第11話 地を這う火
翌日の昼。
帝国軍は、今度は、隠れもせずにやって来た。
北の草地を、黒い鎧の列が、整然と埋めていく。
征用兵の列は、その後ろに下げられていた。昨日とは、逆だった。
そして、隊列の、真ん中。
黒い軍馬が一頭、ゆっくりと、前へ進み出てきた。
*
「――あいつか」
城壁の上で、雷夕は、目を細めた。
鞍の上の男は、若かった。
赤みの強い金髪を、短く刈り込んでいる。上等な鎧。その両の籠手だけが、煤で、真っ黒に汚れていた。
トマスの話と、同じだった。
広場の天幕で、カランドの人々が口々に語っていた姿と、同じだった。
男は、城壁から二百歩ほどのところで、軍馬を止めた。
ひらりと、鞍から降りる。
一人で、歩き出した。
*
「……おい」
ガストンが、眉をひそめた。
「一人で来やがるぞ、あの野郎」
男は、帝国兵の列から離れて、たった一人で、草地を歩いてくる。
剣も抜かず。
盾も持たず。
散歩でもするような、軽い足取りで。
百五十歩。
百歩。
「――射てッ!」
ガストンの号令。
城壁の上から、矢が放たれた。
ヒュヒュヒュンッ――!
十数本の矢が、一人の男めがけて、弧を描いて降り注ぐ。
男は、足を止めなかった。
ただ、右の足で、地面を、とん、と軽く踏んだ。
――ゴォッ!!
男の足元から、炎が、噴き上がった。
*
壁、だった。
炎の、壁。
男の前に、地面から真っ直ぐに立ち上がった炎の幕が、降り注ぐ矢を、一本残らず呑み込んでいた。矢羽根が燃え、矢柄が燃え、鏃だけが、赤く焼けて、ぽとりぽとりと草の上に落ちる。
炎の壁は、すぐに消えた。
その向こうで、男は、何事もなかったように、また歩き出していた。
「……なんだ、ありゃあ」
ガストンの声が、掠れていた。
雷夕は、答えなかった。
答えられなかった。
背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がっていた。
(――踏んだだけで、あれか)
*
男が、城壁から五十歩のところで、足を止めた。
城壁を、見上げる。
雷夕と、目が合った気がした。
「――ベルリアの諸君!」
よく通る声だった。
軽く、明るく、ほとんど愉しげですらあった。
「私はディートリヒ・ヴァイス! 昨日は、私の征用兵たちが世話になった! ――殺さずに追い返してくれたそうだね。実に、優しい!」
城壁の上が、静まり返る。
「その優しさに、敬意を表して! 今日は、私が直々に、挨拶に来た!」
ディートリヒは、両腕を、大きく広げた。
「では――始めようか」
*
右の足が、地面を、強く、踏んだ。
ダンッ――!!
地面が、割れた。
いや、割れたのではない。
草地の土の上を、真っ赤な線が、何本も、何本も、走り出していた。
炎だ。
地を這う炎の筋が、ディートリヒの足元から、放射状に、城壁へ向かって駆けてくる。
一本。三本。十本。二十本。
蛇のように、うねりながら。
草を焼き、土を焦がし、轍の溝を伝い、石の継ぎ目に潜り込み――。
城壁の、根元へ。
「――下がれぇッ!」
ガストンの怒号。
次の瞬間。
ゴガァァァァァァッ――!!
北門が、燃え上がった。
*
炎が、門の木の扉を、下から舐め上げていた。
城壁の根元の石の隙間から、炎が噴き出している。石そのものが燃えているのではない。石と石の継ぎ目を、炎が這い上がってくるのだ。
熱風が、城壁の上まで吹き上げてきた。
髪が、焦げる匂いがした。
「――熱っ……!」
自警団の若い一人が、城壁の縁から飛び退く。
その足元の石の継ぎ目から、細い炎が、ちろりと顔を覗かせた。
(――上まで、来てるのか!?)
「ロゼリア!」
「分かってる!」
ロゼリアが、「霧」の瓶を、炎の噴き出す継ぎ目へ叩きつけた。
パリンッ――ブワッ!
