第9話 天幕の下で
帝国の使者が北門に現れたのは、ガストンとの手合わせから、二日後の朝だった。
見張り台の鐘が、短く三度鳴った。
カン、カン、カン。
警鐘ではない。
「使者来たる」の合図だった。ガストンが、三年前から決めていた打ち方だと、ボリスが教えてくれた。
雷夕は、詰所から飛び出した。
北門の外。
城壁の上から見下ろすと、街道の真ん中に、騎馬が三騎、止まっていた。
先頭の一騎が、白い布を結びつけた槍を、高く掲げている。
黒地に金の紋章の外套。磨き上げられた鎧。帝国の正規の兵だった。
「――ベルリア領主、フェリクス殿に申し上げる!」
先頭の騎兵が、城壁を見上げて、よく通る声を張り上げた。
「帝国軍司令、ディートリヒ・ヴァイス閣下より、書状をお持ちした! 門を開けられたし!」
*
門は、開けられなかった。
城壁の上から縄で籠が下ろされ、書状だけが引き上げられた。ガストンの判断だった。
「門を開けたら、その隙に何人か潜り込ませてくるに決まってる。――帝国の連中が、お行儀よく書状だけ届けに来るわけがねえ」
書状は、そのまま館へ届けられた。
雷夕たちも、館に呼ばれた。
イヴァルキアの使者として、ではなかった。
書状の中に、彼らの名前が書かれていたからだった。
*
館の広間は、二日前と同じだった。
東向きの窓。擦り切れた緑の絨毯。壁の五枚の肖像画。
ただ、空気が違った。
壇の上の椅子に、フェリクスが座っていた。
膝の上に、羊皮紙を一枚、握りしめている。黒い蝋の封は、既に切られていた。
少年の顔は、紙のように白かった。
壇の左右に並んだ重臣たちも、二日前とは違っていた。
誰も、値踏みするような目で雷夕たちを見てはいなかった。代わりに、目を逸らしていた。
雷夕たちと、目を合わせないように。
(――ああ)
それだけで、書状に何が書いてあったのか、だいたい分かった。
*
「……読み上げます」
フェリクスが、掠れた声で言った。
羊皮紙を広げる。
指先が、震えていた。
「一つ。城門を開き、帝国の旗を掲げること。
二つ。町の十五から四十までの男を、征用兵として差し出すこと。
三つ――」
少年の声が、途切れた。
唇を噛む。
もう一度、紙に目を落とす。
「……三つ。イヴァルキアの使者四人を、捕らえて、帝国軍へ引き渡すこと」
広間が、しんと静まり返った。
「期限は、三日。三日のうちに返事がなければ、帝国軍は、ベルリアへ進む、と」
*
雷夕は、黙って立っていた。
驚きは、なかった。
重臣たちが目を逸らした時点で、覚悟はできていた。
隣で、ケインが、半歩だけ、雷夕の前へ出た。
護衛の位置だった。
後ろで、ロゼリアが、腰の工具袋に、そっと手をかける気配がした。
リヴァールは、動かなかった。
ただ、壁際に立ったまま、広間の扉と窓の位置を、目だけで確かめていた。
「――フェリクス様」
白い顎髭の老人、バルトロメウスが、一歩前に出た。
「お分かりでしょう。これは、帝国からの最後の情けです」
「……情け、ですか」
「左様。四人を差し出せば、ベルリアは助かる。カランドのように、町を焼かれることもない。――四人と、ベルリアの民全て。天秤にかけるまでもありますまい」
*
雷夕の背後で、ロゼリアが、小さく舌打ちした。
ケインが、半歩前に出たまま、微動だにしない。
雷夕は、バルトロメウスの顔を見た。
老人の目には、悪意はなかった。
ただ、疲れ切っていた。この町を守るために、計算をして、計算をして、計算をし尽くした者の目だった。
(――この爺さんも、町を守りたいだけなんだよな)
そう思った。
思ったからといって、黙って捕まってやる気は、これっぽっちもなかったが。
「――バルトロメウス殿」
雷夕は、静かに口を開いた。
「一つだけ、聞いていいですか」
「……何ですかな」
「カランドは、降伏して、条件を全部呑んだんですよね。門を開けて、旗を掲げて、兵を差し出して」
「左様」
「それでも、町を一つ焼かれた」
バルトロメウスの目が、僅かに揺れた。
「俺たち四人を差し出したら、ベルリアは焼かれないって。――それ、誰が保証してくれるんですか」
*
広間の空気が、凍りついた。
バルトロメウスは、答えなかった。
答えられなかったのだと、雷夕には分かった。
「――黙れ、使者殿」
重臣の一人が、声を荒げた。
「あなた方が来なければ、帝国はこのような条件を付けなかった! そもそも、イヴァルキアが余計な真似をしなければ――」
「やめてください!」
壇の上から、声が響いた。
フェリクスだった。
