十枚。……足りないけど、ないよりまし」
*
「――貯水槽の水を、全部、ですか」
バルトロメウスが、眉を寄せた。
「それでは、籠城になった時の飲み水が」
「籠城には、ならん」
リヴァールが、短く遮った。
「あの将は、籠城などさせん。門がない町に、水が尽きるまで待つ理由がない。――明日、一日で決めに来る。こちらも、明日、一日で決めるしかない」
バルトロメウスは、口を開きかけて――閉じた。
それから、小さく、頷いた。
*
「それで、だ」
ガストンが、焼けていない右手で、見取り図の上の北門を、どんと叩いた。
「水で時間を稼ぐのはいい。だが、稼いだ時間で、何をする。征用兵の壁が前にいる限り、俺たちの刃は、あの野郎に届かねえ」
「壁を、剥がす」
リヴァールが、言った。
「征用兵と、その後ろの正規兵を、切り離す」
「どうやって」
「――それは」
リヴァールが、フェリクスを見た。
フェリクスが、背筋を伸ばした。
「私が、叫びます」
*
少年は、見取り図の上の、北門の内側を指差した。
「槍を捨てて、ベルリアの門をくぐったカランドの兵は、匿う。――今朝、広場で、そう約束しました。明日、それを、戦場で叫びます。征用兵の皆さんに、聞こえるように」
「聞こえたとして、だ」
ガストンが、腕を組んだ。
「後ろに槍を突きつけられてる連中だぞ。逃げようとした奴が、背中から射られるのを、一昨日、俺たちは見た。――叫んだくらいで、走ってこられるか」
「走ってこられるように、するんです」
フェリクスは、見取り図の上の、北門の跡を、指でなぞった。
「征用兵は、一番前にいます。つまり、門に一番近い。――門の跡を、一度、開けてやるんです。わざと。征用兵が、こちらへ雪崩れ込めるように」
*
広間が、ざわめいた。
「門を、開ける……!?」
ベルリアの隊長が、初めて口を開いた。
「領主様、それは――」
「開けるのは、一瞬です」
フェリクスは、トマスの方を見た。
「トマスさん。あなたの隊商の荷馬車を、貸していただけますか」
トマスが、目を見開いた。
「……荷馬車、ですか」
「門の跡の内側に、荷馬車を並べておきます。征用兵が雪崩れ込んだら、すぐに、その後ろを荷馬車で塞ぐ。――その上で、ロゼリア殿の、あの滑る油を」
「――撒くのね」
ロゼリアの目が、きらりと光った。
「荷馬車の外側に。征用兵が通り抜けた後の地面に。そうすれば、後ろから追ってくる正規兵は、足を取られて、すぐには荷馬車を越えられない」
*
雷夕は、見取り図を見下ろしていた。
(――壁を、壁から剥がす)
征用兵を、こちら側へ引き込む。
その後ろを、荷馬車と油で塞ぐ。
そうすれば。
壁の後ろに隠れていた正規兵と――その真ん中にいる、あの男が、むき出しになる。
「……領主様」
雷夕は、顔を上げた。
「これ、誰が考えたんですか」
フェリクスは、少しだけ、照れたように俯いた。
「……私と、リヴァール殿で。昨夜、寝ずに」
壁際で、リヴァールが、腕を組んだまま、目を逸らした。
「領主殿が、言い出した。俺は、穴を埋めただけだ」
*
「――荷馬車でしたら」
トマスが、椅子から立ち上がった。
「六台とも、お使いください。ただ――」
一拍。
「その前に、一つ、お願いがございます」
「何でしょう」
「町の、戦えない方々。子供と、年寄りと、病人と。それから、カランドから来られた方々の中で、足の弱い方を。――今夜のうちに、南の道へ逃がしてはいかがでしょうか」
フェリクスが、はっとして、トマスを見た。
「荷馬車は、門を塞ぐのに使います。ですから、歩いていただくことになりますが。……私の隊の者を、道案内につけます。南の道の、次の村までなら、一晩歩けば着きます」
トマスは、穏やかに笑った。
「商人は、物を運ぶのと、話を運ぶのが仕事です。――人を運ぶのも、たまには、悪くありません」
*
フェリクスは、トマスに向かって、深々と頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「いえいえ。忘れた頃に、ベルリアの方からも、何か返していただければ」
トマスは、悪戯っぽく、雷夕の方を見た。
雷夕は、苦笑した。
(――恩返しの、輪が広がってくな)
*
「――最後に」
リヴァールが、見取り図の上の、北門の外を指差した。
「あの将、だ」
広間の空気が、ぴんと張り詰めた。
「壁が剥がれれば、あの将は、正規兵と一緒に、むき出しになる。そこを、叩く」
「誰が」
「俺と」
リヴァールが、ガストンを見た。
「あんただ」
ガストンが、髭の奥で、にやりと笑った。
