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レーヴァルト戦記 ~最弱のコピー能力が別の魔法に化けるので、恩人の領主を守るために戦います~  作者: 深夜のトースト
第3章 焦土に芽吹く

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第13話 麦の穂の旗の下で

朝の市場の広場は、人で埋め尽くされていた。


ベルリアの人々がいた。

坂の上の家から下りてきた職人。市場の露店の売り子。荷運びの男。赤子を抱いた母親。杖をついた老人。誰も彼もが、昨日の北門の煙を見て、一睡もできなかったという顔をしていた。


カランドの人々がいた。

広場の端の天幕から出てきて、ベルリアの人々から少し離れた場所に、身を寄せ合って立っている。焼け焦げた袖。継ぎ接ぎの外套。煤けた頬。


その二つの人の群れの間に、目に見えない線が引かれていた。


(――そりゃ、そうだよな)


雷夕は、広場の隅で、腕を組んで立っていた。


昨日、北門で、ベルリアの若者が四人死んだ。

その前日、北門の下で、カランドの若者が何人も死んだ。


殺し合わされたのは、この二つの群れの、息子たちだった。


*


広場の真ん中に、荷馬車が一台、引き出されていた。


トマスの隊商の荷馬車だった。幌を外して、荷台を空にしてある。即席の、演壇だった。


その荷台の上に、少年が、一人で上がった。


ざわめきが、広場に広がっていく。


ぶかぶかの外套ではなかった。

仕立て直した父親の緑の上着を、きちんと着込んでいる。栗色の髪を、きっちりと撫でつけている。右の中指に、大きすぎる金の指輪。


ベルリア領主、フェリクス。


少年の顔は、まだ白かった。

目の下の隈も、消えていなかった。


けれど、荷台の上に立つ足は、震えていなかった。


*


荷馬車の脇に、重臣たちが並んでいた。


バルトロメウスが、一番端に立っている。

白い顎髭。固く結ばれた唇。その目は、荷台の上の少年を、じっと見上げていた。


反対側の脇には、ガストンが立っていた。

焼けただれた左腕を布で吊ったまま、右手で大斧の柄を地面に突き立てている。


フェリクスは、広場を、ゆっくりと見渡した。


ベルリアの人々。

カランドの人々。


その間の、見えない線。


少年は、大きく息を吸った。


*


「――ベルリアの皆さん」


声は、思っていたよりも、よく通った。


「それから、カランドから来られた皆さん」


広場の端で、カランドの人々が、驚いたように顔を上げた。


領主が、自分たちにも呼びかけた。

それが、意外だったのだろう。


「ベルリア領主、フェリクスです。……今日は、皆さんに、隠さずに話さなければならないことがあって、集まってもらいました」


フェリクスは、懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。


黒い蝋の封。

帝国の、降伏勧告だった。


「三日前、帝国の将、ディートリヒ・ヴァイスから、この書状が届きました。――降伏の、条件です」


*


少年は、それを、読み上げた。


一つ。城門を開き、帝国の旗を掲げること。

二つ。町の十五から四十までの男を、征用兵として差し出すこと。


三つ目を読み上げる前に、フェリクスは、一度だけ、広場の隅の雷夕たちに目を向けた。


それから、正面を向いて、はっきりと読んだ。


「三つ。――イヴァルキアから来た使者四人を、捕らえて、帝国軍へ引き渡すこと」


広場が、どよめいた。


ベルリアの人々の視線が、一斉に、広場の隅へ――雷夕たちの方へ向いた。


驚き。戸惑い。

それから、ほんの僅かに――計算の色。


四人を差し出せば、助かるのか。


そういう目だった。


雷夕は、その視線を、黙って受け止めた。


隣で、ケインが、半歩だけ前に出た。

リヴァールは、動かなかった。ロゼリアが、雷夕の袖を、きゅっと掴んだ。


*


「――昨日」


フェリクスの声が、どよめきを割った。


「ディートリヒ・ヴァイスは、北門を燃やしました。そして、こう言いました。明日の日没までに、帝国の旗を掲げ、イヴァルキアの客人を差し出せ。そうしなければ、次は町を燃やす、と」