白い霧が、一気に噴き出した。
炎が、じゅうっと音を立てて、霧の中で勢いを失う。
「――効く! 一本ずつなら、殺せる!」
ロゼリアが叫んで、次の瓶を掴む。
だが。
炎の筋は、一本ではなかった。
二十本。三十本。
ディートリヒが一歩踏むたびに、新しい筋が、地を這って走ってくる。
*
(――写せ)
雷夕は、城壁の縁から身を乗り出した。
目を、ディートリヒに向ける。
足元。
地面を踏む、その右足。そこから噴き出す、炎の筋。
固有スキル。
『劣化』の、獲物だ。
(写して、変えろ。火なら――冷気だ。砦で、火を氷に変えたみたいに)
狙いを、定める。
腕輪の留め具が、手首の上で、かすかに熱を帯びた。
「――『劣化』ッ!!」
*
手のひらに、魔力が渦を巻いた。
写し取った。
確かに、写し取った手応えがあった。
雷夕は、手のひらを、城壁の根元へ向けて振り下ろした。
――キィン、と。
澄んだ音がした。
城壁の根元の、炎が噴き出している石の継ぎ目に――白い霜が、走った。
ぴしぴしぴしぴしッ――!
石の表面に、薄い氷の膜が広がっていく。
一つの継ぎ目から、隣の継ぎ目へ。その隣へ。城壁の根元を、端から端まで、白い線が駆け抜けていく。炎の筋が、その膜に触れて、じゅっと音を立てて、細くなる。
(――よし!)
広い。
砦で火を氷に変えた時より、ずっと広い。北の城壁の根元が、ほとんど丸ごと、白く縁取られていた。
だが。
薄かった。
紙一枚ほどの霜だった。
炎の熱に炙られて、見る間に溶けていく。溶けた水が、湯気になって立ち上る。その湯気の向こうで、炎の筋が、何事もなかったように、また勢いを取り戻した。
(――薄い)
砦の時は、壁際を丸ごと、分厚い氷で塞いだ。
今度は、範囲だけがやたらと広がって、厚みが、まるでない。
(なんでだ――)
考える間もなかった。
視界の端が、ぐらりと揺れた。
*
膝から、力が抜けた。
城壁の縁に手をついて、どうにか体を支える。
(――魔力、か)
消費するのは、変質した後の効果の規模。
ロゼリアが、砦でそう言っていた。
城壁の端から端まで、霜を走らせた。
どれだけ薄くても――広さの分だけ、ごっそりと持っていかれたのだ。
厚く狭くでもなく。
薄く広く。
よりによって、一番役に立たない形に化けて、一番高い代金だけを取っていった。
(――ふざけんなよ、劣化……!)
劣化は、いつだって、予測ができない。
化ける形も。その形に払わされる、代金も。
*
「――雷夕ッ!」
ロゼリアの声が、遠くに聞こえた。
顔を上げる。
城壁の上を、炎の筋が、這い上がってきていた。
石の継ぎ目から。階段の隙間から。城壁の上の、篝火の台の脚を伝って。
自警団の若い連中が、悲鳴を上げて逃げ惑う。
一人の足元に、炎の筋が、するりと滑り込んだ。
男の足が、炎に包まれる。
「――ぎゃああああッ!」
ガストンが、そこへ飛び込んだ。
大斧を放り出して、男の体を、両腕で抱え上げる。そのまま、城壁の内側の、水瓶の方へ。
ガストンの太い左腕に、炎が、ちろりと舐めるように燃え移った。
「――おっさんッ!」
「構うな! 水だ、水持ってこいッ!」
ガストンは、男を水瓶の中に頭から突っ込み、自分の燃える左腕も、そのまま水の中へ突っ込んだ。
じゅうううっ、と。
湯気が、もうもうと立ち上った。
*
「――門が、破れるぞッ!」
城壁の下から、誰かが叫んだ。
北門の扉が、燃え落ちかけていた。
樫の分厚い板が、内側から黒く炭化し、ぼろぼろと崩れていく。閂が、熱で歪んで、軋みを上げている。
その向こうで、帝国兵の列が、動き出していた。
槍衾を揃え、盾を構え、一歩、一歩、燃える門へ向かって。
「――城壁を捨てろ!」
ガストンが、水瓶から腕を引き抜いて、怒鳴った。
左腕の袖が、焼け焦げてぼろぼろになっている。その下の皮膚が、赤く、ただれていた。
「門の内側の通りまで下がる! 荷車と樽で、道を塞げ! 急げッ!」
*
城壁の階段を、転がるように駆け下りた。
足が、もつれる。
魔力を持っていかれた体が、言うことを聞かない。
「――掴まれ」
腕を、掴まれた。
リヴァールだった。
雷夕の腕を自分の肩に回して、半ば引きずるように、階段を下りていく。
「……悪い」
「喋るな」
階段を下りきった、その時。
ガッシャアアアンッ――!!
