第10話 同じ顔の壁
三日目の夕刻、フェリクスは、帝国の陣へ一通の書状を送った。
返事ではなかった。
――今しばらくの、猶予を。
それだけを記した、短い書状だった。
館の広間で、バルトロメウスは、天を仰いで嘆息した。
ガストンは、詰所で、黙って大斧の刃を研ぎ始めた。
雷夕は、何も言わなかった。
あの少年が、この三日、ほとんど眠らずに考え続けていたことを知っていたから。
それでも、決めきれなかったことを。
決めきれないまま、書けるだけのことを書いた。それが、あの書状だった。
*
四日目の、夜明け前。
北の見張り台の鐘が、鳴った。
カンカンカンカンカンカンッ――!
今度は、三度ではなかった。
途切れることなく、狂ったように打ち鳴らされる、警鐘だった。
*
雷夕は、詰所の寝台から跳ね起きた。
剣を掴む。外套を羽織る暇もなく、扉を蹴り開けて飛び出す。
外は、まだ暗かった。
北門の内側の広場に、松明の灯りが、ばらばらと灯り始めている。寝ぼけ眼の自警団の若い連中が、槍を引っ掴んで、城壁の階段へ駆けていく。
「――坊主!」
城壁の上から、ガストンの怒鳴り声が降ってきた。
「上がってこい! 来やがったぞ!」
雷夕は、石の階段を二段飛ばしで駆け上がった。
*
城壁の上から、北を見た。
息を、呑んだ。
街道の向こう。
なだらかな草地の上に、松明の列が、横一線に広がっていた。
一つ、二つではない。
数十。数百。闇の中に、等間隔に並んだ炎の点が、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
足音が、聞こえた。
ザッ、ザッ、ザッ、と。
揃っていない。
不揃いで、重たくて、引きずるような足音だった。
「……征用兵だ」
隣で、リヴァールが、低く言った。
いつの間にか、そこにいた。剣を腰に佩き、闇の向こうを、じっと見据えている。
「足並みが揃っていない。帝国の正規兵なら、あんな歩き方はさせん。――前にいるのは、カランドの連中だ」
*
松明の列が、近づいてくる。
城壁の上の篝火の灯りが、やがて、その先頭を照らし出した。
――若かった。
ほとんどが、雷夕と同じか、それより若い男たちだった。
揃いの鎧などない。野良着の上に、革の胸当てを一枚だけ着けた者。継ぎ接ぎの外套を羽織っただけの者。全員が、使い古しの長い槍を、ぎこちなく構えている。
その顔が、見えた。
怯えていた。
誰も彼もが、怯えていた。歯を食いしばり、目を見開き、それでも、足だけは前へ動かしている。
後ろから、押されているからだ。
征用兵の列の、さらに後ろ。
黒い鎧の、帝国の正規兵の列が、槍衾を作って続いていた。その穂先は、前ではなく――征用兵たちの背中に、向けられていた。
*
「――あれを、斬れってのか」
自警団の若い一人が、城壁の上で、呆然と呟いた。
ボリスだった。
欠けた前歯が、かちかちと鳴っていた。
「あいつら、カランドの……広場で、俺たちが粥を配ってる、あの人たちの……」
「ボリス」
ガストンが、低く遮った。
「矢をつがえろ」
「でも、ガストンさん――」
「つがえろ」
ガストンの声は、静かだった。
静かで、有無を言わせなかった。
「あいつらが壁を登ってきたら、俺たちが死ぬ。俺たちが死んだら、広場のあいつらの家族も死ぬ。――つがえろ、ボリス」
ボリスは、震える手で、矢を弓につがえた。
*
征用兵の列が、城壁の下まで、あと百歩というところで止まった。
一拍。
帝国兵の列の中から、太鼓が鳴った。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
それを合図に、征用兵たちが、一斉に駆け出した。
「――ウオオオオオオオッ!!」
鬨の声だった。
いや――鬨の声というには、あまりに悲痛だった。
恐怖を誤魔化すために、喉が裂けるほどに叫んでいるだけの、悲鳴に近い声だった。
長梯子を担いだ一団が、列の中から飛び出してくる。
「――射てッ!」
ガストンの号令。
城壁の上から、矢が放たれた。
ヒュンッ、ヒュヒュンッ――!