少年は、広場の端の、カランドの人々の方を見た。


「――カランドで、そうしたように」


カランドの人々の中から、押し殺した嗚咽が漏れた。


「カランドの皆さんに、聞きます」


フェリクスは、荷台の縁まで、一歩、進み出た。


「カランドの都は、降伏しましたね。帝国の条件を、全部呑んだ。門を開き、旗を掲げ、兵を差し出した。――それで、あなた方の町は、どうなりましたか」


*


誰も、答えなかった。


答える必要がなかった。


焼け焦げた袖が。

煤けた頬が。

広場の端に並ぶ、継ぎ接ぎの天幕が。


全てが、答えだった。


カランドの人々の群れの中で、一人の老人が、ゆっくりと顔を上げた。


手の甲から手首にかけて、赤黒い火傷の痕。


「――燃えましたよ」


嗄れた声だった。


「降伏の鐘が鳴った、その日にね。……命は奪わない、殺すのは町だけにしておいてやる、と。あの男は、笑いながら、そう言いました」


ベルリアの人々の間に、ざわめきが走った。


*


フェリクスは、老人に向かって、深く頭を下げた。


それから、ベルリアの人々の方へ、向き直った。


「――私は、この三日間、ずっと考えていました」


声が、少しだけ、震えた。


「父なら、どうしただろうと。父は、勝てない喧嘩はしない人でした。民を危ない目に遭わせるくらいなら、自分が頭を下げる人でした。だから、私も、頭を下げるべきなのかもしれないと」


少年は、指輪を、ぎゅっと握りしめた。


「でも、頭を下げるのは、それで町が守れるからです。――守れないなら、下げる意味がない」


荷馬車の脇で、ガストンの髭が、ぴくりと動いた。


「カランドは、頭を下げました。それでも、燃えました。……あの男は、頭を下げた相手を、燃やすんです。教訓にするために。次の町を、怖がらせるために」


フェリクスは、顔を上げた。


「なら、ベルリアが頭を下げても、きっと、同じことになる。ベルリアが燃えるのを見て、次の町が、また怖がる。その次の町も。――そうやって、どこまでも、燃え広がっていく」


*


広場が、静まり返っていた。


少年は、もう一度、羊皮紙を掲げた。


「だから」


両手で、羊皮紙の端を掴む。


ビリッ――。


裂いた。


真っ二つに。


それから、もう一度。四つに。八つに。


細かく裂かれた羊皮紙が、少年の手から離れて、朝の風に乗って、広場の上に舞い散った。


「――ベルリアは、降伏しません」


*


一瞬、誰も、動かなかった。


それから。


広場のどこかで、誰かが、息を呑む音がした。


フェリクスは、続けた。


「イヴァルキアの使者も、差し出しません。――あの人たちは、遠くから、ベルリアと一緒に戦うと言いに来てくれた。一緒に戦う人を売って、自分たちだけ助かろうとする町を、父は、きっと許さない。私も、許しません」


広場の隅で、雷夕は、拳を握りしめていた。


「戦えば、きっと、たくさん死にます。――嘘はつきません。勝てるかどうかも、分かりません。帝国の兵は、ベルリアの兵の何倍もいる。あの男の炎は、門を一刻で燃やした」


少年の声が、掠れた。


「それでも、私は、戦います。この町の、領主として。――だから、お願いします」


フェリクスは、荷台の上で、深く、深く頭を下げた。


「一緒に、戦ってください」


*


沈黙が、広場を包んでいた。


風が、吹いた。


裂かれた羊皮紙の切れ端が、石畳の上を、かさかさと転がっていく。


最初に動いたのは、ボリスだった。


広場の真ん中で、古びた籠手を嵌めた右腕を、高く突き上げた。


「――俺は、戦うぞ!」


欠けた前歯を剥き出しにして、叫んでいた。


「ハンスも、ディルクも、オットーも、ヨーゼフも、燃やされた! あの野郎に! ――やられっぱなしで、終われるかよッ!」


その声に、自警団の若い連中が、次々と腕を突き上げた。


「俺もだ!」

「やってやる!」

「領主様が戦うってんなら、俺たちもだ!」


声が、広がっていく。


自警団から、職人たちへ。荷運びの男たちへ。露店の売り子たちへ。


*


「――フェリクス様」


荷馬車の脇から、乾いた声がした。


バルトロメウスだった。


広場の喧騒が、少しだけ静まる。


老人は、荷台の上の少年を、じっと見上げていた。


その目は、怒っていなかった。

ただ、ひどく、疲れていた。


「……勝てませぬぞ」


「分かっています」


「町が、燃えるやもしれませぬ」


「分かっています」


「――それでも」


「それでも、です」


フェリクスは、老人の目を、真っ直ぐに見返した。


「バルトロメウス。あなたが、ずっと町のことを考えてくれていたのは、知っています。私が小さい頃、肩車をしてくれたことも、覚えています。――だから、あなたにも、一緒に来てほしい」