椅子から、立ち上がっていた。
羊皮紙を握りしめたまま、肩で息をしている。
「……やめて、ください。お願いだから」
その声は、ひどく震えていた。
少年は、壇の上で、ぐらりとよろめいた。
*
――気づいた時には、雷夕は、壇の前まで歩み寄っていた。
ケインが、止めようとして、止めなかった。
「フェリクス殿」
少年が、雷夕を見下ろした。
その目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「……私は」
「返事は、三日後でいいんですよね」
雷夕は、少年の言葉を遮った。
「なら、一つだけ、頼みがあります」
「……頼み?」
「今日の昼。一刻だけ、俺に付き合ってください」
広間が、ざわめいた。
「無礼な――」とバルトロメウスが言いかけるのを、雷夕は、振り返らずに手で制した。
「見てほしいものがあるんです。――決めるのは、それを見てからでも、遅くないと思うから」
*
フェリクスは、長い間、雷夕の顔を見つめていた。
それから、震える声で、言った。
「……分かりました」
*
昼過ぎ。
雷夕は、フェリクスを連れて、市場の広場へ向かった。
少年は、領主の上着を脱いで、ガストンが貸してくれた、ぶかぶかの自警団の外套を羽織っていた。フードを目深に被れば、ただの痩せた町の少年にしか見えない。
(――アリシアの真似みたいだな)
お忍び。
初めてアリシアと城下を歩いた日のことを、ふと思い出した。
護衛には、ケインが一人だけ、少し離れてついてきていた。
バルトロメウスは最後まで反対したが、フェリクスが、自分で押し切った。
*
市場の広場は、二日前よりも、さらに人が増えていた。
カランドから逃れてきた人々の天幕が、広場の端から端まで、ぎっしりと並んでいる。
継ぎ接ぎの布。木の枝の骨組み。地面に直に敷かれた藁。その隙間を縫うように、ベルリアの町の女たちが、大鍋を抱えて回っていた。
煮炊きの煙。
子供の泣き声。
咳の音。
フェリクスの足が、広場の入り口で、止まった。
「……こんなに」
フードの下から、掠れた声が漏れた。
「報告では、聞いていました。カランドから、数百人が逃れてきたと。広場を開放して、町の者に炊き出しをさせていると。――でも」
少年は、天幕の列を、呆然と見渡していた。
「数百人、って。……こういう、ことだったんですね」
*
雷夕は、天幕の間を、ゆっくりと歩いた。
フェリクスが、その後ろを、おずおずとついてくる。
天幕の一つの前で、老人が、膝を抱えて座り込んでいた。
焼け焦げた袖。火傷の痕が、手の甲から手首にかけて、赤黒く広がっている。
別の天幕の前では、若い母親が、赤子に乳を含ませていた。
母親の頬は、げっそりと痩せこけていた。赤子は、なかなか乳に吸いつかず、か細い声で泣き続けている。
「――あの」
フェリクスが、母親の前で、足を止めた。
母親が、怯えたように顔を上げる。
「……何か、足りないものは、ありますか」
母親は、きょとんとした顔で、フードの少年を見上げた。
それから、力なく笑った。
「足りないもの、ですか」
腕の中の赤子を、そっと揺する。
「……家、ですかね」
フェリクスは、何も言えなかった。
*
天幕の列の、一番奥。
見覚えのある顔が、そこにあった。
二日前、荷馬車に駆け寄ってきた少女だった。
大きすぎる大人の上着を、何重にも袖を折り返して着ている。天幕の前で、小さな石を並べて、何かを数えていた。
その後ろで、母親が、繕い物をしていた。
「――あ」
少女が、雷夕に気づいて、顔を上げた。
「西から来たおじさん」
「おじさんはやめてくれ。まだ若いんだ」
雷夕は、少女の前にしゃがみ込んだ。
「何してるんだ、それ」
「数えてるの」
少女は、地面に並べた石を、指差した。
小さな石が、二列に、二十と幾つか。
「お兄ちゃんが連れて行かれてから、一日に一個ずつ、並べてるの。……もうすぐ、三十個になる」
*
フェリクスが、雷夕の後ろで、息を呑んだ。
少女は、フードの少年を見上げて、首を傾げた。
「お兄ちゃんも、おじさんたちの仲間?」
「……いや、俺は――」
フェリクスが、言葉に詰まる。
「この人は、この町の人だ」
雷夕が、代わりに答えた。
「そっか」
少女は、また石に目を落とした。
それから、ぽつりと言った。
「ねえ。お兄ちゃんね、帝国の兵隊さんたちと一緒に、こっちに来るんだって。お母さんが、そう言ってた」
母親の、繕い物をする手が、止まった。
「ベルリアに、槍を持って来るんだって。――そしたら、会えるかなあ」
*