征用兵の何人かが、もんどりうって倒れる。
倒れた者の後ろから、次の者が、梯子を担いで駆けてくる。
その後ろから、また次の者が。
止まらなかった。
止まれば、後ろの槍に突かれるからだ。
*
ガツンッ――!
梯子が、城壁に掛かった。
一本。二本。五本。
征用兵たちが、梯子を這い上がってくる。
「――ロゼリア!」
「分かってる!」
ロゼリアが、腰の袋から、素焼きの瓶を掴み出した。
「霧」と書かれた瓶ではない。
もう一つ、旅の間にこっそり拵えていた、底に粘土の重しを詰めた、灰色の瓶だった。
「下がって!」
城壁の縁から、梯子の根元へ向けて、投げ落とす。
パリンッ。
瓶が割れた瞬間、中から、ぬらぬらと光る液体が飛び散った。
梯子の根元。
征用兵たちの足元の石畳が、一面、てらてらと濡れて光る。
次の瞬間、梯子を登りかけていた征用兵たちの足が、一斉に、滑った。
「――うわっ!?」
「足が、足が――!」
ずるり、ずるりと。
梯子の段に足をかけようとするたびに、靴底が、まるで氷の上のように滑っていく。
「油に、石鹸の灰と、魚の脂を混ぜたもの」
ロゼリアが、早口で言った。
「燃えないように、ちゃんと配合してあるわ。――殺さずに、登らせない。それだけの道具よ」
*
それでも、全ての梯子は止められなかった。
城壁の東寄りの一本を、征用兵が、這い上がってきた。
一人。
二人。
城壁の縁に、手が掛かる。
雷夕は、そこへ駆けた。
縁から身を乗り出してきたのは、まだ少年と呼んでいい顔だった。
十五か、十六。
細い腕。震える穂先。その目は、恐怖で、真っ赤に充血していた。
少年が、雷夕を見た。
雷夕も、少年を見た。
一瞬。
――少年の槍が、突き出された。
ほとんど、目を瞑って突いた一撃だった。
雷夕は、体を開いて、それを躱した。
躱しざまに、剣の柄頭で、少年の手首を打った。
ガツッ。
槍が、少年の手から離れて、城壁の外へ落ちていく。
少年が、呆然と、空になった自分の手を見下ろした。
(――斬れるか、こんなの)
雷夕は、少年の胸倉を掴んで、城壁の内側へ引きずり込んだ。
「――ケイン! こいつ、縛っといてくれ!」
「承知!」
*
「――坊主、甘えぞ!」
ガストンの怒鳴り声が、横から飛んできた。
ガストンは、別の梯子の上で、大斧を振るっていた。
刃ではなく、斧の背で。這い上がってくる征用兵の肩を打ち、梯子ごと、城壁の外へ突き落とす。
落ちた征用兵は、下の仲間の上に折り重なって倒れた。
死んではいない。
骨の一本くらいは、折れたかもしれないが。
「甘えのは、おっさんもだろ!」
「俺は甘くねえ! 斧の刃が欠けるのが嫌なだけだ!」
(――嘘つけ)
雷夕は、笑いそうになって――笑えなかった。
城壁の下で、矢に射抜かれた征用兵が、動かなくなっているのが見えたから。
*
夜が、白み始めていた。
梯子の数が、減っていた。
滑る石畳に足を取られ、斧の背で突き落とされ、城壁の上から投げ落とされた石に打たれ――征用兵たちの勢いが、目に見えて鈍っていく。
一人が、梯子の途中で、動きを止めた。
登るのを、やめたのだ。
それを見た隣の梯子の男も、足を止めた。
その隣も。
城壁の下で、征用兵たちが、立ち尽くし始めた。
(――止まった)
もう、登ってこない。
恐怖と疲労の限界を、とうに越えていた。
雷夕は、息を吐きかけて――。