*


長い、長い沈黙だった。


やがて、バルトロメウスは、ゆっくりと膝をついた。


荷馬車の前の、石畳の上に。


昨夜、広間で膝をついた時とは、違う膝のつき方だった。

懇願ではなかった。


「――この老骨」


白い顎髭が、石畳に触れるほどに、深く頭を垂れる。


「最後まで、お供つかまつります」


広場に、どっと、声が上がった。


*


その喧騒の中で、フェリクスは、もう一度、手を上げた。


広場が、静まる。


少年は、今度は、カランドの人々の方を向いた。


「カランドの皆さん。――もう一つ、話があります」


カランドの人々が、顔を上げる。


「帝国軍の一番前には、あなた方の息子さんたちが、立たされています。征用兵として。槍を持たされて」


カランドの人々の群れの中から、すすり泣く声が漏れた。


その中に――雷夕は、見覚えのある顔を見つけた。


大きすぎる上着の袖を、何重にも折り返した少女。

その肩を抱く、母親。


エマと、その母親だった。


*


「私は、ある方に、お約束はできないと言いました」


フェリクスは、エマの母親を、まっすぐに見た。


「戦になれば、前から来る者を斬らなければならない、と。それは、今も変わりません。――でも、考えると言いました。どうすれば、斬らずに済むのか」


少年は、荷台の上で、背筋を伸ばした。


「だから、ここに約束します。――槍を捨てて、ベルリアの門をくぐったカランドの兵は、誰であれ、敵として扱いません。この町の民として、匿います。帝国が何を言ってこようと、決して、引き渡しません」


広場が、どよめいた。


「戦の最中に、私は、それを叫びます。帝国の兵の後ろで槍を突きつけられている、あなた方の息子さんたちに、聞こえるように。――槍を捨てて、こっちへ来いと」


*


エマの母親が、両手で口を覆っていた。


その指の間から、嗚咽が漏れていた。


エマが、母親と、荷台の上の少年とを、不思議そうに見比べていた。


「――お母さん?」


「……ええ」


「お兄ちゃん、来られるの?」


母親は、答えられなかった。


ただ、娘を、強く、強く抱きしめていた。


*


広場の隅で、ケインが、物置から一人の少年を連れてきていた。


縄は、もう解かれていた。


カスパーだった。

城壁の上で、雷夕に槍を叩き落とされた、十五の鍛冶屋の徒弟。


カスパーは、ケインに背中を押されて、おずおずと広場の端へ歩み出た。


カランドの人々の群れが、ざわりと揺れた。


その中から――。


一人の女が、悲鳴のような声を上げて、飛び出してきた。


「――カスパー!!」


少年が、顔を上げた。


「……母ちゃん?」


次の瞬間、女は、少年に飛びついていた。


煤けた頬を擦りつけて。痩せた背中を掻き抱いて。言葉にならない声を上げて、ただ、泣いていた。


カスパーも、泣いていた。


母親の肩に顔を埋めて、子供のように、声を上げて。


*


広場の誰もが、その光景を見ていた。


ベルリアの人々も。

カランドの人々も。


二つの群れの間に引かれていた、目に見えない線が――少しずつ、ぼやけていくのが、雷夕には分かった。


ベルリアの、パン屋の女房らしき女が、カランドの人々の方へ歩み寄って、泣いている老人の肩に、そっと手を置いた。

自警団の若い一人が、カランドの少年に、自分の水筒を差し出した。


荷台の上で、フェリクスが、その光景を見下ろしていた。


少年の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。


けれど、彼は、それを拭わなかった。


背筋を伸ばして、前を向いたまま。


*


その日の昼。


ベルリアからの返書が、白い布を結んだ槍を掲げた自警団の若者の手で、帝国軍の陣へ届けられた。


羊皮紙ではなかった。


一枚の、小さな布切れだった。


緑の地に、金の麦の穂を一本だけ縫い取った――ベルリアの旗の、端切れ。


それだけが、黒い蝋で封もされずに、帝国の使者の手に渡された。


*


帝国軍の陣の、中央の天幕。


ディートリヒ・ヴァイスは、その布切れを、煤けた籠手の指先で、つまみ上げていた。


しばらく、眺めていた。


それから――くすりと、笑った。


「そうか」


布切れを、燭台の炎に、ゆっくりと近づける。


緑の布の端に、火が移った。

金の麦の穂が、ちりちりと縮れて、黒く焦げていく。


「なら、燃やそう」


燃え尽きた灰が、卓の上に、はらりと落ちた。


「――明日の夜明けだ。全軍に、そう伝えろ」


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