第12話 負けちゃいけない喧嘩
北門の焼け跡には、夜になっても、焦げた匂いが残っていた。
燃え落ちた扉の代わりに、荷車と樽と箪笥を積み上げた即席の壁。
その陰で、自警団の若い連中が、交代で見張りに立っている。篝火の灯りが、焦げた石畳の上の、炎の筋の跡を、ちろちろと赤く照らし出していた。
詰所の中は、薬草の匂いで満ちていた。
寝台の上に、炎に巻かれた男が一人、寝かされている。足に巻かれた包帯。浅い呼吸。ロゼリアが、その脇で、湯を沸かした鍋に薬草を放り込んでいた。
壁際の長椅子では、ガストンが、左腕に布を巻かれたまま、目を閉じていた。
眠っているのではない。
ただ、黙っていた。
ボリスは、詰所の外の階段に座って、膝を抱えていた。
もう、何刻も、そうしていた。
*
雷夕は、ボリスの隣に腰を下ろした。
体は、まだ重かった。
劣化で持っていかれた魔力は、半分ほどしか戻っていない。指先に力を込めると、じんと痺れる。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
篝火の薪が、ぱちりと爆ぜる。
「……ハンスと、ディルクと、オットーと、ヨーゼフ」
ボリスが、ぽつりと言った。
膝を抱えたまま、顔を上げずに。
「城壁の上で、燃えた四人。……全員、ガキの頃から知ってる奴らだ。ハンスなんか、俺の妹に惚れてて。この戦が終わったら、申し込むんだって、言ってて」
声が、途切れた。
雷夕は、何も言えなかった。
言える言葉など、何一つ持っていなかった。
「――坊主」
ボリスが、欠けた前歯を噛みしめた。
「昨日、俺、カランドの連中を射ったんだ。ガストンさんに言われて。……当たった奴がいた。動かなくなった奴が、いた」
「……ああ」
「今日は、こっちが燃やされた」
ボリスは、ようやく顔を上げた。
その目は、真っ赤に腫れていた。
「――なあ。これ、何なんだよ。誰が悪いんだよ。俺たちが射ったカランドの奴らも、燃えたハンスたちも、誰も、こんなこと、したくなかったはずだろ……!」
*
雷夕は、焼け跡の向こう、北の闇を見た。
その闇の奥に、帝国軍の陣の篝火が、点々と灯っている。
その一番外側に、征用兵の天幕がある。
ヤンという名の、桶屋の息子がいる。カスパーという名の、十五の鍛冶屋の徒弟は、今は詰所の裏の物置に、縛られて座っている。
「……悪いのは」
雷夕は、ゆっくりと言った。
「たぶん、一人だよ」
ボリスが、雷夕を見た。
「踏んだだけで町を燃やして、それを、怖がらせた方が人が死なないって、本気で言ってる奴。――あいつ一人だ」
「……」
「だから、ボリス。ハンスたちのことも、カランドの連中のことも、全部、あいつのところに持っていこう。――俺たちが背負うんじゃなくて」
ボリスは、長い間、雷夕の顔を見つめていた。
それから、また、膝に顔を埋めた。
肩が、小さく震え始めた。
雷夕は、その肩に、黙って手を置いた。
*
――同じ頃。
丘の上の館の、広間。
燭台が四つ灯された薄暗い部屋に、重臣たちが詰めかけていた。
壇の上の椅子に、フェリクスが座っている。
昼の戦の間、ずっとこの館の窓から北門を見ていた少年の顔は、蝋のように白かった。
「――フェリクス様」
バルトロメウスの声が、広間に響いた。
いつもの乾いた声ではなかった。
低く、重く、懇願するような声だった。
「ご覧になったでしょう。門が、一刻も保たずに燃え落ちるのを。自警団の若者が、四人、炎に巻かれるのを」
「……見ました」
「あの男は、明日、町を燃やすと言った。――言った以上、やるでしょう。カランドで、やったように」
バルトロメウスは、壇の前に、膝をついた。
白い顎髭が、擦り切れた絨毯の上に垂れた。
「お願いでございます。帝国の条件を、お呑みください。イヴァルキアの客人には、申し訳ないことをする。それは、この老骨が、一生かけて詫びましょう。――ですが、町が燃えれば、詫びる相手すら、いなくなるのです」
*
他の重臣たちも、次々と膝をついた。
五人の大人が、十七の少年の前に、額を床に擦りつけて並んでいる。
フェリクスは、その光景を、壇の上から見下ろしていた。
指輪が、指の付け根で、くるくると回っていた。
止めようとして、握りしめた。
止まらなかった。手そのものが、震えていた。