「――待ってたぜ、その言葉」
「炎を撃たれる前に、懐に入る。重撃なら、盾ごと周りを吹き飛ばせる。あんたの斧なら、鎧ごと叩き割れる。――二人で挟めば、炎を撃つ暇は、そう多くは与えん」
「そう多くは、な」
「そうだ。何度かは、撃たれる」
リヴァールは、平然と言った。
「だから、ケイン殿と、ロゼリア殿に、霧と布で、俺たちの道を作ってもらう」
ケインが、頷いた。
ロゼリアも、帳面を閉じて、頷いた。
*
雷夕は、黙っていた。
自分の名前が、まだ、出ていなかった。
(――そうだよな)
レイフ砦の老将の言葉が、耳の奥で蘇っていた。
――この作戦に、劣化は数えに入れん。
一昨日、劣化は、薄く広い霜に化けて、何の役にも立たなかった。魔力だけ、ごっそりと持っていかれて。
それなら、自分は――。
「――霧島殿」
リヴァールが、雷夕を見ていた。
「お前は、ケイン殿と一緒に、俺たちの後ろにつけ」
「……後ろ?」
「そうだ」
リヴァールは、淡々と続けた。
「この作戦は、劣化がなくても成り立つように組んである。征用兵を引き込むのも、壁を塞ぐのも、あの将を叩くのも。――劣化が出なくても、崩れんようにな」
雷夕は、何も言えなかった。
分かっていた。
それが、正しいことは。
「だが」
リヴァールが、雷夕の目を、まっすぐに見た。
「出れば、話は変わる。――お前は、あの将の炎を、一番近くで見ていろ。見て、写す機を、自分で選べ。使うかどうかは、お前が決めろ」
*
雷夕は、目を見開いた。
「……それって」
「レイフ砦の老将が、最後に言っただろう」
リヴァールの口の端が、ほんの僅かに、動いた。
「次からは、数えてやる。不確かなものとしてな。――俺も、そうする」
雷夕は、しばらく、リヴァールの顔を見つめていた。
それから、笑った。
笑いながら、喉の奥が、少しだけ熱くなった。
「……ああ」
懐の中の、小さな木箱に、手を当てる。
乳白色の、歪んだ球。
ロゼリアの魔力が詰まった、たった一つの蓄魔石。
「数えてくれ。――不確かなものとして」
*
夜。
町の南門から、人の列が、静かに出ていった。
子供を背負った母親。
杖をついた老人。
担架に乗せられた、北門で炎に巻かれた男。
カランドの人々も、その列に混じっていた。
トマスの隊の者が、松明を掲げて、列の先頭を歩いていく。南の道の、次の村まで。一晩歩けば、着く。
雷夕は、南門の脇に立って、その列を見送っていた。
列の中に、エマの姿があった。
大きすぎる上着の袖を、何重にも折り返して。母親に、手を引かれて。
母親は――列に、加わっていなかった。
南門の脇で、娘の手を、トマスの隊の女に預けていた。
「――お母さんは?」
エマが、振り返って、聞いた。
「お母さんは、ここに残るの」
母親は、しゃがみ込んで、娘の目線に合わせた。
「お兄ちゃんが、明日、門をくぐってくるかもしれないでしょう。……その時、誰か、迎えてあげる人がいないと」
*
エマは、しばらく、母親の顔を見つめていた。
それから、上着のポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。
小さな石だった。
「――これ」
母親の手に、押しつける。
「明日の分。……お兄ちゃんが来たら、これで、終わりにして」
母親は、石を握りしめて、娘を抱きしめた。
長い間、そうしていた。
それから、娘を、トマスの隊の女の方へ、そっと押し出した。
エマは、何度も、何度も振り返りながら、列と一緒に、南の道の闇の中へ消えていった。
*
雷夕の隣に、ガストンが立っていた。
いつの間にか、そこにいた。
「――坊主」
「ん」
「明日は、俺の後ろにいろ」
「……リヴァールにも、同じこと言われた」
「なら、二人分、後ろにいろ」
「どうやってだよ」
ガストンは、髭の奥で、がっはっは、と小さく笑った。
それから、南の道の闇を見つめたまま、ぼそりと言った。
「――三年前、俺は、お前を拾った」
「……ああ」
「飯を炊かせて、剣を教えて、逃げ足を鍛えさせた。劣化が品切れでも、置いておいた」
ガストンは、焼けていない右手で、雷夕の頭に、ぽんと手を置いた。
「お前が、帰ってきて、使者だなんて言い出した時はな。――正直、ちょっと、泣きそうになった」
雷夕は、ガストンの顔を見上げた。
ガストンは、こちらを見ていなかった。
南の道の闇を、じっと見つめていた。
「……明日、死ぬなよ、坊主」
「おっさんこそ」
「俺は死なねえよ。斧の刃が欠けるのが嫌だからな」
「それ、関係ねえだろ」
二人で、小さく笑った。
南門の松明が、夜風に揺れていた。