その時、城壁の下から、悲鳴が上がった。
*
「――逃げるな! 前へ進め!」
帝国兵の怒号。
征用兵の列の、後ろからだった。
立ち尽くした征用兵の一人が、恐怖に耐えかねて、梯子を捨てて後ろへ走り出していた。帝国兵の槍衾の方へ。
その背中に、矢が突き立った。
帝国兵の、矢だった。
男は、二、三歩よろめいて、草地の上に崩れ落ちた。
「――前へ進め! 退く者は、こうなる!」
征用兵たちが、悲鳴を上げて、また梯子に取りついた。
震える手で。
泣きながら。
雷夕は、城壁の縁を、拳で殴りつけていた。
「……ふざけんな」
声が、自分でも驚くほど、低く掠れていた。
「ふざけんなよ、あいつら……!」
*
それから、半刻。
太陽が、すっかり昇りきった頃。
帝国軍の陣の方角から、角笛が、長く一度だけ鳴った。
退却の合図だった。
征用兵たちが、梯子を捨てて、ばらばらと退いていく。
倒れた仲間を、引きずるようにして。担ぐようにして。担げない者は、置き去りにして。
帝国兵の列は、彼らが全員退いてから、整然と、向きを変えた。
一度も、前に出ないまま。
城壁の上で、誰かが、へたり込むように座り込んだ。
勝ったのか、と誰かが聞いた。
誰も、答えなかった。
*
雷夕は、城壁の縁に手をついて、草地を見下ろしていた。
梯子が、何本も転がっている。
槍が。盾が。片方だけの靴が。
そして、動かなくなった征用兵たちが。
十人か。
二十人か。
数える気には、なれなかった。
「――雷夕」
ロゼリアが、隣に立った。
煤と泥で汚れた顔。手には、空になった瓶の袋。
「……あんた、一度も、劣化使わなかったわね」
「使えるか」
雷夕は、吐き捨てるように言った。
「あいつら、魔法なんか一つも使ってなかった。槍持って、梯子登ってきただけだ。――写すもんが、何もなかった」
ロゼリアは、何も言わなかった。
ただ、雷夕の隣で、同じように草地を見下ろしていた。
*
城壁の内側の広場では、縛られた征用兵が、三人、地面に座らされていた。
雷夕が引きずり込んだ少年も、その中にいた。
ケインが、三人に水を飲ませている。
少年は、震える手で椀を受け取り、一息に飲み干して――それから、声を上げて泣き出した。
「……カスパーっていうらしいわ、あの子」
ロゼリアが、小さく言った。
「鍛冶屋の徒弟だって。十五歳」
雷夕は、何も答えなかった。
広場の隅で、ボリスが、弓を抱えたまま、膝を抱えて座り込んでいた。
欠けた前歯を、ぎりぎりと噛みしめて。
その肩を、ガストンが、黙って一度だけ叩いていった。
*
北の草地の、さらに向こう。
帝国軍の陣の、小高い丘の上に、黒い軍馬が一頭、立っていた。
鞍の上の若い男は、遠眼鏡を目から外して、楽しげに笑っていた。
「――ほう」
煤けた籠手で、遠眼鏡を畳む。
「斬らなかったな、あの壁の上の連中は。……殺さずに止める道具に、殺さずに突き落とす斧。甘い。実に甘い」
傍らの副官に、遠眼鏡を放る。
「劣化の傭兵は、見えたか」
「は。城壁の東寄りに。――征用兵の一人を、斬らずに引きずり込んでいたようです」
「そうか」
ディートリヒ・ヴァイスは、ベルリアの城壁を、じっと見つめた。
それから、くすりと笑った。
「なら、明日は、私が行こう」
軍馬の首を、ゆっくりと返す。
「甘い連中には、甘さが通じない相手を見せてやるのが、一番よく効く」