「……少し」
掠れた声が、少年の喉から漏れた。
「少し、外の空気を、吸わせてください」
*
夜の館の前の石段に、人影はなかった。
フェリクスは、ガストンに借りたままの、ぶかぶかの自警団の外套を羽織って、館の裏手の小道を下りていった。
護衛は、つけなかった。
つけたくなかった。
坂道を下る。
家々の窓から、灯りが漏れている。けれど、どの家も、ひっそりと静まり返っていた。昼の戦の音を聞いて、誰もが、息を潜めているのだ。
坂の途中で、少年は、足を止めた。
(――どこへ、行くんだろう、私は)
分からなかった。
ただ、足が、勝手に北へ向かっていた。
焼け跡の方へ。
*
詰所の前の階段に、雷夕が、一人で座っていた。
ボリスは、いつの間にか、詰所の中へ戻っていた。泣き疲れて、長椅子で眠ってしまったらしい。
足音に気づいて、雷夕は顔を上げた。
ぶかぶかの外套。
フードの下の、栗色の髪。
「……フェリクス殿?」
少年は、びくりと肩を震わせて、立ち止まった。
それから、観念したように、フードを外した。
「――こんばんは、霧島殿」
*
二人は、階段に並んで座った。
篝火の灯りが、焼け跡の向こうで、ゆらゆらと揺れている。
フェリクスは、しばらく、何も言わなかった。
膝の上で組んだ手を、じっと見下ろしていた。
「……重臣たちが」
ようやく、口を開いた。
「皆、膝をついて、条件を呑んでくれと。あなた方を、差し出せと」
「……そうですか」
雷夕は、驚かなかった。
「バルトロメウスは、悪い人じゃないんです。父の代から、ずっとこの家に仕えてくれて。私が小さい頃は、よく肩車をしてくれました。……あの人は、本当に、町のことだけを考えているんです」
「分かってます」
「……分かって、いるんですか」
「昨日の広間で、あの爺さんの目を見た時に。――計算して、計算して、計算し尽くした人の目だった。町を守りたいって、本気で思ってる人の目だ」
フェリクスは、雷夕の横顔を、驚いたように見つめていた。
*
「――霧島殿」
少年の声が、小さくなった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、あなたは」
フェリクスは、言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「なぜ、戦えるんですか。……ベルリアは、あなたの国じゃない。イヴァルキアも、たぶん、あなたの生まれた国じゃないでしょう。それなのに、なぜ、他の国のために、命を懸けられるんですか」
雷夕は、すぐには答えなかった。
篝火の灯りを、見つめていた。
「……昔」
やがて、口を開いた。
「国境の街道で、帝国の軍隊に巻き込まれたことがあるんです。イヴァルキアに流れ着く、直前のこと」
*
「帝国の幹部の魔法が、まっすぐ俺に向かって飛んできた。躱せなかった。――死んだと思いました」
雷夕は、自分の手のひらを見下ろした。
「そしたら、目の前に、人が飛び込んできたんです。銀の髪の、女の人でした。小さな魔道具で盾を張って、俺を庇って。腕から血を流しながら、それでも退かなかった」
フェリクスが、息を呑んだ。
「見ず知らずの、通りすがりの傭兵を。……それだけの理由で、命を懸けて」
「――それが」
「イヴァルキアの領主です。アリシア・クレイン・レーヴァルト。あなたに、親書を書いた人」
*
フェリクスは、言葉を失っていた。
雷夕は、少しだけ笑った。
「後で聞いたら、あれは例外だったって言ってました。本当は、領主は国を空にして飛び出しちゃいけないって。自分が斃れたら、国が頭を失うからって。――でも、あの日は、それでも行くしかなかったって」
「……行くしか、なかった」
「防衛線が崩れかけてて、後ろに村があったから。王都の兵を待ってたら、間に合わなかったから」
雷夕は、焼け跡の方を見た。
「――俺が戦うのは、たぶん、その恩を返すためです。あの人に救われた命だから、あの人が守りたいものを、一緒に守りたい。それが、一つ目の理由」
「一つ目」
「二つ目は、もっと単純です」
雷夕は、詰所の扉を、親指で指した。
その向こうで、ガストンが、長椅子で目を閉じている。ボリスが、泣き疲れて眠っている。