雷夕は、何も言えなかった。
少女は、無邪気な顔で、こちらを見上げていた。
兄に会えるかもしれない、という期待だけを、その目に灯して。
兄が、どういう形で、この町に来るのか。
来た兄に、この町の人間が、何をしなければならないのか。
少女は、まだ、何も分かっていなかった。
「――エマ」
母親が、静かに娘の名を呼んだ。
「お客様を、困らせないの」
「困らせてないよ」
「……そうね」
母親は、繕い物を膝の上に置いて、雷夕たちを見上げた。
煤けた頬。窪んだ目。
けれど、その目は、真っ直ぐだった。
「――ベルリアの方、ですか」
フードの少年に向かって、そう言った。
フェリクスの肩が、びくりと揺れた。
「……はい」
「なら、お願いがあります」
母親は、両手を膝の上で揃えて、深く頭を下げた。
「息子に会ったら。――どうか、殺さないでやってください」
*
フェリクスの手が、震えていた。
ぶかぶかの外套の袖の中で、指輪を握りしめているのが、雷夕には分かった。
「息子は、ヤンといいます。二十歳です。槍なんて、握ったこともない子でした。父親の遺した作業場で、桶や樽を作っていた子です」
母親の声は、静かだった。
静かで、だからこそ、一言一言が、重かった。
「あの子は、望んで槍を持ったんじゃありません。……私たちを逃がすために、帝国の兵に掴まって、連れて行かれたんです」
「……」
「勝手なお願いだと、分かっています。ベルリアの方々にとっては、あの子も、攻めてくる敵の一人ですから。――でも」
母親は、顔を上げた。
「母親ですから。……言わずには、いられないんです」
*
フェリクスは、長い間、何も言わなかった。
やがて。
少年は、フードを、ゆっくりと外した。
撫でつけた栗色の髪。
細い顔。目の下の隈。
母親が、怪訝そうに眉を寄せた。
それから、少年の指に光る、大きすぎる金の指輪に気づいて――目を、見開いた。
「――あなた、は」
「ベルリア領主、フェリクスです」
少年は、母親の前に、膝をついた。
領主が、難民の前に、膝をついた。
天幕の周りで、何事かと様子を窺っていた人々が、ざわりと息を呑んだ。
*
「……お約束は、できません」
フェリクスは、母親の目を見て、言った。
声は、震えていた。
それでも、目は、逸らさなかった。
「戦になれば、ベルリアの兵は、前から来る者を斬らなければなりません。私に、それを止める力は、ありません」
「……はい」
「でも」
フェリクスは、地面に並べられた石を、見下ろした。
二十と幾つかの、小さな石。
一日に一個ずつ。もうすぐ、三十個になる。
「……でも、考えます。どうすれば、あなたの息子さんを、斬らずに済むのか。どうすれば、この石が、三十個で止まるのか」
少年の声が、少しだけ、強くなった。
「それを考えるのが、領主の仕事だと――父なら、そう言うと思うので」
*
母親は、しばらく、フェリクスの顔を見つめていた。
それから、もう一度、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
その声は、泣いていた。
エマが、母親と、膝をついた少年とを、不思議そうに見比べていた。
「――領主様なの?」
「……はい」
「えらい人?」
「えらくは、ないです。……まだ、全然」
フェリクスは、少しだけ笑った。
泣き出す一歩手前の、笑顔だった。
*
市場の広場を出た時には、日がずいぶん傾いていた。
フェリクスは、館へ続く坂道を、黙って歩いていた。
雷夕も、黙って、その隣を歩いた。
ケインが、少し離れて、後ろからついてくる。
坂の途中で、少年が、足を止めた。
「――霧島殿」
「ん」
「あなたは、これを、私に見せたかったんですね」
雷夕は、少し考えてから、首を横に振った。
「見せたかった、っていうか。……見てないなら、見た方がいいと思った。それだけです」
「……」
「俺は、使者だから。ベルリアがどうするか、口を出す立場じゃない。――でも、決めるのは、全部見てからにしてほしかった。重臣の爺さんたちの計算の中には、たぶん、あの石は入ってないから」
フェリクスは、俯いた。
指輪が、指の付け根で、くるりと回った。
それを、少年は、ぎゅっと握りしめた。
「……三日」
小さな声だった。
「三日のうちに、決めます。――必ず」
雷夕は、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
坂の上で、館の屋根の緑の旗が、夕方の風に煽られて、ばたばたと鳴っていた。