北門が、崩れ落ちた。
燃え尽きた扉の残骸が、火の粉を撒き散らしながら、石畳の上に倒れ込む。
その向こうから、帝国兵が、なだれ込んできた。
*
「――ケイン!」
「承知!」
ケインが、剣を抜いて、門の内側に立ちはだかった。
最初の帝国兵の槍を、剣で払う。払った勢いのまま、踏み込んで、相手の盾の縁を蹴りつける。体勢を崩した兵の肩口へ、剣の柄頭を叩き込む。
ガンッ。
一人、倒れる。
二人目。三人目。
ケインは、門の内側から、一歩も退かなかった。
だが、四人目、五人目が、同時に来た。
その時。
リヴァールが、雷夕の体を、壁際に放り出すように下ろした。
剣を、抜いた。
*
踏み込んだ。
ただ、それだけだった。
剣の速さは、普通だった。
目で追える。特別な技も、魔法の光もない。ただ、真っ直ぐに、横薙ぎに振るわれた一太刀。
その一太刀が、帝国兵の盾に当たった瞬間。
――ドゴォッ!!
盾ごと、兵が吹き飛んだ。
吹き飛んだ兵が、後ろの兵を巻き込み、その後ろの兵を巻き込み、燃え落ちた門の残骸の上に、まとめて折り重なって倒れる。
見えない鉄槌を、もう一つ重ねたような、一撃。
『重撃』。
門の内側に、一瞬、空白ができた。
「――今だ、下がれ!」
リヴァールが、振り返らずに叫んだ。
*
門の内側の、坂の通り。
自警団の連中が、荷車と樽と、家々から運び出した箪笥や寝台を、通りの真ん中に積み上げていた。
その即席の壁の向こうへ、雷夕たちは、転がり込んだ。
最後に、リヴァールとケインが、壁を乗り越えてくる。
「――火矢が来るぞ!」
誰かが叫んだ。
ロゼリアが、木箱から、灰色の厚い布を引っ張り出した。
「これ被って! 燃えにくい布! 数歩分よ、過信しないで!」
自警団の連中が、布を被って、壁の陰に身を伏せる。
その上を、火矢が、ひゅんひゅんと飛び越えていった。
*
――それから、どれだけ経っただろう。
気がつくと、火矢が、止んでいた。
帝国兵の足音が、遠ざかっていく。
雷夕は、壁の陰から、そっと顔を覗かせた。
北門の跡。
燃え落ちた扉の残骸が、まだ燻っている。門の周りの家々の屋根が、三軒、四軒と焼け落ちて、黒い骨組みだけになっていた。石畳の上には、炎の筋が這った跡が、焦げた線になって、何本も何本も残っている。
帝国兵は、門の外まで、退いていた。
その門の外。
燃え残った門の柱の向こうに、ディートリヒ・ヴァイスが、一人で立っていた。
*
「――今日は、ここまでにしておこう」
明るい声が、焼け跡の向こうから響いてきた。
「門は、もう無い。明日になれば、私は、好きな時に、好きなだけ、この町に炎を走らせることができる」
ディートリヒは、煤けた籠手で、燻る門の残骸を、軽く指差した。
「だから、もう一日だけ、あげよう。――明日の日没までに、町の真ん中の館に、帝国の旗を掲げたまえ。それから、イヴァルキアの客人たちを、門の外へ差し出したまえ」
楽しげに、首を傾げる。
「そうしなければ――次は、門ではなく、町を燃やす。カランドで、そうしたようにね」
それだけ言うと、ディートリヒは踵を返した。
軽い足取りで、草地を歩いて、帝国兵の列の中へ戻っていく。
一度も、振り返らなかった。
*
焼け跡に、静けさが戻った。
燻る木の、ぱちぱちという音だけが、残った。
雷夕は、壁にもたれて、ずるずると座り込んだ。
体が、鉛のように重かった。
指一本動かすのにも、水の中で藻掻くような手間がかかる。
(――二日寝込んだ時と、同じ感じだ)
いや、あの時ほどではない。
それでも、今日はもう、劣化は撃てない。
隣に、ガストンが、どさりと腰を下ろした。
焼けただれた左腕に、ロゼリアが、薬を塗った布を巻きつけている。ガストンは、顔を顰めながらも、声一つ上げなかった。
「……おっさん」
「何だ」
「腕」
「大したことねえ。斧は、右で振れる」
ケインと同じことを言う、と思った。
*
「――何人、やられた」
ガストンが、ボリスに聞いた。
ボリスは、膝を抱えたまま、顔を上げなかった。
「……四人、です。城壁の上で。炎に、巻かれて」
ガストンは、何も言わなかった。
ただ、焼け跡の向こう、北の草地を、じっと見つめていた。
雷夕も、同じ方を見た。
黒い鎧の列の向こうに、征用兵たちの姿が見えた。
後ろに下げられたまま、一歩も動かずに。今日の戦いを、ただ、見せられていた者たち。
(――あいつらの町も、こうやって燃えたのか)
焦げた石畳の上に、炎の筋の跡が、何本も、何本も、走っていた。
まるで、地面に刻まれた、爪痕のように。