「ここは、他の国じゃない。……俺が三年、飯を炊いてた町だ」
*
フェリクスは、長い間、黙っていた。
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
「……父も」
少年の声が、震えていた。
「父も、勝てない喧嘩はしない人でした。民を危ない目に遭わせるくらいなら、自分が頭を下げる人でした。――だから、私も、そうしなければと思っていたんです。父のように、頭を下げなければと」
「……」
「でも、頭を下げても、許してもらえない相手だったら。……父なら、どうしたんでしょう」
答えを、雷夕は持っていなかった。
先代の領主のことは、ほとんど知らない。
遠くから、旗の下に立つ姿を見たことがあるだけだ。
雷夕が口を開きかけた、その時。
詰所の扉が、軋んで開いた。
*
「――決まってんだろうが」
ガストンだった。
焼けただれた左腕を布で吊ったまま、扉の枠に、肩でもたれかかっている。
いつから聞いていたのか、分からなかった。
フェリクスが、慌てて立ち上がった。
「ガ、ガストン――」
「座ってろ、坊ちゃん。立ってると、また膝が笑うぞ」
ガストンは、のしのしと階段を下りてきて、二人の一段下に、どっかりと腰を下ろした。
吊った左腕が、痛むのだろう。顔を顰めて、ふうっと息を吐く。
「――あんたの親父さんはな。勝てない喧嘩は、確かにしなかった」
ガストンは、焼け跡の向こうを見たまま、言った。
「だがな。勝てない喧嘩と、負けちゃいけない喧嘩の区別は、ちゃんとついてた人だ」
*
フェリクスが、ガストンの横顔を見つめた。
「……負けちゃいけない、喧嘩」
「ああ」
ガストンは、髭を、焼けていない方の手で掻いた。
「俺たちを雇ってた頃、あの人は、町の周りの魔物退治とか、街道の見回りとか、細々したことしか頼んでこなかった。大きな戦なんか、一度もなかった。――なんでか分かるか」
「……ベルリアが、平和だったから」
「違えよ」
ガストンは、首を横に振った。
「あの人が、平和にしてたからだ。勝てない喧嘩を、全部、頭を下げて避けてきたからだ。カランドとも、帝国とも、南の商人どもとも。――頭を下げて、下げて、下げ続けて、それで、この町を守ってきたんだ」
焼けただれた腕を、そっと膝の上に置く。
「頭を下げるのはな、坊ちゃん。それで町が守れるからだ。――守れねえなら、下げる意味がねえ」
*
フェリクスの肩が、震えていた。
ガストンは、ようやく、少年の方へ顔を向けた。
いつもの、豪快な笑い方ではなかった。
髭の奥で、ほんの少しだけ、口元を緩めただけの、静かな顔だった。
「あんたの親父さんがここにいたら、たぶん、こう言うぜ。――今度の喧嘩は、負けちゃいけねえ方だ、ってな」
フェリクスは、何も言わなかった。
言えなかったのだと、雷夕には分かった。
少年は、俯いて、指輪を握りしめていた。
今度は――指輪は、回っていなかった。
握りしめた手が、震えていなかったから。
*
「――ガストン」
しばらくして、フェリクスが、顔を上げた。
その目は、赤く潤んでいた。
「明日の朝。町の人たちを、市場の広場に集めてもらえますか。……ベルリアの人も、カランドの人も、全員」
ガストンの眉が、ぴくりと上がった。
「……全員か」
「全員です」
少年は、立ち上がった。
ぶかぶかの外套の裾が、夜風に煽られて、ばたばたと鳴った。
「――私から、話したいことがあります」
*
フェリクスが、坂道を館の方へ戻っていく。
その背中は、相変わらず細かった。
外套の肩の線が、だらしなく余っている。
けれど、坂を上る足取りは、来た時よりも、ずっと確かだった。
ガストンが、その背中を見送りながら、ぼそりと言った。
「……親父さんに、似てきやがった」
雷夕は、ガストンの横顔を見た。
「なあ、おっさん。今の話、本当か? 先代が、勝てない喧嘩と負けちゃいけない喧嘩の区別がついてたって」
「知らねえよ」
「……は?」
「あの人とまともに喋ったのなんて、契約の時と、年に一回の酒の席くらいだ。何考えてたかなんて、知るわけねえだろうが」
ガストンは、髭の奥で、にやりと笑った。
「――だが、そういう人だったと思うぜ。俺は」
雷夕は、呆れて、笑った。
笑ってから、少しだけ、目の奥が熱くなった。




